20)リンと高貴なお坊ちゃま01
空は高く、空気は冷たく澄んで、カッチーニ山の落葉樹は葉を緑から黄色や赤色に変えて秋の深まりを教えてくれる。春の若緑、夏の濃い緑の山とは違って、色彩豊かな秋の山は賑やかな印象だ。
カッチーニ山の山道は十二月から二月末までの三ヶ月間は冬期閉鎖期間として、通行はできなくなる。平野に近い部分はそうでもないが、中腹から山頂にかけては雪が多く通行や宿泊が危険であるためだ。
十月も後半になり、カッチーニ山道を通ることができる時間が少なって来たせいか、徐々に旅人の数が多くなっているように感じる。
リンは少し昼食用の仕込みや、お弁当用のサンドイッチを多く作りながら変わらぬ毎日を送っていた。
午後も三時を過ぎ、カッチーニ山南山道入り口はのんびりとした時間が流れている。
リンはイチジクのジャムと栗のペースト作りの準備をしていたのだが、「おい!」と声をかけられて驚いた。店の入り口にあるスイングドアは人が通るときに動かせば、必ずキイキイと音を立ててリンに来客を教えてくれる。ドアベルの役目も果たしているのだ。だが、そんな音はしなかった。
「ん?」
「おい! ここだ!」
ダンダンと床を踏み鳴らす音も聞こえ、リンがキッチンから出てようやくカウンター横にいる少年に気が付く。背が足らず、カウンターの影に隠れてしまっていたのだ。ついでに、スイングドアにも背が足らないため普通に潜り抜けて入店したらしい。
「……申し訳ありません、気付きませんでした。いらっしゃいませ」
リンはその場で屈み、視線を合わせる。
年の頃は五歳か六歳ほどだろうか、銀色の美しい髪に青い瞳を持った少年だ。着ている物も上等な品であることが伺えるため、下級貴族の令息か、裕福な平民階級の子息だろう。
「ここは休憩所だと聞いた。食事とベッドを用意しろ!」
「……お客様、おっしゃる通りここは休憩施設でございます。しかし、無料ではございません。食事もベッドも有料、代金を頂戴致します。お客様にはそのご用意がありますでしょうか?」
「な、なんだと! 僕を誰だと思ってるんだ!!」
顔を赤くし、ダンダンと足を踏み鳴らす。そして、リンに掴みかかり髪を引っ張ったり叩いたりし始めた。
「ちょっと、お客様……止めてください」
「僕は、アンジェロ・バルトリーニだぞ!! 僕の言うことを聞けッ」
その後、大きな声で癇癪を起されて、騒ぎを聞きつけた警備隊員たちとようやく追いついて来たアンジェロの守り役(途中で荷物を積んだ山アルパカが動かなくなってしまい、アンジェロを追いかけることができなかった)である青年がやって来てアンジェロとリンを引き離してくれた。
守り役の青年に羽交い絞めにされても、アンジェロは手足をバタつかせて自分の名前を叫び、言うことを聞けと言い続ける。
リンはその名前に全く覚えがなかった。
「申し訳ありませんが二名で三泊、お世話になりたく思います。その後延長する可能性がありますが、まずは三日間お願いします」
アンジェロの守り役、ミケーレは疲れ果てた様子でリンに一万ベルコインを六枚前払いで支払った。
自分の思い通りにならないと癇癪を起すアンジェロの態度を考えると不安が多いが、お代を貰えるというのならば仕事である。管理人としてやらなければならない。
リンは一階奥にある広い客室を用意し、二人を案内した。
シーツは洗い立てのものを敷いてあるし、枕と毛布も干してある。部屋は簡素だが清潔だ。
ミケーレにアンジェロの生活リズムと好き嫌いや食品アレルギーの有無を聞き取り、夕食は七時、朝食は八時、昼食はお弁当を用意することを決めた。手洗いや浴室の場所を説明し、タオルや洗濯ものの話をして説明を終える。
その間、アンジェロはコマドリ亭のウッドデッキに座り、警備隊厩舎にいる山アルパカの絵を描いていた。リンはそっと後ろからスケッチブックを覗いたが、子どもが描いたとは思えない見事な出来栄えの絵だ。
「アンジェロ坊ちゃまは絵の才能がおありですし、ご本人も絵を描くことがお好きなのです」
「では、ここに来たのは絵を描きに?」
「はい。スケッチ旅行、といえば恰好がいいのですけれど。カッチーニ山の山道には、絵の題材となる名所が幾つかございます。湖や小さな滝、樹齢百年を越えるスギの巨木など。四日間の間にまわってみるつもりなのです」
後からジュリオに聞いたところ、山道に入り一時間以内のところに湖や滝、花畑などがあるとのことだ。樹齢百年を越えるスギの巨木というのは、幾つかあるのだがそれらは歩いて五時間から六時間ほど進んだところにあるらしいので、アンジェロが行くのは難しそうだ。
だが、湖や滝、花畑ならば行って帰ってこられる距離にあり、山道もそんなに険しくないらしいので、それらの絵を描いて過ごすのだろう。
リンは絵を描きながら食べられるお弁当を考え、手を拭くおしぼりを多く用意しなければなぁと思いながら、真剣な顔で山アルパカを描くアンジェロを見守った。
* * *
アンジェロは朝起きてリンの作った朝食をいっぱい食べ、サンドイッチとお惣菜という弁当と冷たい紅茶と水の入った水筒を持ってミケーレと共に湖に出かける。夕方帰って来るとお風呂に入ってから夕食を食べ、食堂や部屋で絵の続きを描くという生活を始めた。
思いの外アンジェロは初日からリンの作る家庭料理を「美味しい」と言ってよく食べ、昼のサンドイッチ弁当も完食してくる。さらに「卵焼きが食べたい」だの「肉の丸まったやつが食べたい」だのと要望を言うほどだ。
普段は帝都で暮らしていると聞いたので、いくら好きな絵を描くためとはいってもこんな山の中での生活を小さな子どもであるアンジェロができるのか……また癇癪を起すのではないかと心配したが、そんな様子はない。
毎日湖や滝に出かけて絵を描き、山アルパカやロバ、警備隊員たちやウイカとミーナ母子、リンの姿なども描いており、絵を通じてここに暮らす皆とも打ち解けている。
あっという間に当初の予定だった三日が過ぎ、ミケーレはさらに五日の延長を申し出て再び十万ベルを前金で支払う。
もしかして、このまま長期滞在するつもりなのかしら? リンはそう思いながら、アンジェロから今日描いた絵の説明を受けるのだった。
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