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足の数  作者: 森 高陽
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新編 ムカデのジレンマ

ムカデのジレンマの物語。

1.足の数


 その町の広場には、夕方になると音楽が流れた。誰が始めたわけでもない習わしで、誰かが古い手回しオルガンを回すと、仕事を終えた者たちが一人、また一人と集まってきて、石畳のうえに思い思いの輪をつくる。そして、その輪の真ん中で踊るのは、長いあいだ、カエルだった。


 カエルの踊りは、技巧ではなかった。跳ねる。沈む。また跳ねる。ただそれだけの、子どもにでもできそうな動きだった。けれど彼が跳ねると、なぜだか見ている者の喉の奥がふいに熱くなって、思わず手拍子を打ちたくなる。彼自身、自分がどうやって跳んでいるのか、考えたことは一度もなかった。音楽が鳴れば、体が先に喜んだ。それだけのことだった。広場の人々は彼を「跳ねるカエルさん」と呼び、子どもたちは彼の真似をして転んでは笑った。それが、この町のいちばん平和な時間の景色だった。


 ムカデが越してきたのは、葉の色が変わりはじめた頃である。


 最初の夕方、ムカデは輪のいちばん外で、遠慮がちに音楽を聴いていた。二度目の夕方、彼はほんの少しだけ、体の前のほうを揺らした。三度目の夕方、誰かが「あなたも踊ってみたら」と声をかけた。


 ムカデが石畳の中央に出ていったとき、人々はまだ笑っていた。あんなにたくさんの足で、どうやって踊るというのか、と。けれどオルガンの音が高くなった瞬間、笑い声は止んだ。


 それは、踊りというより、ひとつの生き物が見せる奇跡だった。数えきれない足が、波のように順々に石を打ち、長い体は銀色の帯のようにうねって、月の光をそのつどすくい取っては流した。前のほうの足が綴る細かなリズムと、後ろのほうの足が刻む深い拍とが、ひとつの体のなかで重なり合い、追いかけ合う。ひとりの踊り手が、まるごとひとつの楽団だった。


 その夜、広場は今まで聞いたことのないような拍手に包まれた。


 カエルは、輪のいちばん外で、それを見ていた。


 誰も、彼が来ていたことに気づかなかった。それが、何よりこたえた。


 次の夕方、人々はムカデを囲んだ。その次も。カエルが跳ねても、もう誰も喉を熱くしなかった。「跳ねるカエルさん」は、いつのまにか、ただ跳ねているだけのカエルになっていた。彼は自分の踊りが急に下手になったわけではないと知っていた。何も変わっていない。ただ、隣に、自分よりも美しいものが現れた。それだけのことだった。けれど「それだけのこと」は、夜ごと彼の腹の底に冷たい石を積んでいった。


 嫉妬は、正面から殴ってはこない。嫉妬は耳もとで囁く。あれがいなければ、と。


 ある晩、眠れぬままに、カエルは思いついた。それは、悪魔のように親切な顔をした思いつきだった。彼は机に向かい、いちばん上等な紙を選び、できるかぎり美しい字で、こう書いた。


  拝啓 ムカデ様。


  あなたの踊りに、すっかり心を奪われてしまった者です。あんなにたくさんの足が、どうしてあれほど見事に揃うのか、考えるだけで眠れぬほどです。ひとつだけ、どうしても教えていただきたいことがございます。


  あなたが一歩目を踏み出すとき、いちばん最初に動かすのは、どの足なのでしょう。右から数えて何番目ですか。それとも左から。二歩目は、その隣の足ですか。それとも、ひとつ飛ばし。残りの足は、その間、どうやって順番を待っているのでしょう。


  あなたの秘密を知ることができたら、これにまさる喜びはございません。  敬具


 差出人の名は、書かなかった。ただ「あなたのいちばんの讃美者より」とだけ添えた。


 ムカデは、その手紙を、何度も読み返した。悪意を、彼はまったく感じ取らなかった。むしろ胸が温かくなった。こんなにも熱心に自分の踊りを見てくれている人がいる。その人のために、きちんと答えてあげたい、と彼は思った。


 それで彼は、生まれて初めて、自分の足のことを考えた。


 最初に動かすのは、どの足だろう。


 ——わからなかった。


 今まで、考えたことがなかったからだ。音楽が鳴れば、体のほうが先に喜んで、足は勝手に正しい順で石を打った。カエルが自分の跳躍を知らなかったのと、それはまったく同じことだった。けれどカエルと違って、ムカデは問われてしまった。そして、優しい彼は、その問いに誠実であろうとしてしまった。


 その夜、オルガンが鳴った。ムカデは中央に進み出た。


 そして、一歩目に、考えた。——どの足から。


 足が、止まった。


 右から三番目か。いや、左の四番目が先だったか。次は隣か、ひとつ飛ばしか。数えはじめたとたん、あれほど自然だった行列が、ばらばらの、てんでに動こうとする他人の足の群れに見えた。前のほうが慌てて出ようとし、後ろのほうがそれを待ちきれずにもつれ、長い体は石畳のうえで、見るも無残にこんがらがった。


 人々は、最初、新しい趣向かと思って笑った。やがて笑いはやみ、ささやきに変わり、ささやきも消えた。ムカデは、自分の足に巻き取られるようにして、その場にうずくまった。


 翌日も、その翌日も、彼は踊れなかった。一度からまってしまった糸は、結び直すほどに固くもつれた。広場にムカデの姿はなくなった。


かわいそうなムカデ。カエルは恥を知るべき。

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