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足の数  作者: 森 高陽
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ムカデのおぼえ書き

天衣無縫の境地から一転、地に落ちて内省するムカデくん。

 暗い部屋の隅で、私はずっと、自分の足を見ている。


 おかしなものだ。生まれてからこのかた、この足たちのことを、私は一度も「見た」ことがなかった。見る必要がなかったからだ。足は、私が頼まなくても、いつもそこにいた。朝、目が覚めれば歩いていたし、音楽が鳴れば踊っていた。私にとって足とは、自分の意思の続きであって、見るものではなく、ただそこから世界へ伸びていくものだった。空気を、いちいち見る者がいないのと同じだ。


 それが今は、四十対の、私の知らない他人のように、私を見返している。


 始まりは、一通の手紙だった。誰とも知れぬ讃美者からの、優しい問いかけ。最初に動かすのは、どの足ですか、と。


 私は、その人の親切に応えたかった。それだけなのだ。悪意があれば、まだよかった。悪意なら、はねつけることもできた。けれど、あんなにも温かく差し出された問いを、私はどうして無下にできただろう。誰かが、私の踊りを、眠れぬほど見つめてくれていた。その人のために、私はきちんと、自分のことを知りたいと思った。


 ——それが、間違いだった、とは言わない。問いそのものに、罪はないのだから。


 ただ、私は知ってしまった。「知ろうとした」というほうが、正しいかもしれない。最初に動かすのはどの足か。その問いに答えようと、私は初めて、行列の先頭を覗き込んだ。すると、それまで一本の長い帯だった私の体が、ばらばらの、四十対の足の集まりに、ほどけて見えた。一本いっぽんが、別々の名前と、別々の都合を持って、てんでに動こうとしている。それを、誰が、どんな順で、と数えはじめたとたん――


 帯は、もう、帯ではなくなっていた。


 わかってほしい。私は、踊り方を忘れたのではない。むしろ逆だ。今の私は、自分の足のことを、以前よりずっとよく知っている。どの足が何番目で、隣がどれで、と訊かれれば、いくらでも答えられる。知識だけなら、踊っていた頃の何倍も持っている。


 けれど、知れば知るほど、動けなくなる。


 これは、いったいどういう罰なのだろう。知ることは、よいことのはずだった。自分を知れ、と賢者たちは言う。けれど私は、自分を知ったその手で、自分の踊りを絞め殺してしまった。知ろうとする視線が射し込んだ場所から、命のようなものが、すうっと逃げていく。覗き込んだとたんに消えてしまう。覗き込まなければ、たしかにそこにあったのに。


 夜ごと、私は試す。今度こそ、と中央に立つ姿を思い描く。けれど一歩目を踏み出そうとするその刹那、必ずあの声が囁く。――さあ、どの足から。そして足は、また凍りつく。結び直そうとするほど、糸はかたく結ぼれる。考えまいとすることが、すでに考えることだった。「象のことを考えるな」と言われて、象を追い払えた者がいるだろうか。


 広場のほうから、夕方になると、まだ音楽が流れてくる。


 私はもう、あそこへは行かない。けれど、窓の隙間から漏れてくるあの旋律を、体のどこかが、まだ覚えているのがわかる。覚えていて、けれど応えられずにいる。それがいちばん、つらい。忘れてしまえたなら、どんなに楽だろう。


 もし、あの讃美者に返事を書けるなら、私はこう書くだろう。――どの足から踏み出すのか、私はとうとう知りました。けれど、知ったその日から、私は一歩も踏み出せなくなりました。あなたが愛してくれたあの踊りは、私が「知らない」という、ただそれだけの場所に、ずっと立っていたのです、と。


 だが、その手紙の宛先を、私は知らない。だから私は、ただ暗がりで足を数えながら、誰かが――あるいは私自身が――この呪いをほどく、出口のない問いの、その先を、待っている。



がんばれムカデくん。

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