気象俱楽部奇譚05
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毎日司書室に通っていたわたしだけれど、どれだけ話題を振っても先輩はあのデート……フィールドワークの件は口にしなかった。ようやく話が聞き出せたのは先輩が言った通り一週間後のことだった。
その日は初夏の日差しが窓際をいつもより色鮮やかに見せていて、室内はいつもと違うシナモンやわたしの知らないスパイスの香りで溢れていた。
「夏バテ防止にね、今日はチャイにしたの」
シナモンスティックを指先で摘んだまま先輩はそう言った。
先輩はいつもの繊細なティーカップではなくて、厚手のマグカップに注いでくれた。
「一週間も待たせてごめんなさい。七々瀬さんからのデータを待っていたものだから」
「さすがね。細かい技術的な部分までバッチリ」
先輩は煮出すために熱々になっているチャイに必死に息を吹きかけて冷まそうとしている。そんな様子にわたしは少し呆れながら
「あの、今度ご紹介いただけませんか?顔も知らない。いえ一方的にですけど、顔も声も存じ上げてますけど、生徒会長も知らない人からメッセージが何通も来るの嫌だと思うんです」
「私からって言えば大丈夫なんだけれど」
先輩はまた同じ言い訳をした後で
「ま、紹介はそのうちにね」
「それにきっと七々瀬さんは萌花ちゃんのこと知ってると思うな」
先輩は急に怖いことを言う。
「事情通だからね」
「さて、先日のフィールドワークのお話をしましょう」
「エッジ・インファレンス……つまり、端末側で推論を済ませる技術よ」
チャイのマグカップを両手で包み込みながら、雪乃先輩は静かに語り始めた。
カルダモンとシナモンの甘くスパイシーな香りが、夕暮れの司書室に濃密に満ちていく。
「サーバーにすべてのデータを送るのではなく、この小さな箱自体が学習するの。膨大な雨音や風のノイズの中から、自分たちが求める『特定の気象条件』だけを抽出して。なんて賢くて、健気な神経回路なのかしら」
先輩は、まるで愛しいものを思い浮かべるように目を細めた。
「太陽の光だけを糧にして、誰にも知られずに息を潜め、三十分に一度、わずか五分だけ目を覚ます。そして、遠く離れた親機へ向かって、ひっそりとデータを囁き続けるの……」
先輩の滑らかな声で語られると、無機質な機械の仕組みが、まるで悲恋の物語のように聞こえてくるから不思議だ。
「これほどまでに孤独で、献身的で、そして科学的に計算し尽くされた片想いの形を、私は他に知らないわ」
「ねえ、萌花ちゃん。この街には、私たちには聞こえない『囁き』が満ちているのよ」
先輩はいつ用意したのかスクールバッグの中からタブレットを取り出すと、電源を入れてわたしに見えるように膝に乗せた。
そうして蜘蛛の巣のように張り巡らされた百の光点を表示させた。
「半径五百メートル。この狭い箱庭の中に、百基の『観測者』が潜んでいるわ。でも、ただ漫然と目を開けているわけじゃない。彼女たちはとっても欲張りで、それでいてひどく慎ましいの」
「目を覚ますのは平日の朝と夕方だけ」
「これの意味がわかる?」
先輩は謎めいたことを言うと画面をフリックし続けた。その画面の中の、緑色に点滅する基盤の断片を凝視した。
「観測者……でも、どうやってデータを送っているんですか? 学園内にwifiなんてないのに」
「そこがこの奇商の、最高に耽美で恋物語なところね。彼女たちは騒がしくて贅沢な電波は使わないわ。『Lora』……九百二十メガヘルツの、低く、長く、遠くまで届く静かなコーラスで囁き合うの。スマートフォンの網にもかからない、誰にも気づかれない秘密の回線。それが科学部室にある親機に集約されて、一つの巨大な知能へと編み上げられていく。なんてささやかな奇商」
先輩は、いたずらっぽく笑ってわたしの前髪を指先で弄んだ。
「奇商って、何を売り物にしていたんですか?」
わたしは自分でも最もだと思う疑問を口にした。
「降雨予測データよ。清心館を中心とした五百メートル圏内の」
「それがわかったのはシステムの起動時間が平日朝と夕方つまり?」
先輩はわたしに問いかけてきた。わたしは先輩に言った。
「学生の登下校時間――の気象、降雨予測データの利用目的は相合傘ビジネス」
私は、その「百の瞳」が、この街を歩く私たちの相合傘をじっと見守っている光景を想像して、少しだけ背筋が震えた。
「五分間の覚醒と、二十五分間の沈黙。太陽を糧にする自給自足の孤独……これほどまでに合理的で、科学的な片想いの装置」
「それを私は他に知らないわ」
先輩はまた不思議に詩的なことを口ずさんだ。
「七々瀬さんから科学部予算の内訳ももらっているの」
雪乃先輩は、空になったマグをテーブルに戻すと、満足そうに目を細めた。




