第32話
胸の鼓動がやけに大きく聞こえた。
(落ち着くのよ。今日がいいって言ったのは私なんだから)
そう自分に言い聞かせ、オフィーリアは意を決して扉を開けた。
部屋には、すでにブライアンがいた。
寝台の上で枕を背に本を読んでいた彼が、気配に気づいて顔を上げる。
艶やかな黒髪に縁取られた端正な顔立ち。こちらをまっすぐに映す、ルビーのような深紅の瞳。
改めてその美しさを意識した途端、オフィーリアの頬は夕食のとき以上に熱を帯びた。
「そんなところに立っていないで、おいで」
優しく呼ばれ、オフィーリアは小さく頷く。
ゆっくりと寝台へ近づくと、ブライアンが手を差し出した。その手を取った瞬間、胸の内の緊張まで見透かされたような気がした。
「まだ緊張している?」
「……少しだけですわ」
「大丈夫。オフィーリアが嫌がることは絶対にしない」
穏やかな声音に、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていく。
なにより、相手は自分が心から大好きな人なのだ。
愛のないまま初夜を迎える貴族の夫婦も少なくないというのに、自分は好きな人とこうして同じ夜を迎えられる。その幸せを、オフィーリアは改めて噛みしめた。
寝台に上がり、ブライアンの隣に身を横たえる。
すると彼の手が伸び、頬にそっと触れた。
互いの瞳に相手だけを映しているうちに、いつしか言葉は必要なくなっていた。
やがて唇が重なり、オフィーリアはそっと目を閉じる。
嬉しさと恥ずかしさで胸をいっぱいにしながら、愛しい人のぬくもりを受け入れた。
その夜、二人の間に残されていた最後の距離も静かに消えていった。
満ち足りた幸福に包まれながら、オフィーリアはやがて穏やかな眠りへと落ちていった。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む淡い光に、オフィーリアはゆっくりと目を覚ました。すぐそばには、まだ眠っているブライアンの顔がある。
昨夜のことを思い出した途端、頬が熱くなった。けれど、それ以上に胸の奥が温かい。
オフィーリアは起こさないようにそっとブライアンの胸に身を寄せた。
(本当に、夫婦になったのね)
そう思うと、嬉しくてたまらない。
「……そんなに可愛い顔で見つめられたら、寝たふりを続けられないな」
「まあ、起きていらしたんですの?」
ブライアンは笑ってオフィーリアを抱き寄せた。
「おはよう、俺の可愛い奥様」
「……おはようございます、私の素敵な旦那様」
二人は顔を見合わせて笑い、もう一度しっかりと抱き合った。
やがてブライアンがオフィーリアの頬に手を添え、朝の挨拶のように軽く口づける。
「また後で」
「はい、旦那様」
名残惜しさを残しながらも、二人はいったんそれぞれの部屋へ戻り、朝の身支度を整えることになった。
オフィーリアの部屋では、いつものようにアンナが髪を梳かしている。
鏡越しに主人の顔を見たアンナは察した。
今朝のオフィーリアは、いつにも増して機嫌がいい。頬はほんのり色づき、肌には艶があり、何より表情が柔らかかった。
(……これは、どうやら無事に初夜を迎えられたようですね)
アンナは内心でほっと息をつく。
あれほど悩み、傷つき、すれ違っていた二人が、ようやく本当の意味で夫婦になれたのだ。
「オフィーリア様」
「なあに?」
「今朝は、いつにも増してお綺麗ですよ」
「まあ。急にどうしたの?」
「いいえ、なんとなくそう思っただけです」
アンナは意味ありげに微笑んだ。
オフィーリアは一瞬きょとんとしたあと、その笑みの意味に気づいたらしい。
たちまち頬を赤くし、鏡の中のアンナから目を逸らした。
「……アンナ、それ以上言わないで」
「お幸せそうでなによりです」
そう答えながらも、アンナの口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
その後、オフィーリアはブライアンと向かい合って朝食を取っていた。
けれど今日は、目が合うたびに昨夜のことが蘇り、どうしても頬が熱くなってしまう。
「そんなに俯いていたら食べにくいだろう」
「だ、だって……旦那様がこちらを見すぎるからですわ」
「ああ。あんまり可愛すぎて、目が離せなかった。俺の妻は最高に可愛い」
楽しそうに言われ、オフィーリアの頬はいっそう熱くなった。
「もう……」
ようやく念願だった『可愛い妻』になれたのだと思うと、胸の奥まで幸せで満たされていく。
(子猫の姿の私に勝利よ!)
そんな朝を過ごし、その日の午後、二人は昨日話していた辺境地のことについて、居間で改めて話し合うことにした。
「昨日の続きなんだが」
ブライアンはオフィーリアの隣に腰を下ろした。
「俺は、この土地をもっと楽しくて賑やかな場所にしたいと思っている。君がここで暮らしていて、王都を恋しがらなくてもいいくらいに。おしゃれな店も増やしたいし、皆が楽しめることも増やしたい。ここにいてよかったと思える土地にしたいんだ」
オフィーリアは嬉しそうにブライアンを見つめた。
「でしたら、私にも一緒に考えさせてください」
「もちろんだ。そのつもりで昨日、力を貸してほしいと言ったんだからな」
ブライアンが自然に腰へ腕を回すと、オフィーリアは少し頬を染めながら、その肩にそっと頭を預けた。
「それなら……ひとつ、思いついたことがありますの」
「もうか?」
「ええ」
オフィーリアは窓の外に広がる雪景色へ目を向けた。
「まずは、この雪を利用してみませんか?」




