15)リンと辺境伯家のご令息02
「ど、どうなさったのですか? あ、婚約破棄が上手くいっていないのですか? わかりましたわ、わたくしがお父様に頼んで婚約を……」
「イレーヌ」
カルロの声にイレーヌも周囲の侍女たちもビクッと体を震わせた。
彼女たちの知るカルロ・アリオストという令息は明るく優しい、荒っぽいところのない青年である。そのカルロが大きな声で名前を呼んだ、今までにない顔に驚きを隠せない。
「……え?」
「アルベルタとの婚約は無くならない」
「ど、どうして? あんな何の役にも立ちそうにない方より、現アルファーノ子爵令嬢であるわたくしの方が……」
「アルベルタを望んだのは俺だ。一年近くアルベルタの家に通って、頼み込んで、やっと婚約を許して貰えた。彼女は俺の唯一で、最愛だ」
イレーヌの目が限界まで見開かれる。
「嘘……カルロ様の最愛は、わたくしで……」
「キミのことは親戚として、家族として大事に思っている。それ以上の気持ちはない」
「……嘘、嘘、う……そ……」
「それに、次のアルファーノ子爵についても俺が決定してるわけじゃない。あくまで、俺は候補の一人に過ぎないし、もしも叔父上の役目を俺が継ぐことになったとしても、俺の妻はアルベルタだ。キミじゃない」
「う……そよ……」
「嘘じゃない。これは後継者候補に選ばれたとき、叔父上と我が家で決められたことだ。俺が後継者に選ばれようが、選ばれなかろうが、そんなことは関係なく俺の婚約者はアルベルタで、結婚して一緒に人生を歩む相手なんだ」
その場にいたカルロ以外の全員が息を飲んだ。
「俺の言葉が信じられないのなら、叔父上に聞いてみるといい」
「……」
カルロはさらに上着の内ポケットから一枚の紙を出し、テーブルの上に広げる。
「それから、あの事故のことだけど……調べさせて貰ったよ」
「……え」
「あの事故の前、アルベルタを呼び出した使用人がいた。俺に関係することだから、そんな内容だったようだ。呼ばれたアルベルタは事故現場近くに行ってその場に突き飛ばされ、そこへ庭仕事の道具が落ちて来た。突き飛ばした使用人はすでに捕縛して、警備隊に身柄を預けてある」
イレーヌの顔から色が消える。赤味が消えて青く、そして白へ。
「それから、庭仕事の道具を固定していたロープを切った庭師も捕縛しているよ。彼らにそうするように指示した侍女も、今警備隊で話を聞いている。そのうち、全てがわかると思う。あの事故の真相が」
「……か、カルロ様」
カルロがテーブルに置いた紙には、アルベルタを呼び出して突き飛ばしたメイドの名前、庭道具を固定していたロープを切った庭師の名前、彼らに指示を出した侍女の名前が書かれていた。
そして、その全員がアルファーノ子爵家に雇用されていることも、侍女がイレーヌの側にいた者であることも。
「ち、違いますわ。わたくし、なにもしておりませんし、なにも命じてなんていませんわ」
「……そうだろうね、直接あれしろこれしろなんて、キミは言わない。でも、それで十分なんじゃないか? キミの希望を聞いた侍女や使用人たちが、その希望を叶えようと動く……それを見越していなかった、とは思えない」
イレーヌは俯いた。
目の前にはお気に入りのティーセット、大好きな茶葉の紅茶、可愛らしく作られた焼き菓子。これら自分の大好きなものを、大好きなカルロとともに味わうのが好きだった。
誰よりも、カルロが好きだ。まだ幼かったころから好きだった。優しくて素敵な従兄と結婚して、この街でずっと暮らしたい。そう思っただけだ。
そのためには、婚約者であるアルベルタが邪魔だった。だから、だから……
「叔父上にはキミ自身で話をした方がいい。もう、これは叔父上の耳に入っていることだから」
「え、お父様に……? そんな」
カルロはゆっくりと席を立つ。テーブルの上の紅茶も焼き菓子にも手を付けていない。
「……先ほど叔父上にお会いして、後継者候補を辞退した。バディーニ警備隊も除隊した」
「は? ど、どうして、貴族でいられるのに……」
「最初から俺はどうでもよかったんだ、貴族なんて」
アリオスト辺境伯家は名門だ。だが、後を継ぐのは長兄、長兄の補助を次兄が行い、三男であるカルロは家を出ることが決まっていた。
だから物心つくころにはもう、平民として生きると決めていた。貴族籍になど拘っていない。
「さよなら、イレーヌ。キミは俺にとって可愛い妹のような存在だった、親戚として大事に思っていた。けど、俺の婚約者を傷つけたことは許せない」
カルロはイレーヌが自分を呼ぶ声、泣き叫ぶ声を無視してアルファーノ子爵邸を後にした。
警備隊宿舎で荷物を纏めると、そのまま馬を駆りカッチーニ山の南山道入り口に向かう。南山道入り口にあるコマドリ亭なる休憩所に、アルベルタが待っているはずだから。
なんとしてもアルベルタに許して貰わなくてはならない。
イレーヌとの距離の近さ、イレーヌの気持ちや彼女を大切に思う使用人たちの行動に全く気付かなかった鈍さ、勢いで口走った言葉。その全てが、婚約者を傷つけていた。
カルロの知らなかった話(カルロが婿入りする形でイレーヌと結婚し、次の領主になるという内容)は街に暮らす人たちも、警備隊の先輩同僚の中にも当然のように流れていて……ルカには「どうして知らなかったんだ? 知っていて放置しているから、代官様と内々に話をつけているのかと思っていた」といわれる始末だ。
今思えば、自分の耳に入らないように操作されていたんだろうと思う。あれだけ周囲の人間が知っていたのに、カルロだけが知らなかったなんておかしいことだ。
思えば思うほど、自分の愚かさに腹が立つ。
休憩所にいた年若い管理人が怒っていたのも、当然のように思う。
またあのスイングドアを開けた瞬間、豆をぶつけられたりするだろうか? いや、アルベルタに会って話ができるのならいくらぶつけて貰っても構わない。
カルロは謝罪の言葉を頭の中で幾つも考えながら、カッチーニ山南山道入り口に向かって馬を走らせた。
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