――崩壊の始まり
章 — 崩壊の始まり
マルスの目は見開かれ、ネズミを見つめていた。
動物は檻の中でヒステリックに動き回っていた。異常な速さで円を描くように走り回り、束の間止まったかと思うと、また激しく動き出す。
マルスは数秒間、それを見つめた。
「この症状は……」
檻にさらに近づく。
「まさか……」
そして低い声で言った。
「麻薬だと?!」
その時だった。
コン……コン……コン……
マルスの動きが止まった。
顔を上げ、扉の方を見た。
「誰だ?」
返事はなかった。
ノックが繰り返される。
コン……コン……コン……
マルスは素早く立ち上がった。
周りを見回す。
そして部屋を見た。
死体はまだそこにある。
血はあちこちに飛び散ったままだった。
一瞬、凍りつく。
「くそっ……死体と血を隠すのを忘れてた」
扉の方へ向かう。
一歩、また一歩。
扉にたどり着く。
扉を開けた。
目の前には、年老いた女が立っていた。
女が部屋の中を見た途端、その目は見開かれた。
その場で固まる。
マルスは後ろを振り返った。
そして再び女の方を見た。
「聞いてくれ、説明できるんだ、これは……」
突然、女は叫んだ。
「あああああああっ!」
女は彼に飛びかかってきた。
マルスは床に倒れ、女は彼の上に覆いかぶさった。
「どうしたんだ?!離してくれ!」
女はヒステリックに叫び始めた。
「どこだ?!どこにある?!どこだ?!」
マルスは彼女を自分から引き剥がそうとした。
「何が欲しいんだ?!」
「よこせ!どこだ?!どこにあるんだ?!」
マルスは一瞬動きを止めた。
訝しげに彼女を見つめる。
「まさか……?」
ポケットに手を伸ばし、青い液体の入った小さな瓶を取り出した。
「これを探してるのか?」
女はそれを見た。
目が見開かれる。
女は直接彼に飛びかかってきた。
「よこせ!」
マルスは瓶を彼女から遠ざけた。
「ああ、いいだろう、取りに行け」
ベッドの上にそれを投げた。
女は素早く立ち上がり、それに向かって走った。
それを掴む。
躊躇なく蓋を開けた。
そして薬を全て飲み干した。
ごくり、と。
マルスはしばらく彼女を見つめていた。
そして立ち上がる。
何も言わなかった。
部屋から出て、後ろ手に扉を閉めた。
呟く。
「年寄りの女を傷つけたくはない」
そして足を止めた。
表情が変わる。
「でも、これってことは……」
女の手にある空になった瓶を見た。
「俺が持ってる薬は、麻薬だけじゃないってことか……」
そして目が見開かれた。
「全ての薬が、そうだってことか!」
マルスは走り出した。
通りに飛び出す。
着いた途端、立ち止まった。
目の前の光景は、今までとは全く違うものだった。
人々があちこちで走り回っている。
叫ぶ者もいる。
ヒステリックな行動を取る者もいる。
そして互いに襲いかかり始めている者たちもいた。
マルスは顔を上げる。
「まずいな……」
周りを見渡す。
「東京中が、今や大混乱に陥ってる」
走り始める。
「急がないと!」
その時……
爆発!
通りが揺れた。
そして別の車が爆発する。
運転手たちは狂ったように車を運転し始め、車同士がぶつかり合う。
マルスはその光景を呆然と見つめた。
「この何年も……」
車の間を走り抜ける。
「奴らは薬を強化していたんじゃなかった」
そして人々を見た。
「世界でほぼ最強の麻薬を作っていたんだ!」
拳を握りしめる。
「こんなに強力な麻薬があるなんて、想像もしてなかった!」
走り続ける。
すると、道路脇に停まっているバイクが目に入った。
鍵はまだ差し込まれたままだった。
マルスは薄く微笑んだ。
「いいタイミングだ」
バイクに跨る。
エンジンをかける。
そして猛スピードで走り出した。
---
高速道路
混乱は至る所にあった。
大破した車。
燃え上がる車。
道路に横たわる死体。
あてもなく走る人々。
そして自分の皮膚を出血するまで激しく掻きむしり、痛みに叫んでいる者もいた。
マルスはスピードを上げる。
「くそっ!」
できる限り速く、車や瓦礫をかわそうとしていた。
進めば進むほど、光景は酷くなっていく。
もはや日常と呼べるものは何一つなかった。
東京は目の前で崩壊していくのだった。
---
しばらくして、マルスは比較的静かな地域にたどり着いた。
そこには、高い塀に囲まれた巨大な家があった。
大通りから離れた、静かな住宅街の真ん中に位置している。
バイクを止める。
素早く降りた。
門の方へ向かう。
手で押す。
開いた。
マルスは一瞬立ち止まった。
「開いてる?」
中に入る。
そして家に向かって走った。
正面玄関にたどり着く。
足で強く蹴りつけた。
バキッ!
