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一歩ずつ  作者: AkiraNox


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6/15

「青い幸福」

EXTRA


男は微笑んだ。


そして、鞄から小さなガラスケースを取り出した。

中には、澄み切った青い液体を湛えた小瓶が一つ、収まっている。


それをマルスの目の前に掲げた。


「君のために用意した特別な薬だよ、マルスさん」


マルスは黙って薬を見つめた。

瞳は、青い液体に吸い寄せられるように釘付けになっていた。

やがて、ゆっくりと手を伸ばし、それを受け取る。


――その瞬間。


マルスはもう片方の手を、目にも止まらぬ速さで男へ伸ばした。


男は咄嗟に後ずさる。


「お、おい……待てよ!」


マルスは冷たい視線をそのまま男に向けた。


「なんだ?」


男はごくりと唾を飲み込んだ。


「まともな神経をしてたら、自分からあんたの所にこんな薬を届けになんて来ない」


マルスはわずかに動きを止めた。


そして言った。


「じゃあ、お前はまともじゃないってことか?」


男は狼狽した。


「いや、そういう意味じゃ……」


息を吐く。


「言いたいのは……俺は、ここに死にに来たってことだ」


マルスは何も言わずに彼を見つめ続けた。


男は言葉を続ける。


「ずっと前から死にたかった。でもライガさんの元で働いていたから、死ぬこともできなかったんだ」


少しだけ俯く。


「でも、これでいい。ちょうどいい機会だ」


そして、小さく笑った。


「痛いのは嫌いなんだ、本当はな」


そう言って、拳銃を取り出した。


マルスはそれを見た。


男は銃口を自分のこめかみに当てた。


「お前につかまったら、どんな拷問を受けるか分かってるからな」


最後にもう一度、マルスを見た。


「じゃあな……」


――パァン!


