湖上の花冠01
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「オフィーリア、どれが好き?」
雪乃先輩は手に持った本から顔を上げるとわたしに声をかけてきた。
夏休みを控えた夕暮れの司書室。テーブルの上には画集が山と積まれている。
ハードカバーの表紙が夏の始まりの赤い光に反射して花束のようだ。
その光は、梅雨明けの、重さをはらんだ湿度を残した空気に柔らかく溶けてゆくようだった。
わたしの好きな本の匂いもいつもより濃く感じて、わたしは知らず大きく息を吸い込んでいた。先輩はまた画集に目を移すと熱心に見比べながら、ぶつぶつと何かを言っている。
わたしは、いつものようにソファには座らずに、先輩の後ろに回り込むとそっと覗き込んだ。先輩は、一緒にみましょう、と言うように少し首を傾げて見やすくしてくれた。
「ミレイ以外あまり知らなくて。オフィーリアは」
こういう時、美術の知識があればなあ、そう思ってしまう。
先輩の学校での成績は普通、ともっぱらの評判だが、それは多分嘘だと言う確信があった。
本だけでも、博覧強記にも程がある。暗記科目だけに絞ったとしてもトップクラスだろう。
「林間学校楽しみなんですね」
わたしは先輩にそう問いかけた。
清心館女学院夏の恒例行事、林間学校――
そこで行われる『湖上の花冠』は初日に行われる目玉イベント。
夜間のカヌー実習と合わせてオフィーリアに選ばれた少女が花冠と呼ばれるフロートに横たわる。そして、参加者全員でカヌーで周りを巡りながら、ランプで光を灯しながら花を捧げてゆく――そんな行事。
満天の夜空が映る湖面に花で埋め尽くされた選ばれた乙女。周りを囲む少女達。儀式とも映え重視とも言える行事だった。ミッション系の学校でいいのかなぁ?なんてわたしは少し不謹慎な気もするけれど。今時はこういうことも取り入れていかないと生徒数の確保にも苦労すると聞いたことがある。
「先輩は初めて参加するんでしたっけ」
「わたしも楽しみです。先輩と一緒の野外イベント」
先輩の心境を察してわたしは言った。
「ミレイはやっぱり素敵だけれど、ウォーターハウスもいいのよね」
先輩はうっとりとした表情で画集に魅入っている。
「知ってる?オフィーリアは実はドラクロワやルドンも画題にしてるのよ」
先輩の後ろに立つと、首元がよく見えた。
夏服から覗く日焼け跡ひとつない肌は白く澄んでいてわたしは、見惚れてしまう。
透き通る血管が朝靄の向こう、木々の枝のように遠く薄く見えた。
わたしは先輩に気づかれないように、摩擦ひとつない滑らかなその髪を指で挟んで撫で下ろす。空気を含んだ銀糸の髪から、リンと音が鳴るようにバラの香りが漂った。
「湖上の花冠イベント先輩が選ばれると思ってたのに」
鼻腔をくすぐるバラの余韻を追いながらのわたしの不満げな口調に
「断ったわよ」
先輩は、一言だけ言うと、笑いながら指先でわたしの手の甲をつねりながらそう言った。
「先輩なら、歴代最高のオフィーリアになったのに……」
わたしは諦めきれずに文句を言った。
「萌花ちゃんも言うようになったわね」
「エリザベス・シダルっていうモデルがいてね」
「詩人で画家でもあったんだけど……」やっぱり先輩の説明は妙に細かくて正確だ。
「ミレイのオフィーリアのモデルでね」
「バスタブで水に浸かりすぎて死にかけちゃった話があるのよ」
「当然かな?どうかな。とにかく、うちの人たちはその話を知っていてね」
「だから、林間学校へは参加させるけど、そういうのはダメって釘を刺されちゃった」
「それに私もそういう期待に応えるのは、もういいかなって。だから期待してもダメ」
「萌花ちゃんがわたしに天使じゃ無くて良いって言わなかったら、わからなかったけどね」
そう言うと、先輩につねられて赤くなったわたしの手をごめんねと言うような仕草で撫でた。
「天使じゃ無くていいなんて……言った覚えはないんですけど」
いつもの少し温度の低い先輩の指先にわたしの体温が溶け合って混ざり合ってゆく。
わたしは自分の気持ちまで移ってしまうのではないかと赤面しながら反論した。
「ねえ、萌花ちゃん、膝枕して」
そんなわたしの言葉を無視しながら先輩は唐突にお願い事をしてきた。
「え?」
「膝枕されながら決めたいの。どのオフィーリアが一番か」
先輩は頬を膨らませて言外に早く!と言いたそうな目でわたしを見つめてきた。
一瞬何を言われたのかわたしの脳が理解を拒否した。拒否というよりフリーズしてしまった。
「膝枕」
先輩は三度繰り返した。
「萌花ちゃんだけの花冠の乙女になってあげようっていう、先輩の心がわかんないかなあ」
「えっと、あの。わたし。ひざ。硬い。ですけど。太もも」
言いながら、セイレーンの歌声に引き寄せられる船乗りのように先輩の隣に腰掛けた。
すぐに、ぽふっと音を立てながら先輩が頭を乗せてきた。
わたしにも見えるように体を横に向けて本を開いてくれたけれど、やっぱり何も頭に入らなかった。先輩は、本を開きながら、わたしの前髪を引っ張ってくる。
「一度ね、萌花ちゃんの前髪引っ張ってみたかったのよ」
「最近、減ったよね。可愛い癖だなと思って見てたのに」
先輩は、その細く傷ひとつない人差し指と中指で挟んでスッと指を下ろした。
「萌花ちゃんも撫でていいよ」
さっきこっそり先輩の髪を撫でたことはしっかりと気づかれているようだった。
久しぶりに感じる雪乃先輩の距離感の不思議な取り方にわたしは困惑しながら震える手でそっと前髪を撫でつけた。先輩はテーブルに積まれた画集を取っ替え引っ替えしながら悩み続けていた。結局、どの画家のオフィーリアがいいかの結論は出なかった。