扉が砕けた。
マルスは素早く中に入る。
階段を上る。
一歩、また一歩。
足音が家中に響き渡る。
ある部屋の扉の前まで来た。
立ち止まる。
深く息を吸い込む。
そして扉を開けた。
ライガが窓の前に立っていた。
両手を背中に組んでいる。
静かに外を見ていた。
振り向かずに、言った。
「よう」
一瞬沈黙する。
「来ると思ってたよ、マルス」
マルスは凍りついた。
「ライガ!」
そして叫んだ。
「何をしたんだ?!」
ライガは冷静に答えた。
「叫ぶ必要はない。よく聞こえてる」
「なぜこんなことをした?!何千人も……いや、何百万人もの人が今死んでるんだぞ、お前はここに突っ立って、叫ぶなだと?!」
マルスは拳を握りしめた。
「くそったれが!」
ライガは彼の方を向いた。
「なぜしたか、だと?」
少し間を置く。
「いつの間に人を気遣うようになったんだ?」
真っ直ぐに彼を見た。
「俺の知ってるマルスは、人を無差別に、容赦なく殺す男だったがな」
マルスは叫んだ。
「このクズ野郎!」
銃を取り出し、彼に向けた。
だが、同時に……
両側から二人の男が飛び出してきた。
一人が彼の腕を掴み、もう一人が体を掴んで地面に倒した。
銃が手から落ちる。
「離せ!」
マルスは解放されようとした。
全力で抵抗する。
だが二人の男は彼をがっちりと押さえつけた。
ライガは彼を真っ直ぐに見た。
そして目を閉じる。
「なるほど……」
目を開けた。
「これは娘のことなんだな」
マルスの目が見開かれた。
「マリア……」
一瞬止まる。
「そうだ!マリアはどこだ?!無事なのか?ユーリはどうなんだ?!」
ライガが答える。
「さあな?」
「どういうことだ?!」
マルスは起き上がろうとした。
「まさかあいつにも薬を……?!」
「ああ」
マルスは凍りついた。
「何だって?!なぜだ?!あいつは娘じゃないのか?!」
叫ぶ。
「どうしてそんなことが――」
だが二人の男はさらに強く押さえつけた。
「あああああっ!」
ライガは彼を見た。
「娘だと?」
沈黙する。
「ああ。娘だ」
そして表情が変わった。
「だが、あいつは妻の代わりにはならない」
マルスは動きを止めた。
「妻だと?どういうことだ?」
ライガはしばし沈黙した。
そして言った。
「教えてやろう」
少し近づく。
「お前の腕を認めたからな……」
---
「ずっと昔、俺は容赦なく人を殺していた」
その声は静かだった。
「心のない怪物だった」
「感情のない怪物だった」
止まる。
「たった一人で、武装したギャング相手に素手で戦い、死を恐れることなどなかった」
両手を見た。
「毎日、自分にこう言い聞かせていた……」
「今日、俺は死ぬのか?」
「今日はどうだ?」
「もしかしたら今日死ぬかもしれない……」
目を上げる。
「いつ死ぬんだ?」
少し沈黙する。
「そんなことを自問自答し、死ぬ瞬間を待っていた」
そして薄く微笑んだ。
「だが、俺は死ななかった」
「なぜだ?どうしてだ?」
首を振る。
「分からない」
「頭に浮かんだのはただ一つ……」
「死が俺を拒んでいる、と」
沈黙が訪れた。
そして続ける。
「そんなある日のことだった」
「ある女が俺に結婚を申し込んできた」
「気まぐれで……試してみる価値はあると言ったんだ」
少し頭を下げる。
「馬鹿な女だった」
「俺が殺し屋だと知っていながら、愛してると言ってきた」
「やたらと俺に近づいてきた」
「俺が誰かを殺すたびに、俺に向かって叫んだ」
少し表情が変わる。
「日が経つにつれ……生きている実感が湧いてきた」
「その頃から、死ぬのが怖くなった」
「時間が経つにつれ、殺しをやめた」
「妻を幸せにすることに集中したんだ」
そして言った。
「俺は自分が殺した人数を、記憶の中で数えていた」
「俺と妻は医学を修めた」
「そして初めての薬局を開いたんだ」
小さな微笑みが浮かぶ。
「年月が流れた」
