『三つの手紙と三つの嘘』
雨が降り続いていた。
霧雨が世界の境界をゆるく溶かしていく。
嘘と真実の境目も、三人の心の距離も。
奏さんを問い詰めていた響は、今は黙って座り込んでいる。隣には詩先輩が寄り添い続ける。
片手には、持っていることを忘れているのか、クッキーの最後の一枚。
強く握るものだから、かけらがぱらぱらと零れ落ちた。それを払い落すことも忘れ、一点を見つめていた詩先輩が、声を絞り出した。
「響が嘘つきって言うなら、私だってだよ」
その声は、いつもの明るい彼女ではない、別の誰かのように聞こえた。
「奏が全部知ってるって言うなら……思ってること、全部言う」
「私は響が好き。でも、奏も好きなの」
俯いていた奏先輩の眉が、わずかに動いて見えた。
「私は選べなかった。私自身が、奏と同じで選ばれない側の人間だったから。どうしても奏を見捨てられなかった」
「奏が『三人で付き合おう』って言った時、本当は断らなきゃいけなかった……そうしたら、こんなことに、奏にとって、一番酷い選択にならなかったのに」
詩先輩は二人を交互に見ると、静かにうなだれ、視線を落とした。
「平等にしていれば、誰も見捨てないで済む。見捨てられないで済む――はずだったのにね」
詩先輩は自分自身に言い聞かせるように笑った。
「だから私にはアネモネなんでしょ」
「花言葉は……儚い恋・見捨てられた・君を愛す」
「見捨てられたのは奏なのかな、それとも私かな?」
「ね、奏?」
また、誰でもない声で詩先輩はつぶやいてから、からりと虚ろな笑みをこぼした。
「詩さんの嘘。やさしさゆえの」
「それはやがて、奏さんにとって“一番”になれない痛みに変わっていく」
雪乃先輩の言葉は、まるで詩先輩自身の心を代弁しているようだった。
「さっきのクッキー、響さんは迷わず取りました、奏さんは二つに分け、詩さんは自分を後回しにした」
「それも、三人の嘘の、写し鏡に見えます」
「恋って……難しいですね」
わたしだけが聞き取れた先輩の囁き。
「これが二つ目“平等”の『嘘』」
「残るは、白薔薇――奏さんの嘘」
「……聞かせてよ、あなたの考えを」
奏さんは、雪乃先輩の言葉を遮った。薄氷の鋭さは、昨日までとは別人のようだった。
罪の意識や卑屈さを、雨と共に洗い流したようだった。
響の影でも詩さんに寄り添うでもない、奏さんそのものだった。
「私に、人の心を読み解けなんて……奏さんもひどい人ですね……本気で苦手なんですよ」
雪乃先輩の、今にも消え入りそうな声。
「奏さんのお気持ち……わかるとは言いません」
「でも……できるだけ頑張ってみますね」
「奏さんあなたは、双子の響さんばかりに人気が集まることが、ずっと不満だった」
「響に人気があるのは別に、嫌でも不満でもないよ……」
静かで、遠い稲光のような奏さんの一言。
「そうですね……申し訳ありません」
雪乃先輩はそっと頭を下げる。揺れる前髪が表情を覆い隠す。
「あなたは……奏さんは、いつも二番手な事に――ずっと、ずっと傷つき続けていたんですよね」
顔をあげた雪乃先輩は、感情を込めずに言った。逆に、言いしれない悲しみを物語っているようだった。
その言葉に、奏さんが口を開く。
「誰か一人でも、自分を一番として扱ってくれれば、必要としてくれたらそれだけで」
奏さんの痛切な声が、雨音と溶けあった。
「二人を等しく好きと言ってくれていた詩さんに感謝しながら、本心では独占したかった」
「受け入れられないのが怖かった。奏さんの胸を裂くような想い……」
「それが、白薔薇の花言葉に託された」
「私はあなたにふさわしい。心からそう叫びたかった」
「三人でのお付き合いを提案したのは、奏さんですよね」
「“平等”を言い出したのは奏さん自身。でも心の奥底では、花言葉を叫びたかった」
『私はあなたにふさわしい』と。
「それは、言い換えれば、“一番”であるという事……」
「私だけを見てと、そう叫ぶこと」
「それはどんなにか……」
先輩の言葉は、空に溶ける様だった。
「三つめ、それは。奏さんの“欺瞞”の『嘘』」
先輩の言葉は霧の中に染み渡っていく。
「一番でなくてもいい」
「そうやって自分自身を騙す嘘。なんて悲しいんでしょうか」
「私はそれを、嘘とは、言いたくはないです。とても言えません……」
「私はずっと影だった。いらない子だったのよ」
奏さんの悲痛な声はいつまでも部屋を満たしていた。
思えば、あの二通は“姉と妹”みたいだった。封筒は新品とお古、押し花は違う季節を抱いていた。
奏さんと先輩の言葉は三人を、そしてわたしの胸の奥深くを切り裂いた。
覗き込むようなその痛みは、わたしの胸に長く鈍く響いた。
いつまでも読まれない手紙のように――




