『私自身を』
「欺瞞、ね、さすがだね、雪乃さん」
静かな声の中に、鋭さは消えていた。
ゆっくりと記憶の蓋を開けていくそんな声。
「ずっとずっと、一番でなくてもって、自分に嘘をつき続けてた。でも違った。響に憧れて、響になりたくて、それが叶わなくて……だから平等でいいフリをしてた。でもその嘘が、私を一番苦しめてた……」
「私の初めての恋人……今も思い出す」
「詩と出会うずっと前のこと……私と響、その子は三人でいつも一緒にいたの」
「楽しかったな……そのころから響は人気があったけど、今よりもっと仲もよくて私もこんなんじゃなかった」
「その子はね、私をはじめて選んでくれた子だったの」
「デートもしたし、バレンタインには手作りのチョコも貰った」
「嬉しかった――世界が輝いて見えるほどに、嬉しかった」
奏さんは震える声を無理やり絞り出して続けた。
「その子がね……顔を真っ赤にしながら、可愛いカップケーキを握りしめてね……」
「私、今でもその時のことを夢に見るのよ」
「幸せの絶頂の時にね……響に先に告白していた事を知った。響と相思相愛だった事も」
自分の記憶と存在を消し去りたい、そんな声だった。
「私ね、見ちゃったんだ。響とその子が階段でキスしてるのを」
「胸が張り裂けそうだった。『やっぱり響が好きなの』と、あの子が涙に濡れた顔でかすかに呟いた瞬間、色鮮やかな記憶が黒く染まっていったの」
「私、どういう事って問い詰めた。泣いて謝ってくれた。――“響に言われて告白した”って、あの子は言った……」
「私はね、その子に失望したわけじゃない。響に怒ってるわけじゃない」
「でも二人の無垢な善意は、私の全部を壊してしまった」
「もう……傷つくのも疲れ果ててしまった」
「――結局、響とその子も上手くいかなかった」
「私がいたからだよね?双子なんかで生まれなければ、響は幸せになれたんだ」
「だから、詩が私のことを一番だって言ってくれた時、ああ、今度こそ私も選ばれたんだって、本気で思った。でも、その夢も、十二時の鐘が奪い去ってしまった」
「笑っちゃうよね」
「分不相応なシンデレラ……」
「お下がりのドレスに灰をかぶるだけの毎日」
「響が私の事を好きになってくれればいいのに、そんな馬鹿な事まで考えたことがあるのよ。二人でね、鏡写しで……止まった時間の中で生きるのよ。高校も、大学も、ずっと一緒。ずっと二人で……」
「――でもね。この三日間は私だけが主人公だった。私が中心だった」
「私だけに灯りが落ちていた……楽しかった」
「でも、辛かった……早く楽になりたかった……もう消えてしまいたかった」
奏さんは、灰にまみれた白薔薇を、摘みたての花を愛でるように大切そうに手に持った。
しばらくして、戸惑いながら口を開いたのは響だった。
「奏……そんな……あなたが居なくなったら私、嫌だよ。もっと一緒に居たいよ。ダンスもしたいし色んな事したい。詩も、おんなじ気持ちだよ……ダメだよ……」
響さんは泣きじゃくっていた。詩先輩はその手を握ったまま、何も言わなかった。
奏さんは柔らかい眼差しを二人に向け、言葉を落とした。
「ありがとう、お姉ちゃん、詩。あなた達の気持ちがわかっただけでも良かった」
出会った時の鏡像が、初めて形を得たように見えた。
でも、そんな和解の空気は一瞬のことだった。
また、静かで暗い声。
「ねえ、雪乃さん、こんな私の気持ちがあなたにわかる?」
「恋なんかしたこともないって、澄ました顔して」
「わかるわけないよね」
「遊びなら、そろそろやめたら?こんな灰を被った薔薇、あなたには似合わないよ」
わたしに視線を移し、冷ややかに笑った。
「如月さん。幽霊屋敷の薔薇がきっかけで、いい夢が見れて良かったね」
「そういう噂、みんなしてるよ……“身の程知らず”だって」
「でも、もうほんとに終わりにした方がいい、取り返しがつかなくなる前に」
「私みたいに壊れてしまう前に」
わたしは何も言えなかった。だってその言葉は、噂なんかじゃないから。全部わかっていたから。
胸が苦しくて、うまく息ができない。それでも、それ以上に胸の奥が熱くなった。
どんなに怖くても、傷ついても、好きな人が傷つけられるのだけは耐えられなかった。
優しかったおばあちゃんと、あの日の先輩の微笑みを思い出す。
『天使』の泣き笑いを――
先輩の苦しい心の内を、どうしてわかってもらえないの?
悲痛に揺れる睫毛も、雨が落ちそうな夕暮れの瞳も、なにもかも――。
そう叫びたかった。
奏さんは話し続けた。
「いつも自分だけが蚊帳の外って気持ちわかる?自分がいることで、世界が歪んでる気持ち……わかる?」
「わからないでしょ?雪乃さん。あなたに、わかるわけが、ない」
そう言うと雪乃先輩に向き直った。
「だからね、響と詩だけじゃなくて雪乃さん、どうしてもあなたを巻き込みたかった。あなた、ずっと主人公だったんでしょ……響と同じ、愛される人だったんでしょう」
「なんで?何が違う?私と何が違うの?」
奏さんの独白がしんしんと降る雪の様に、部屋に響き渡った。
耳鳴りが止まないような、空気の震え。
胸の奥で何かが弾けた。
膝の震えを押さえ込んで、わたしは立ち上がった。
その衝動が何なのか、自分でも理解できたのは、
雨が止んだずっと後のことだった。




