湖上の花冠05
5
夜半過ぎ……
おそらくだけれど常夜灯に薄く照らされた壁掛け時計は午前二時頃を指していたように思う。
寝付けないわたしは気分を変えるためにラウンジで少しお茶を飲むことにした。
こう見えて、枕が変わると眠れないタイプなのだ。
寄宿ほど厳しくはないだろうけど、大っぴらな夜ふかしは咎められると思ったわたしは物音を立てないようにそっと扉を開けた。
雨はまだ音を立てて降りそぼっていたけれど、雲間から冴わたる月光は室内に満ちていた。
その光に照らされていたのは銀髪の天使……雪乃先輩だった。
見惚れてしまって何も言えないわたしに、先輩は枕が変わるとね。そう言って笑ってくれた。
わたしもつられて笑ってしまって
「コンロ、ないですよね。ポットでお茶入れますね」
それだけを言うと灯りはつけずに月灯りを頼りに備え付けのティーセットを使って準備をした。先輩は月に背を預けていたものだからその表情は見えなかったけれど、いい夜ね。そう言っているようだった。
二人だけの柔らかな時間が流れていた。月は二人に気を遣ってくれているのか、いつもよりゆったりと動いているように見えたし、秒針の動く音は五秒に一度くらいに感じられた。
雨すらも時を止めている、そんな時間だった。
わたしは先輩の隣に腰掛けると二人で窓の外を眺めながら湯気の立つお茶を味わった。
置きっぱなしで気の抜けたような味のティーバッグのお茶が逆に嬉しく感じる。
先輩は湖畔の桟橋に目をやっているようだった。
「花冠の……雨で流されたのかしら。蓋が半開きね。中に水が入ってないといいのだけれど」
それだけを言うとそれ以上何を言うでもなく黙り込んでしまった。
後から思い出そうとしても、わたしと先輩がその時何を話したのかは記憶の中に封印されてしまっているように後からは思い出せなかった。
ラウンジの声が遠くまで響いてしまいそうで、もう少しだけ先輩との時間を過ごしたくて、誰も起きてこないようにと、少しの間先輩とはメッセージアプリでやり取りをしたことだけは覚えている。
お互いに無言のままで、携帯をポチポチとしながら、月が綺麗だね。そうですね。カヌー残念でしたね。いいのよ、苦手だったから。そんなたわいもない会話を二人だけの時間を、楽しんだ。
その静寂を破ったのは、一人の悲痛な声だった。
「大変なの、香枝ちゃん。えっと、一年生の子。あのね、園田さんがどこにもいないの」
「香枝ちゃんがどこにもいないの」
ラウンジに飛び込んできた、瑞希先輩の顔は月の光を浴びただけでは説明がつかないほどに青白く透き通るようだった。
わたしは一瞬、園田さんなら先輩のベッドに……そこまで言いかけてからそっと雪乃先輩に耳打ちをした。
「花冠の乙女ね」
先輩はそれだけを言うと、傘を手にロッジの外に飛び出そうとする。
わたしは過保護だったかもしれない、後からそう反省したのだけれど
「先輩は雨に濡れると良くないですから。フロートを調べればいいんですよね」
それだけを言うと先輩の手から傘を奪い取った。
ロッジの入り口に干されていたポンチョの雨合羽を適当に選んで羽織ると、音を立てないようにドアをそっと開けて滑りでた。
室内からはわからなかった雨は横殴りにわたしを打ちつけて初夏とはいえすぐに体を芯から冷やしてしまった。先輩を止めておいてよかった。
わたしはビニールが皮膚に張り付く不快感を堪えながら、一歩ずつ桟橋へと向かう。
山間の雨は独特の土と木の匂いが入り混じって鼻腔をくすぐった。
通話中のままの携帯から先輩の声が絶え間なく聞こえてくる。
暗闇の懐中電灯以上にそれはわたしにとって命綱のように感じられた。
ポケットに入れたままだからよく聞こえない部分もあったけれど、
絶対に無理しないで、すぐ私たちを呼ぶのよ、そんな心配の声が聞こえてくる。
わたしは無理はしないけど、ちょっと無茶はします、とそう心に刻んで風雨に堪えながら歩を進める。
本当は大型の懐中電灯を持ってきたかったけれど、急いでいたし万が一顧問の先生に見つかってしまったら大問題になってしまう。手元の小さな明かりだけを頼りに桟橋を照らした。
フロートの中に黒い衣装を身に纏った園田さんの姿がうっすらと見えた。
彼女はかすかに明かりの方向に顔を動かすと体を起こそうと試みているようだった。
よかった、意識があることに安心したわたしは、フロートの蓋に手をかけた。
何かが引っかかっているようで蓋を開くことができない。
わたしは一度手を離すと明かりをフロートの縁に当てていく。
硬く結ばれたロープが目の端に止まった。
これが引っかかっていて人が抜け出る隙間がない。だから園田さんも出られなかったんだ。
わたしはスピーカーにした電話口に向かって
「瑞希先輩、お手伝いをお願いしたいです」
できるだけ大声でそう叫んだ。
ちゃんと伝わっただろうか。わたしが結び目を解けずに悪戦苦闘しているとロッジのドアが薄く開くのが見てとれた。
良かった、もう一人いればなんとかなるはず。
「瑞希先輩、この結び目、わたしだとどうにもできなくて」
