「怒り」
途方もなく大きな男だった。筋肉は異常なまでに盛り上がり、まさに巨人と呼ぶにふさわしかった。彼はNOXAR社の社内を歩いていた。
「さっき爆発音が聞こえた。計画は成功したはずだ。そろそろ行くか」
出口のドアへ向かおうとしたとき、背後にある階段から誰かが降りてくる足音が聞こえた。
男が振り向くと、そこには階段を降りてくるマールスがいた。爆発で彼の体の半分は吹き飛んでいた。
「まだ生きていたのか?いや、お前の半分はもう死んでいる」
マールスは男に近づいた。
「ライガの居場所を教えろ……」
「ライガ様ですか?申し訳ないが、それはできない。ここに座って、ゆっくり死を待つんだな」
「このクソ野郎!」
マールスは彼に向かって駆けた。
頭部を狙って跳び上がり、右手の拳にありったけの力を込めて叩きつける。だが、次の瞬間、鈍い破砕音が響いた。
マールスの手は、指先から手首までへし折れていた。
着地したマールスは手を動かそうとするが、手首も手のひらも、まるで死んだように動かなかった。
「ああ、クソ……」
男は微動だにしていなかった。
男はマールスの方を向き、素早く頭を掴んだ。その手のひらはマールスの頭とほぼ同じ大きさだった。片手で掴んだまま、壁へと投げ飛ばす。
マールスは壁に激突し、口から血を吐いた。
マールスは崩れ落ちた。
マールス「何が起きてる? なぜまたこんなことが……」
男は一歩、また一歩とマールスへ近づいてくる。
「クソ、クソ、クソ、クソッ」
一歩、また一歩。
「心臓の鼓動が速くなる」
一歩、また一歩。
「なぜだ?」
一歩、また一歩。
「この感覚、前にも……」
一歩、また一歩。
「でも、これは何なんだ?」
男はマールスの元に辿り着くと、首を掴んで持ち上げた。マールスは空中で足をばたつかせ、残った片手で振りほどこうともがいた。
「どうやらこの手で殺すしかないようだな……」
「この感覚が、胸の中で大きくなっていく」
「これは何なんだ?」
マールスは目を閉じた。
目を開けると、目の前にはとてつもなく大きな海が広がっていた。空のように青く、美しく、強い潮風が吹いていた。
マールスは一歩、また一歩と進んだ。
「ああ、思い出した。結婚した後だったな」
一歩、また一歩と海へ向かう。
「静かに暮らしたかった」
一歩、また一歩。
「こんな大きな海岸に家を買いたいと思ったんだ」
一歩、また一歩。
「こんな美しい海のそばに」
一歩、また一歩。マールスは波打ち際まで来た。足元で波が寄せては返した。
「孤島で」
「家族と一緒に、のんびり生きていきたかった」
右を見ると、微笑むマリアがいた。
彼女はマールスを見つめ、手を握った。
マールスは驚き、彼女の手を強く握り返した。
マリアは少し首を傾け、微笑んだ。
前を見ると、服の裾を掴むユーリがいた。
「ねえ父さん、行こうよ。泳ぎたい」
マールスは小さく微笑んだ。
「わかった、わかった。慌てなくてもいい」
三人で一歩前に進んだ。だが突然、マールスの目の前で海が真っ赤に染まった。
血の海だった。
周りを見回すと、ユーリもマリアも消えていた。
笑顔は消え、恐怖が顔を覆った。振り返っても浜辺はなく、どこまでも血の海が広がっている。上を見上げても空はなく、ただの闇。まるで血で満たされた黒い箱の中に閉じ込められたようだった。
足元を見ると、彼は血に浮かんでいるのではなく、その上に立っていた。
前を見ると、一本の糸が真っ直ぐ上に伸びていた。マールスはその細い糸を掴み、登り始めた。
登る、登る、登る。
突然、重みを感じた。誰かに足を掴まれたような感覚。マールスは下を見た。
そこには数百の人々がいた。目は真っ黒に染まり、全身血まみれ。ゾンビのようで、しかし死人だった。同じロープを登り、マールスを掴んで引きずり下ろそうとしていた。
マールスは一人ずつ蹴り落とした。
だが、突然、ぷつりという音がした。
上を見ると、糸は切れていた。自分自身が落下し、死体も次々と落ちていくのが見えた。
