章 ― 最後の交渉
「そうです、気に入りました、その態度。では聞きましょう。この薬は、何でできている?」白衣のポケットから青い“エクストラ”を取り出す。
「どういう意味だ!」マルスの目が見開かれる。
「とぼけないでください。私はこの業界に三十年いますが、こんな薬は見たことがない。最初の二時間はまさに夢のようだ。病院の患者は、重篤な病を除けばほぼ全ての病が治癒した。人体の生命活動は強化され、九十歳の老人でさえ普通に走れるようになった。だが数時間後、それは想像を絶する強力な麻薬に変わる。一度飲めば、一分ごとに、もっと欲しくてたまらなくなる。人はゾンビのようになり、苦しみながらも麻薬のせいで自分が死につつあることさえ忘れる。しかも三日間飲まなければ効果は消える。都合がいい。さあ、答えを聞かせてもらおうか」
「よく喋るな。そこまで観察して、秘密がわからなかったのか?残念だが、俺は製造に関わってない。答えられるわけがない」
科学者の顔から笑みが消えた。
「痛めつけろ」
「何だと?」男の一人がマルスの脚を蹴り、マルスは倒れた。
「何しやがる!」
二発目、三発目。容赦なく三人の男が蹴り続ける。
科学者が叫ぶ。「嘘をつくな!早く言え!さもないと殺すぞ!」
マルスの視界はぼやけていく。
(なぜ俺は殴られている?いつからこんなに弱くなった?人生を武器に捧げてきた。あの女に、人を殺すなと叱られるまでは。家族ができて、人の暮らしが少しだけわかるようになって、必要以外は殺すのをやめた。だが、もうどうでもいい。警告しても逆上して、結局殺すことになった。今日だけで何人も殺した。もう、誰が気にする?)
マルスは男の一人の足首を掴み、思い切り引いた。男が倒れる。他の二人を突き飛ばす。
「何をしている!」
倒れた男から二丁の拳銃を奪い取る。武装した男たちが一斉に銃を向ける。
「止まれ!銃を捨てろ!」
マルスは二丁を構え、姿勢を正した。
科学者が叫ぶ。「何を突っ立ってる!あいつは殺し屋だ、殺せ!」
マルスは一発、科学者の額を撃ち抜いた。男はそのまま倒れる。
全員が一斉に機関銃を乱射した。何十発もの弾丸、部屋中が硝煙に包まれる。
老人が手を上げた。「止めろ!」全員が射撃をやめる。目を凝らして煙の向こうを見る。煙がゆっくりと晴れていく。
老人の目が見開かれた。
マルスは倒れた男を盾にしていた。男の体は蜂の巣だ。マルスは死体を投げ捨て、銃を構える。一発、老人の額を撃ち抜く。両手の銃で撃ち続ける。
右の一人はこめかみを撃ち抜かれて崩れ落ち、左の一人は喉を撃たれて血を噴き出しながら倒れる。正面の二人は胸を立て続けに撃たれ、壁に縫い付けられるようにして絶命する。残りの一人は逃げようとして背中を撃たれ、その場に伏した。
弾が切れる。残りの男たちが撃ってくる。マルスは素早く血と死体の海に伏せ、床に落ちていた機関銃を拾う。構え、引き金を引いた。何十発もの弾丸が部屋中にばら撒かれる。男たちの悲鳴が上がり、次々と倒れていく。
「化け物だ!逃げろ!」
「無理だ!」
「死にたくない!」
やがて、静寂が訪れた。
床一面は血の海だった。真っ白だった部屋は赤黒く染まり、肉片と薬莢が散乱している。壁には無数の弾痕が穿たれ、死体は折り重なり、ある者は目を見開いたまま、ある者は顔を潰されて倒れていた。生暖かい血の臭いと硝煙の臭いが充満し、足の踏み場もない。
マルスは機関銃を投げ捨て、エレベーターへと走った。一歩、また一歩。エレベーターに辿り着き、扉を開ける。
ふと思い出す。「そうだ」床に落ちた拳銃を拾い、隠し持つ。エレベーターの最上階、20階のボタンを押した。
「交渉は失敗した。だが少なくとも、ここのトップとは話をしないと。あの現場で何が起きているのか、知らないかもしれないからな」
20階に到着。扉が開き、走り出す。廊下の突き当たりに扉がある。
「きっと社長室だ」
マルスは扉の前に立ち、ノブに手をかけ、唾を飲み込んで扉を開けた。
開けた瞬間、
「すみません……」マルスの目が見開かれた。そこにいたのは女だった。ただの女ではない。数年前に会った、あの占い師だった。
女は近づき、微笑んだ。
「待っていましたよ、マルス」
「お前……!」
「ようこそ、私の会社へ」