乾いた銃声が、部屋の中に響き渡った。


男はその場に崩れ落ちる。即死だった。


静寂が訪れた。


マルスの表情には、何の変化もなかった。

数瞬その場に立ち尽くし、死体を見下ろす。


床には、血が飛び散っていた。


やがて彼は静かにドアを閉めた。

男を二度と振り返ることはなかった。


足早に、部屋の隅にあるごく小さな棚へ向かう。


扉を開ける。

中には、下へと続く細くて狭い通路があった。


マルスは降りていく。


しばらくして戻ってきたとき、彼の手には極小の檻があった。

中には一匹のネズミ。


檻をテーブルの上に置く。

扉を開ける。

ネズミを強く掴んだ。


動物は暴れようとしたが、マルスは押さえつける。

指で口をこじ開けると、あの青い薬を全て流し込んだ。


ごくり。


ネズミを檻に戻し、蓋を閉める。

そして目の前に座り込んだ。


じっと、観察する。


「こいつ……前からあんまり動かないんだよな」


少し檻に顔を近づける。


「内臓も弱ってる。薬で良くなるはずなんだが」


そして、待ち続けた。


「待ってみるか」


---


同時刻。


東京の至る所で、人々はEXTRAという薬を受け取っていた。


街路で。

家の中で。

職場で。


人々は青い容器を開け、躊躇いもなく薬を飲み干していた。


中には好奇心に満ちた目で瓶を見つめる者もいた。

そして、中身など気にも留めない者もいた。


「これ、栄養剤みたいなもんだろ?」

「ああ、ニュースでそう言ってたな」

「なら心配することないか」


人々は飲んだ。


そして、体調が良くなるのを感じ始める。


年寄りたちは足取りが軽くなり、道を歩きながら笑い出す者さえいた。


ある場所では、杖なしで歩く老人を、妻が驚いた顔で見ていた。


「さっきまで痛いって言ってたじゃない」

男は笑う。

「若返った気分だよ!」


別の場所では、女たちが薬を飲んだ後に友人と笑い合っていた。


東京は、何事もなかったかのように、普段通りの生活を続けていた。


---


数分後。


マルスはまだネズミを観察していた。


動かない。

その場から一歩も。


マルスは睨みつける。


「何も……」


さらに近づく。


「なんで動かない」


その時だった。


ネズミが動いた。


マルスはわずかに目を見開く。


ネズミは急に素早く動き始めた。

そして、檻の中にある餌に飛びついた。


猛烈な勢いで食べ始め、目の前のものをほとんど平らげてしまう。


マルスはそれを見つめていた。

椅子に腰を下ろす。


「なんだ?」


しばらく観察する。


「ただの普通の薬じゃないか」


ため息をつく。


そして、テーブルを手で叩いた。


「くそっ! じゃあ一体何のための騒ぎだったんだ!」


立ち上がる。


「外に出る」


マルスはアパートを出た。


---


三時間後。


マルスは東京の通りを歩き、小さなアパートへ戻る途中だった。


周りの人々は、皆元気そうだった。


あちこちから笑い声が聞こえる。

楽しそうに話す人々。

元気に街を歩く老人たち。


マルスは彼らを見た。


「ったく……」


煙草に火をつける。


「ちくしょう」


一口吸う。


「何年も疑ってたってのに……」


一瞬口を閉ざす。


「ちくしょう」


歩き続ける。


「とりあえずアパートに戻って、ネズミがどうなったか見てみるか」


---


しばらくして。


マルスはアパートに着いた。


ドアを開ける。

中に入る。


部屋は出ていった時と変わらなかった。

血はまだ床に広がったままだ。


マルスは座る。

長く息を吐いた。


その時……


音が聞こえた。


カリカリ……カリカリ……


顔を上げる。


檻の方を見た。


目が見開かれる。


ネズミは凄まじい速さで走り回っていた。

檻の中を円を描くように、ぐるぐると。


一度。

そしてまた一度。


ヒステリックに。


マルスが近づく。


「なんだ、これは?」


ネズミは走り続ける。

そして、檻の柵を強く齧り始めた。

次に、檻の床を舐め回す。


マルスの足が止まる。


目が見開かれた。


「まさか……」


さらに近づく。

ネズミの動きを注意深く観察する。


「この症状は……」


黙り込む。


そして、小さな声で言った。


「まさか……?」


---


同時刻。


東京の別の場所。


三十代くらいの男が、一つの墓の前に立っていた。

手には一輪のバラ。


その顔には、深い悲しみの色が浮かんでいた。


墓に近づき、バラを供える。


「来たよ」


しばらく立ち尽くす。


そして言った。


「もう少しだけ待っててくれ」


俯く。


「必ず……君の仇は取る」


鞄を開ける。


「そうだ……君の好きだった日本酒を持ってきたんだ」


日本酒の瓶を取り出す。

だが、その時……


鞄から何かが落ちた。


男はそれを見た。


「なんだ?」


かがんで拾い上げる。


青い液体の入った小さな瓶だった。


それをじっと見つめる。


「そうか……渡された薬か」


瓶を見つめる。


「栄養剤だと言っていたな」


そして墓を見た。


「東京中の人間に配られたらしい」


少し黙る。


「だが、俺は飲まない」


続けて言った。


「部下たちにも飲むなと言ってある」


杯を二つ取り出した。


一つを墓の前に。

もう一つを自分の前に置く。


日本酒の瓶を開ける。

二つの杯に注ぐ。


静寂が流れる。


墓の前の杯を見つめる。

そして自分の杯を持ち上げる。


「乾杯」


一気に飲み干す。


小さく微笑んだ。


「やっぱりうまいな」


墓を見つめる。


「君の所に来る時にしか飲まないんだ、これは」


その時だった。


遠くから声が聞こえた。


「イノスケ隊長!」


男は振り向いた。


一人の若者が駆けてくる。

走りながら叫んでいた。


「イノスケ隊長!」


イノスケは立ち止まる。


若者が息を切らして辿り着く。


イノスケは彼を見た。


「どうした?」


若者は息を整えようとする。


そして言った。


「隊長……大変です」


イノスケの目が見開かれた。


---


マルスの方では。


マルスはまだ檻の前に立っていた。


ネズミは異常な動きを続けていた。


マルスは長く見つめる。


そして呟いた。


「この症状は……」


表情が変わる。


「麻薬……!?」

その夜、東京はかつてないほど健康で、かつてないほど幸せだった。


老人たちは杖を捨て、街は笑い声で満ちていた。誰一人として、この平和を疑う者はいない。


ただ一人を除いては。


小さなアパートの一室。血の残る部屋で、檻の前で立ち尽くす男。

マルスは、檻の中で発狂したように暴れ回るネズミを見つめ、ようやくその正体を理解した。


あの澄み切った青い液体は、希望でも未来でもなかった。


それは、東京という巨大な檻に、静かに撒かれた最初の毒だったのだ。

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