「穏やかな日々の終わり」
9年後
日本――東京、2021年
マルスは小さな部屋で目を覚ました。
そこにはベッドが一つだけあった。
ベッドから起き上がると、立ち上がった。
そしてドアへ向かう。
一歩、また一歩。
やがてドアの前に着く。
ドアを開け、外へ出た。
マリアが食器を洗っているのが見えた。
マルスは階段を下り、ソファへ向かった。
ソファに座ると、テレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。
しばらくすると、マリアがやって来て、コーヒーの入ったカップを渡した。
マルスはそれを受け取り、飲み始める。
すると、ユリが階段を勢いよく下りてきた。
学校の制服を着て、鞄を持っている。
「行ってきます!」
マリアが言った。
「いってらっしゃい!」
ユリはドアを開けて外へ出た。
そして、後ろ手にドアを閉める。
マルスはそのままコーヒーを飲み続けた。
飲み終えると立ち上がり、カップを持って流しへ向かった。
カップを洗い、元の場所に戻す。
マリアが言った。
「朝ご飯は食べないの?」
「いらない。ありがとう」
そう言うと、マルスはすぐに家を出た。
マリアはドアを見つめた。
「……何? まさか仕事着のまま寝たの?」
マルスは足早に歩いていた。
しばらくすると、学校へ向かって歩いているユリの姿が見えた。
マルスは彼に近づく。
「ユリ」
ユリが振り返った。
「父さん? なんで来たの?」
「たまたま同じ道を歩くことになっただけだ」
「本当に?」
ユリの顔には、明らかに嫌そうな表情が浮かんでいた。
二人はそのまま一緒に歩き続けた。
やがて、学校に着いた。
マルスは煙草を一本取り出し、火をつけた。
すると、ユリが突然言った。
「父さん! 僕と一緒に歩いてるときに煙草を吸わないでよ!」
マルスは少し驚いた。
ユリを見る。
そして、小さな携帯灰皿を取り出し、煙草の火を消した。
「わかった……悪かった」
ユリは学校へ向かう。
「じゃあね」
「じゃあな」
ユリは学校の中へ入っていった。
マルスはしばらくその場に立っていたが、やがてその場を離れた。
その夜――
マルスは家に帰ってきた。
ドアを開けて中へ入る。
顔にははっきりと疲労が浮かんでいた。
そして、この日を境に――
家の中での問題は、少しずつ増えていった。
その後の日々
一日目。
マルスはユリと一緒に学校へ向かった。
ユリは迷惑そうに彼を見る。
「父さん、恥ずかしいよ」
翌日も同じだった。
「父さん、一緒に歩かないでって言っただろ」
三日目。
マルスはユリに話しかけようとした。
だが、ユリは黙ったままだった。
四日目。
マルスは話しかけようとすることさえやめた。
そして五日目。
ユリが言った。
「父さん……どうして一人で行かせてくれないの?」
マルスはしばらくユリを見つめた。
「……わかった」
そう言って、ユリを一人で行かせた。
それからの日々も、ほとんど同じだった。
マルスは夕方、仕事から帰ってくる。
その顔には疲労がはっきりと表れていた。
彼は毎晩、夜遅くまで起きていた。
顔は青白く、
目は疲れ切っていた。
やがて、マリアも彼の変化に気づき始めた。
三日後。
その夜、マルスは家に帰ってきた。
ドアを開けて中へ入り、
後ろ手にドアを閉める。
マリアが彼を待っていた。
「ねえ……ねえ、マルス。ちょっと聞いて」
マルスが振り返る。
「ん? どうした?」
マリアはためらった。
「その……」
マルスは待った。
「何?」
マリアは視線を落とした。
「その……ううん、何でもない」
マルスはしばらく彼女を見つめた。
「そうか。わかった。じゃあ、行くよ」
そう言って階段を上っていく。
階段を上りながら、マルスは考えた。
「……どうしたんだ? あいつが俺に話しかけてくるなんて珍しいな」
翌日。
マルスはジャックと喫茶店にいた。
二人は一緒にコーヒーを飲んでいた。
マルスが言った。
「それで、どうして俺を呼んだ? 昨日、電話で緊急の用があるって言ってただろ」
「そうだ。ライガさんから聞いたんだ。10日後にExtraの薬が配布されるらしい」
マルスの表情が変わった。
「何だって? Extraの薬?」
「ああ。だが、俺もまだその薬が何なのか知らない。お前は知ってるのか?」
マルスはため息をついた。
「正直、俺が会社の社長になってからも、実物を手にしたことはない。会社の全社員がこの10年間ずっと開発に関わっていたのに、まさか今になって完成させるとは思わなかった」
「それで、その薬は何なんだ?」
「3年前に試作品が完成した。身体とその生命機能を強化する薬だ。実験段階で良好な結果が出たから、会社は国から製造許可を得た」
「本当か? じゃあ、この3年間は何をしてたんだ?」
「改良していた」
マルスは少し黙った。