「お前の会社?ここはあの男の会社じゃなかったのか?」
「ああ、父のことね」
「父親?まさかお前がアマギ製薬の社長の娘だとは知らなかった。聞きたいことがあったんだが……少しわかってきた気がする」
「ああ、私があなたの経歴をどうして知っていたのかってこと?ええ、あれが偶然の当てずっぽうなわけないでしょう。あなたが思っている通りよ。私たち、あなたの過去をずいぶん調べさせてもらったの」
「お前……!」マルスは深呼吸をする。吸って、吐いて。
「落ち着いて。私はここにそのことで来たんじゃない。会社のトップに会わせてくれ。社長はどうなった?」
「父?ごめんなさい、わからないわ」
「わからない?」
「ええ、本当よ。教えてあげる。父はずっと頂点を目指していたの。Noxar社との契約に必死だった。でもこの“エクストラ”が出てきて、父は従業員の一人に飲ませたのよ。二時間後の奇跡的な効果を見て、父は全てを投げ出して、自らもその薬を飲んだの。そうなったら、もう何もかもどうでもよくなったみたい。ほとんどの従業員をクビにしたわ」
「で、麻薬の効果が出て……今どこにいるかわからないと。街で狂ったように走り回っているか、もう死んでいるか。どちらにしても、私はどうでもいいの」
「それでその隙に会社を乗っ取ったのか?」マルスの目が震える。
女はクスクスと軽く笑った。
「誤解しないで。私、本当はこの会社なんてどうでもいいの。私、マルス、あなたのことが好きなの。お願い、結婚して」
パンッ!マルスは拳銃で女の胸を撃った。女は倒れる。激しく出血し、苦しそうに呼吸しながら叫ぶ。
「何よこれ……どうして!」
「俺には妻がいる!」
女は倒れたまま彼を見上げ、目を閉じた。
「死んだわ」
マルスは急いで外へ出た。
「どうすればいい?助けてくれる人は誰もいないのか?」エレベーターへ向かい、急いで降り、一階へ出て外へ歩く。一歩、また一歩、空を見上げる。
「夜が明けた……これからどうすればいいんだ?」
その時、荒々しく速い音が聞こえた。
「何の音だ?」マルスが振り返ると、大きくて速い、何か不明瞭なものが近づいてくる。さらに近づく。
目を凝らす。目が見開かれる。石油を運ぶ大型のタンクローリーだった。運転席にはヒステリックに体を揺らす男が乗っており、マルスへ向かって突進してきている。
マルスは跳んでかわした。トラックはアマギ製薬のビルへ突っ込み、あらゆるものをなぎ倒して侵入する。
そして――
ドォォォン!!!凄まじい大爆発が起きた。アマギ製薬のビルがあらゆる場所から爆発する。内部の薬品にも引火し、窓ガラスが全て砕け散る。マルスは通りの方へ全速力で走る。爆風が背中を叩き、炎の塊が空に舞い上がり、黒煙が渦を巻く。コンクリートの破片とガラスの雨が降り注ぐ。爆発は連鎖し、止まらない。やがて爆発が収まり、マルスは少し立ち止まる。
「驚かせやがって」ふと、崩落音が聞こえた。
ビルを見ると、巨大な建物が内部から崩れ落ち、あらゆるものが砕けていく。巨大な煙のカーテンがマルスの方へ押し寄せてくる。
「まずい、死ぬ!」マルスは通りの方へ走った。停まっている車があり、男がこちらへ向かって手を振っている。マルスは全速力で駆け寄る。崩れ落ちるビルの破片がすぐ後ろまで迫る中、車に飛び乗り、発進する。二人は崩落をかわすが、ビルは倒壊し、周りの建物を次々と巻き込んでいった。
「助かった、ありがとう」
「礼には及びませんよ、マルス様」
マルスは驚き、言った。
「イノスケ……?」
「助かった、ありがとう」
「礼には及びませんよ、マルス様」
その声を聞いた瞬間、マルスの動きが止まった。
聞き覚えのある声だった。
ゆっくりと隣を見る。
「……イノスケ?」
男は静かに笑った。
「お久しぶりです、マルス様」
マルスは言葉を失った。
燃え盛るアマギ製薬の残骸を背に、車は夜明けの街を走り出す。
一体、何が起きているのか。
“エクストラ”とは何なのか。
そして――
なぜ、あの男がここにいるのか。
マルスには、まだ何も分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。
この日を境に――
すべてが変わり始めた。