それをみた先輩は両手で必死にほどきにかかってくれた。
わたしは片手でフロートの蓋を、もう片手で瑞希先輩の手元を照らしてサポートをする。
瑞希先輩は無言でひたすらロープに取り組んでいる。ポンチョの前も閉じておらず部屋着に容赦なく雨が当たって透ける肌が見えてわたしは慌てて目を逸らした。
「待っててね、もうちょっと……だから」
全身に力を込めて瑞希先輩はロープを解き終えた。勢い余って尻餅をついて部屋着をさらに濡らしてしまう始末だった。
わたしは片手で瑞希先輩の手を引き上げてから、フロートの扉を二人でそっと持ち上げた。中には水に浸かったまさにオフィーリアのように睫毛に水滴をしたたらせながらぐったりとした園田さんの姿。
『い、いました、園田さんです。意識はあります!けど弱っちゃってます』
わたしはできるだけ冷静さを装いながら電話越しに雪乃先輩に呼びかける。
「瑞希先輩、中まで運ぶの、お手伝いお願いできますか?」
揺れるツインテールが大きくひとつ頷くと二人で肩を貸してフロートから引き上げる。
ぐっしょりと濡れそぼった園田さんは生と死の間のような艶かしさで奇妙な神々しさまで感じるほどだった。
わたしはその考えを一瞬で振りほどいて、桟橋の上に園田さんをゆっくりとしっかりと乗せる。
園田さんの意識があってよかった。もし気を失っていたら二人では人手が足りなかったかもしれない。ゆっくりと一歩一歩、足元を確認しながら、わたしたちは二人で園田さんの両肩を支えながらロッジに運び込む。夜の静けさの中でドアが閉まる音が殊更に大きく聞こえた。
わたしは心の中で、もっと静かに……と思ったけれどその声でみんなが起きたら、と思ったら何も言えなかった。
「だ、大丈夫……です」
園田さんはそれだけを繰り返し続けている。
先輩は入口のファサードの前で大きめのタオルを持って待ってくれていた。
わたしたちにバスタオルを渡すと水分を拭き取るように命じてから素早く脈をとる。
他にもいくつかわたしにはわからない医学的な診断を下しているようだった。
わたしは、先輩にどこでそんなことを学んだのか訊くこともできずに、水分を拭き取って毛布で包んであげた。
「命に関わるような状態じゃないわ。でも体温はだいぶ下がってるみたいだから」
「お風呂場で温めてあげて」
「顧問の先生にはこれから私が伝えに行きます。今は園田さんの件だけね」
先輩の断固とした一言にわたしも瑞希先輩も何も言えなくなっていた。
廊下の水滴を拭き取りながら、わたしと瑞希先輩と三人でお風呂場にそっと園田さんを運び込むと扉に施錠をする。少し熱めのお湯を張って園田さんをその中にゆっくりと浸けてゆく。
先輩はまた手首で脈を取りながら、体をこすり続けている。
瑞希先輩も見よう見まねで同じようにしている。
園田さんはそっと目を開けると、もう、大丈夫だから、それだけを言って少し動くようになった手足を擦り合わせて自分で自分を温め始めた。
「ひとまず大丈夫そうね。顧問の先生のところにいってくるわ」
園田さんの様子を確認した雪乃先輩はそれだけを言うと一人でドアを開け浴室から出ていった。
しばらくして、慌てた様子の先生の足音が聞こえたかと思うと、雪乃先輩は顧問の先生を伴って浴室に戻ってきた。
「#7119に相談したら、意識ははっきりしているし、呼吸も安定しているから、今は体を温めて安静に。朝になったら念のため受診、必要なら搬送、という指示だったわ」
先輩がどう説明をしたのかはわからないけれど、先生は管理不行き届きで生徒がこんなことになっていることにショックを受けているようだった。
「急な雨の後の点呼が不十分でした」
瑞希先輩は深々と頭を下げると責任は自分にある、そう言った。
もしそうなら、後ろにいた彼女をきちんと見てなかったわたしの責任もあるのではないだろうか?
湯船で温まった園田さんは一人で着替えができるほどに回復し始めていた。
これには先生も瑞希先輩も目に涙を浮かべるほど喜んでいた。
誰かが大きな責任を取ることにならないといいんだけれど、わたしはそう思いながら、急な病人用の一人部屋にみんなで運び込むのを手伝った。
「さあ、朝までおやすみなさい」
「瑞希、何か言うことはなくて?」
雪乃先輩の問いかけ。
瑞希先輩は首を振るだけだった。
先輩は部長としてこの事故に問いかけをしているのだろうか?それとも別の意味で?
そもそも、本当に事故だったのだろうか?
暗鬱とした気持ちが晴れないままのわたしに先輩は何事もなかったかのように言った。
「さ、現場検証しましょ」
「謎は解かれるから謎なのよ」
わたしは呆気に取られて随分間抜けな顔をしていたに違いない。
「な、謎ですか?じゃあ事故じゃなくて故意ってことですか?」
「一つだけ安心して欲しいの。もかちゃん、あなたのせいじゃないわ」
先輩はもう一度、心から優しげな声色で慰めてくれた。
「さ、現場検証。今度はわたしも行くからね」
先輩は同じ言葉を繰り返しながら付け加えた。