「そして、東京の人口全員に行き渡る量を作った」
「東京の人口全員?」
「約1400万人だ。あまりにも多すぎる。まさか、こんなことをするとは思ってもいなかった」
「すごいな……でも、どうしてお前は開発に関わらなかったんだ?」
マルスは目を伏せた。
「正直、会社に入った日から今まで、この件にはずっと嫌な予感がしている。医科大学まで卒業したっていうのに……結局、俺は殺し屋だからな」
「それはそうだな。でも、ライガさんも殺し屋だ。それどころか、伝説とまで呼ばれている」
「そうだな。俺なんかじゃ、あの人に勝てるとは思えない」
そして、マルスは続けた。
「だが、あの人は15年前に人を殺すのをやめた」
「そうだったな」
ジャックはコーヒーを一口飲んだ。
「まあ、とにかく暗い話は置いておこう。今の状況はどうだ?」
「どういう意味だ?」
「わかってるだろ。家族のことだよ……父親として、夫としての生活はどうなんだ?」
「そうだったな……思い出した」
「何を?」
「昨日、家に帰ったらマリアに話しかけられた」
「本当か? 何の用だった?」
「さあな……あいつが俺に話しかけてくること自体、珍しい。何か頼みたかったんだと思う」
「何か頼みたかった? ちょっと待て……昨日は何か特別な日だったか?」
「特別な日? 例えば?」
「ほら、誕生日とか? それともユリの誕生日か?」
「それとも?」
「わかってるだろ。結婚記念日だよ」
マルスは少し考えた。
「そうか……そうだった。昨日は俺たちの結婚記念日だった。でも、それがどうした?」
ジャックは驚いた顔をした。
「何言ってるんだ? もちろん大事だろ! 特に奥さんにとってはな」
そう言って、ジャックはテーブルを手で叩いた。
「よくそんな大事なことを忘れられるな!」
「別に重要じゃないだろ。どうせあいつは俺のことなんか気にしてない」
「どうして気にしてないんだ? ちゃんと埋め合わせをしろよ」
「嫌だ。そんなことしたら気持ち悪いだろ」
「なんでだ?」
マルスはため息をついた。
「言っただろ。あいつは俺のことなんか気にしてない。それに、俺だってもう年だ。41歳だぞ。あいつはものすごく綺麗な女だし……年を取るほど、ますます綺麗になっていく」
ジャックは長い間、マルスを見つめた。
「いいか、マルス」
「何だ?」
「さっき、自分が気持ち悪くなるって言ったよな?」
「ああ」
ジャックは笑った。
「でも今のお前のほうが、もっと気持ち悪いぞ」
「は?」
「ハハハハハ!」
マルスはため息をついた。
「……なんか恥ずかしいな」
「悪い。でも俺は本気で言ってる。ちゃんと埋め合わせをしろ」
「だから言っただろ……」
「わかってる。でも、一つ聞きたい」
「何だ?」
「ここ数年、ずっと同じようなことがあったのか?」
マルスは黙った。
そして言った。
「まあ……それは……」
しばらく考える。
「……お前の言う通りかもしれない。考えてみれば、結婚記念日が来るたびに、あいつはほとんど同じことをしていた」
ジャックが眉を上げる。
「だから言っただろ? つまり、あいつは間違いなくお前のことを気にかけてるんだ。ホテルを予約して、二人で少しゆっくりしてこいよ」
「何だって!? 何を言ってるんだ?」
「何って、普通のことだろ。特に結婚記念日なんだから」
「無理だ。絶対に無理だ」
「どうして?」
「ユリを産んでから、俺はあいつにそういう意味で近づいたことがない」
ジャックは固まった。
「は!? そんなに長い間!?」
彼の顔が真剣になる。
「なあ、マルス」
マルスはジャックを見る。
「何だ? 急に真剣な顔をして」
「お前、本当に大丈夫なのか?」
マルスは怪訝そうに彼を見た。
「俺を何だと思ってるんだ?」
ジャックは笑った。
「いや、どうやってそんな何年も耐えられたんだってことだよ。俺と妻なんて、少しだって離れていられないぞ」
「お前と一緒にするな、このエロ親父」
「ハハハハ!」
マルスは首を振った。
「まあ、そんなことはしない。だが、せめてパーティーくらいは開く」
「パーティー?」
「まあ、お前がそう言うならな」
「でも、サプライズにしないとな」
「サプライズ? どうやって?」
「それで、明日はいつ家が空になる?」
マルスは考えた。
「たぶん明日だ。ユリは校外学習があるし、マリアは撮影の仕事がある。帰ってくるのは3日後だ」
ジャックは笑った。
「それならいい。じゃあ明日、準備を手伝ってやるよ」
「わかった。それでいい」
穏やかな日々の終わり
その夜。
名もなき村の静かな日々は、終わりを告げた。
遠くから響く大勢の足音。
近づいてくる馬の音。
そして……
夜空に揺れる、南方王国アートの旗。
カイレンはまだ何も知らずに眠っていた。
しかし……
目を覚ました時。
彼の日常は、もう存在しない。