マールス「――AAAHHH――!」
マールスは血の海に落ち、どんどん深く沈んでいく。
ゆっくりと沈みながら、息ができなかった。
目を開けると、目の前に15歳ほどの少年が立っていた。血まみれで、片手にナイフ、もう片手に拳銃を持ち、マールスにそっくりだった。
その目は死んでいた。
少年「やあ……口を開けてもいいよ」
マールスは口を開けた。なぜか息苦しさはなく、普通に呼吸ができた。
「お前は誰だ?」
「俺が誰かって?俺はお前だよ。忘れたのか?」
マールスは首を傾げた。
「まあそんなことはどうでもいい。時間がない。お前は聞いたんだ、というか自分自身に問いかけたんだ。あの感覚は何なのかって」
「ああ、だから何だ?」
「あの感覚はよく知ってる。15から20の頃、ずっと付きまとわれたからな」
「今、お前は何歳なんだ?」
「15だ」
「じゃあどうして15から20まで付きまとわれたなんてわかるんだ?」
「何でも説明が必要か?正直、俺にもわからない。でも本題に入ろう」
「わかった、話せ」
「いいか、あの感覚は……」
少年は目の前から消えた。
背後に現れ、耳元で囁いた。
「怒りだよ」
―――
マールスは目を開けた。まだあの男の手に掴まれたままだった。
マールスの目は見開かれ、突如叫び声を上げた。
「AAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHH!!!!」
―――
全身の力を振り絞り、マールスは両足を振り上げ、男に叩きつけた。
男は口から血を吐き、後ろにのけぞってマールスを離した。
マールスは叫び返した。「AAAAAHHHH!!!」
跳び上がり、鼻へ向けて頭突きを食らわせる。男は倒れ、マールスはその上に跨り、足で両腕を押さえつけた。
頭を殴りつける。血が飛び散った。
「これが望みだったのか?」
再び殴る。
「苦しむことか?」
殴る。
「ほら」
「教えてくれよ。自分がもう殺したと思ってた相手に殴られる気分はどうだ?」
殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る。
やがてマールスは手を止めた。体は巨人の血で染まり、顔も血まみれだった。
男を見下ろす。頭部は完全に潰れ、脳が飛び散り、眼球は飛び出し、喉は真っ二つに裂け、口元から顎、歯の辺りまで原形を留めていなかった。
マールスは息を切らした。そのとき、背後で物音がした。
そこにはNOXAR社の破壊工作員と同じ格好の男がいた。黒い服に、髑髏のマーク。
男「ああ、クソ」
マールスは素早く駆け寄った。男は慌てて逃げようとするが、マールスは一瞬で目の前に現れ、蹴り倒した。そして両手の上に立つように押さえつけた。
「今からライガの居場所について知ってることを全部吐け」
「なぜ教えなきゃいけない?」
「理由が知りたいか?」
マールスは右足を振り上げ、全力で男の腹を踏みつけた。男は口から血を吐いた。
「さあ、話す気になったか?」
「死んでも御免だね」
マールスは彼を見下ろした。「わかったよ」再び足を振り上げ――
「待って、待ってくれ、やめてくれ!話す、話すよ。知ってること全部話す!」
「ライガ様は……総理大臣を殺しに行ったんだ」
「総理大臣?この状況でまだ逃げてなかったのか?」
「詳しいことは知らない。でもライガ様が東京中の通信を遮断したらしく、ヘリを用意するのに時間がかかったんだ」
「で、総理はどこにいる?」
「それは……」
数時間後、夜の11時。
東京。
港区。
港区の中心にそびえる巨大なビルの中に。
マールスはビルの裏手から向かった。
壁は爆破され、穴が開いていた。マールスはそこから中へ入る。至る所に死体が積み重なり、武器が散乱し、血だまりが広がり、爆発の跡と瓦礫の山があった。
マールスはそれらを乗り越え、急いで進んだ。
階段に辿り着き、一気に駆け上がる。
やがて屋上に到着した。
ドアノブに手をかける。横の窓ガラスが割れているのに気づいた。