「俺は日々が愛おしかった」
そして微笑みが消えた。
「あの日が来るまではな」
「現総理大臣が……若かった頃、俺が殺し屋だと気づいた」
「そして警察に俺のことを通報したんだ」
止まる。
「だが、俺はいなかった」
「代わりに妻を殺したんだ」
マルスは凍りついた。
ライガが続ける。
「あいつが最後にどんなメッセージを残したか知ってるか?」
沈黙する。
そして言った。
「こう言ったんだ。お願い、彼らを殺さないで。彼らも私たちと同じ人間なの。罪のない人を傷つけないで、ってな」
頭を下げる。
「俺の唯一の生きる理由は消えたんだ」
目を上げる。
「あの日から、俺は何年も復讐だけに全てを費やした」
「現総理大臣を殺したかった」
「だが、近づくことすらできなかった」
そして微笑んだ。
「でも、もう違う」
「あいつを殺す」
「このクソみたいな街にいる全員もな」
マルスは震えていた。
目はライガから離れなかった。
ライガが言った。
「俺が何人殺したか知ってるか?」
少し沈黙する。
「五百五十人だ」
マルスの目が見開かれた。
「そして今、人が死んでいくにつれ……その数は増えていく」
「これが俺の計画だからな」
「こいつらは俺の計画のせいで死んでいくんだ」
そして薄く微笑む。
「さらに悪いことを教えてやろう……もう一つある」
「東京のどこかに爆弾を仕掛けた」
マルスは凍りついた。
「東京とその周辺都市を破壊するのに十分な威力だ」
そして言った。
「三日後に爆発する」
マルスは叫んだ。
「何百万人もの罪のない人はどうなるんだ?!」
ライガは冷ややかに彼を見た。
「罪のないだと?」
沈黙する。
「罪のない人間は一人だけだった。妻だけだ」
そして言った。
「もういないがな」
「罪のない人間なんていない」
「もういないんだ」
ライガは扉に近づいた。
「聞け、マルス」
「今はお前を殺さない」
「生かしてやる」
歩き始める。
一歩、また一歩。
マルスは一瞬止まった。
そして言った。
「なぜ三日後なんだ?」
ライガの背中を見た。
「長すぎるんじゃないのか?」
ライガは歩き続ける。
一歩、また一歩。
扉にたどり着く。
扉を開ける。
そして出て行った。
マルスは彼を見つめ続けた。
一瞬考える。
「爆発する前に逃げるためか?」
沈黙する。
「いや……」
目が徐々に見開かれていく。
「ありえない」
「逃げるなんて、ライガが考える最後のことだ」
一歩、また一歩。
マルスの思考が突然止まった。
「まさか!」
顔を上げる。
「自ら総理大臣を殺しに行くつもりなのか?」
叫んだ。
「ライガ!」
ライガが足を止める。
「死ぬつもりなのか?!」
沈黙が訪れた。
そして……
ライガは軽く笑った。
「はははは……」
笑いが大きくなる。
「はははははははははは!」
そして大声で笑った。
マルスの目が震える。
ライガは笑うのをやめた。
そして彼の方を向いた。
「何だと?」
微笑む。
「俺が死を恐れてるとでも思ったのか?」
一瞬沈黙する。
「俺はあのクズをいたぶりたいんだ」
「その後で殺す」
「その時……」
窓から空を見上げる。
「ようやく安らかに死ねる」
そしてマルスを見る。
「その時、お前があれほど見たがっているものが見られるだろうよ」
振り向く。
「さらばだ、マルス」
ライガは去っていった。
マルスは地面に残され、動くこともできずにいた。
頭を垂れる。
「くそっ……」
そして全力で叫んだ。
「くそったれええええ!!!!」
――崩壊の始まり
そして、マルスはその場に立ち尽くしていた。
東京は、すでに崩壊し始めている。
だが――
これは、まだ始まりにすぎなかった。
三日後。
すべてが終わるのか。
それとも――
すべてが、そこから始まるのか。
マルスは拳を強く握りしめた。
「……絶対に止めてやる」
その目には、かつてない決意が宿っていた。