マールスは扉を開け、素早く中へ入った。
マールスは屋上に立っていた。
そこには警護の死体が転がり、武器が散乱していた。ヘリコプターがあり、操縦士は頭に瓶が突き刺さったまま死んでいた。
マールスはもう一つの異様なものに気づいた。屋上の中央に奇妙な形があった。
一歩、また一歩と近づいていく。
目を見開く。それは総理大臣だった。だが、切り刻まれていた。
爪は剥がされ、床に散らばっている。手足の指の爪を拷問のように剥がされたのだ。指先も落ちていた。失血死しないように止血の包帯が巻かれていた。
両手は切り落とされ、何度も鋭利なもので刺されていた。元の位置からは離れているが、人の形を保つように置かれている。足も同じだった。何度も首を絞められ意識を失わされ、下腹部から胸にかけて十回刺され、死が遅れるように酸素マスクが付けられていた。そして最後に、喉元から後頭部までナイフが突き立てられ、内臓は床にぶちまけられていた。バラバラにされながらも、人の形を模すように並べられていたのだ。
マールスの目は震えた。「ここで何が……」
背後で足音がした。
振り向くと、そこにライガが立っていた。
「地獄へようこそ、マールス」
「ライガーーー!!」マールスは怒りを込めて叫んだ。
「おいおい、落ち着けよ」
「落ち着けだと?」
「怒りに任せて突っ込んでくる奴は、俺には絶対に勝てない。だから落ち着け。今まで戦ってきた奴らと俺は違う。俺の戦いは、くだらないドラマチックな前置きなしに今すぐ始まる。さあ、来い」
「望むところだ!AAAAAAAAHHHHHH!!」マールスは叫び、ライガへ向かって駆けた。
ライガの間合いに入ると、腰を捻り、拳を後ろに引いて顔面へ全力で叩き込んだ。
だが、止められた。
マールスは驚愕する。
ライガはその拳を掴み、腹に蹴りを入れた。
マールスは三歩後ずさった。
態勢を立て直し、再びライガへ。右拳を振るうが、ライガは頭を下げてかわす。すかさず手刀の付け根で打ち込むが、またも頭を下げられ、今度は顎の下を手刀で打ち上げられた。
マールスは後退する。
再び駆け、殴る。ライガが受け止める。ライガが沈み込むと、マールスは背中合わせに回り込み、反対側へ。手を上げ、掌を開く。――無音掌の構え。
ライガが来る。右拳に全力を乗せて打ち込む。
マールスはその前腕の側面に触れ、僅かに流し、軌道を逸らす。
ライガは僅かに動揺した。
マールスは一歩踏み込み、流したその手で素早く打ち返す。
腹へ掌打を狙うが、ライガの開かれた手が伸び、マールスの前腕に触れて軌道をずらした。
マールスは素早く後ろに下がった。
マールス「驚いたな、まさかお前がこの流派で戦えるとは思わなかった」
「正直、よくわからん。少し齧って忘れてたんだが、お前のおかげで思い出したよ」ライガは手を上げ構える。「さあ、来い」
「来い?ふざけてるのか?」
「何だよ」
「同情してるのか?確かに俺は人を殺してきたが、武人としての誇りも矜持もある。両手で来い……」
ライガは驚き、僅かに笑った。「悪い、気に障ったか。気持ちはわかるよ」そしてもう片方の手も上げる。「さあ、今度こそ来い」
マールスは駆けた。
ライガに届く。マールスが打つ、ライガが流す、反撃する。マールスは僅かに下がり、ライガが詰めて頭部を打つ。マールスは僅かに頭を逸らす。背後に回り込むライガ。マールスは次の攻撃を流し、打ち返すが、ライガも流す。連撃、連撃。ライガは顔を逸らして打ち込みをかわす。途切れのない応酬。
受け、流し、打ち、角度を変え、また打つ。
その攻防が続く中、突如マールスの一撃がライガの顔面を捉えた。強い一撃にライガは後退する。マールスは背筋を伸ばし構え直す。ライガは頬の傷を拭った。
「よし、遊びは終わりだ」
マールス「は?」
ライガはマールスへ駆ける。一歩、また一歩。間合いに辿り着くと急停止し、右手を後ろに引き、全力で打ち込む。マールスは流そうと構えるが、ライガはその手を引いた。
マールスは凍りつく。
ライガは左拳を全力でマールスの顔面に叩き込んだ。マールスは左側へ吹き飛ぶ。地面に手をつき、素早く体勢を立て直すが、前にはライガがいない。
ライガは背後にいた。
ライガ「後ろだ」
マールスは素早く振り向く。
ライガは首を掴み、地面に叩きつけた。マールスは口から血を流し、仰向けに倒れたまま動かない。
ライガはマールスの前に立ち、足を上げる。
マールスの顔が青ざめる。
ライガは腹を全力で踏みつけ、そのまま押し込んだ。
マールス「AAAAAAAARHHHHHHHH!!!」
ライガは足を離した。
マールスを一瞥し、歩き出す。
「つまらんな……」
マールスはうつ伏せになり、ライガを見た。
ライガは六メートルほど先に立っている。
「お前の全盛期と戦えると思ってたよ、マールス。ずっとこの日を待ち望んでいた。だが見ろ、今はどうだ?お前は三日三晩走り続け戦い続け、疲れ果て、腹も喉も渇き、左半身はもう死んでいる。顔も胸も腹も半分しか残ってない。折れた片手はやっと動く程度だ」
「なぜ手が折れてるってわかった?」
「見ればわかる。酷く腫れてる。ここへ来る途中、自分で骨を戻したんだろ?少しの間戦えるように。でももう相当痛むはずだ。違うか?」
マールスは僅かに笑った。「それでも、万全だったとしてもお前に勝てる気がしねえよ」
「いや、違うな。自分を安く見るな……まあ、そんな話はいい」ライガは二丁の拳銃を取り出す。一丁を右手に持ち、もう一丁をマールスへ投げる。マールスはそれを掴み、立ち上がった。
ライガ「よし、すぐに終わらせるのはつまらん。チャンスをやろう」
マールスは立った。「ああ、その好意には感謝するよ」
互いに銃口を向け合う。
二人は見つめ合った。
そして同時に、引き金を引いた。
マールス側では。
マールスは拳銃を取り落とし、両手をついて倒れた。
地面を叩き、叫ぶ。「なぜだ!?なぜだ!?」
見ると、ライガも仰向けに倒れていた。
「ライガ!」
ライガ「騒ぐな、少し休ませてくれ」
マールスは駆け寄り、服を掴んで揺さぶった。
「なぜわざと外した?なぜ避けなかった?諦めたのか?」
「だから騒ぐなって。諦めたわけじゃない。俺の戦いはもう終わったんだ……」
「どういう意味だ?」
「総理大臣を殺して、復讐は果たした。あとは東京全体が吹き飛ぶ。爆弾まで一分もない」
「何だと?」
「聞いた通りだ。今は11時29分、爆発は11時30分だ」
「クソッ、爆弾のことを忘れてた」
「まあ、ここから花火を見ながら逝くのも悪くない。……それとも、お前の手で殺してくれるか?」
「地獄へ行け」
「そうか。……この会話で三十秒使った。残り三十秒だ」
マールスは呆然と立ち尽くした。
別の場所で。
東京のどこかで。
女が地下の空間へ飛び降りた。辺りは完全な闇だった。ライトを取り出し点けると、そこら中に爆弾があった。周囲は巨大な爆弾で埋め尽くされ、中央のテーブルには小さな爆弾、ダイナマイトが置かれ、赤と青の線が伸びていた。
一方、マールスは。
マールスは倒れたライガのそばに座り込んでいた。
ライガ「残り十秒だ」
マールスは唇を噛んだ。
女はテーブルに近づく。小さな爆弾のタイマーは十秒を示していた。
9へと変わる。
女はハサミを取り出した。
残り7秒。
6、女はハサミを青い線に当てる。
そして、やめる。
赤い線に当て直すが、また躊躇い、手を止める。
ライガ「残り二秒だ」
一秒。
マールスは目を閉じた。
ライガ「――BOOOOOOM」
マールスは目を開ける。何も起きていなかった。自分は無事だった。
ライガは愕然とした。「なぜだ?なぜ爆発しない?」
マールスは立ち上がり、軽く笑った。「花火は不発だったようだな」
「いや、100%確認したはずだ。なのに、なぜ……」目は見開かれた。「まさか!誰かが止めたのか?誰が?」
女の元では、タイマーは1で止まっていた。赤と青、両方の線が切断されていた。
「両方一緒に切った。だから爆発しなかった。私の勝ちよ」
顔が照らし出される。マリアだった。




