第31話
少し離れた馬車の中では、アンナがその様子を眺めながら大きく息を吐いていた。
「……やっとですわね」
御者が振り返る。
「このまま待ちますか?」
「いいえ。まっすぐフォートリエ辺境伯爵邸へ向かってください。まだ当分、二人だけの世界に浸っていそうなので」
満足そうに微笑むアンナを乗せた馬車は、そのまま辺境伯爵邸へ向かって走り出した。
アンナの予想通り二人はしばらく抱き合っていたが、やがてブライアンが馬へ戻ると、オフィーリアへ手を差し出した。
「さあ、一緒に帰ろう」
「はい」
その手を取ると、ブライアンはオフィーリアを軽々と抱き上げ、自分の前へ乗せる。
「落ちないように掴まっていてくれ。春になったら乗馬を教えよう。一緒に領地を見て回りたいし、湖にも行きたい」
「実は私、乗馬は得意ですわ」
「そうなのか? それは頼もしいな。近くの湖には昔から伝説があってね。悪戯好きの妖精が出ると言われているんだ。だから、けっして一人では行かないでくれ」
オフィーリアは思わず目を瞬いた。
実はもう一人で行ったことも、その妖精に出くわして条件が揃うと子猫になってしまうことも、ブライアンは知らない。
(今ここで本当のことを話せば、きっと必要以上に心配させてしまうわね。せっかくこんなに幸せな気分なのだもの。これは、もう少しあとで話せばいいわよね)
そう決めて、オフィーリアは何食わぬ顔でにっこりと微笑んだ。
馬はゆっくりと雪道を進んでいく。
ブライアンの腕に包まれながら、オフィーリアは頬をほんのりと染めたまま、久しぶりの雪道を楽しんでいた。
その後。
フォートリエ辺境伯邸の前にブライアンとオフィーリアの姿が見えると、屋敷中が歓迎ムードに包まれた。
「奥様!」
執事も侍女長も玄関先に出ている。
その横には使用人たちがずらりと並んでいた。先に着いたアンナが、オフィーリアが帰ってくることを伝えていたのだ。
「お帰りなさいませ!」
「奥様、お待ちしておりました!」
「本当に戻ってきてくださったのですね!」
あちらこちらから声が飛ぶ。
オフィーリアは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「ただいま!」
ブライアンが馬から飛び降りオフィーリアに手を差し出し、抱き上げながらそっと地面に降ろした。宝物を扱うように丁寧で、その腰のあたりに腕を回し、ぴったりと寄り添っている。
執事はそんな二人を見比べ、満足そうに頷いた。
「どうやら、無事に仲直りなさったようですな」
「……ああ」
「それは何よりでございます、坊っちゃま」
「だから、その呼び方はやめろ」
辺りから小さな笑い声が上がった。
オフィーリアも笑う。
雪に閉ざされたフォートリエ辺境伯の屋敷に、久しぶりに以前の温かさが戻ってきたのだった。
使用人たちの歓迎がひと段落したあと、ブライアンは居間のソファでオフィーリアを膝に乗せたまま話しかけた。
「オフィーリア。俺はこの辺境地をもっと暮らしやすくしたいと思っている。君がここにいても、王都を恋しく思わなくていいくらい、明るく楽しい土地にしたいんだ。だから……力を貸してくれるか?」
ブライアンは少し照れたように笑った。
オフィーリアの顔がぱっと明るくなる。
「もちろんですわ!」
だがここで、やんわりとアンナが横から口を挟む。
「お話中のところ、失礼いたします。旦那様、申し訳ありませんが、そのお話は明日になさってください」
「アンナ? 今は旦那様と領地のお話を――」
「オフィーリア様。外をご覧くださいませ。もう日が暮れますわ」
言われて窓へ目をやると、雪景色はすでに夕暮れの淡い色に染まり始めていた。
「オフィーリア様。今夜は、やっとお二人の気持ちが通じ合った夜です。領地改革のほかにも大切なご予定がございますでしょう?」
「ほかに……?」
そこまで言って、オフィーリアは、はっとした。
みるみる頬が赤くなる。
「あっ……そうでしたわ」
アンナは満足そうに頷いた。
「では参りましょう。髪もお肌も、今夜のために念入りに整えなくてはなりません」
「そ、そうね。旦那様、では……また後ほど」
「ああ」
ブライアンは名残惜しそうにオフィーリアを見送った。その視線を背中に感じながら部屋を出た途端、オフィーリアの胸が急に騒がしくなる。
今夜、初めてブライアンと夫婦の寝室で夜を一緒に過ごすのだ。
その後、オフィーリアはアンナたちの手で念入りに湯浴みをさせられ、髪から爪の先まで丁寧に磨き上げられた。
「とてもお美しいですわ、オフィーリア様」
アンナは心からの賛辞を贈り、オフィーリアは照れたように微笑んだ。
夕食はブライアンと二人で取ったのだが、いつもなら何気なく交わしている会話も、今夜ばかりはどこか落ち着かない。
ふと顔を上げるたびにブライアンと目が合い、そのたびにオフィーリアは頬を赤くして視線を逸らした。
「……さっきから、あまり俺のほうを見てくれないな」
「そ、それは……」
オフィーリアはますます赤くなり、手元の皿へ目を落とした。
そんな彼女を見て、ブライアンは困らせるつもりはなかったとでもいうように、柔らかく笑う。
「そんなに緊張しなくていい。もしまだ心の準備ができていないなら、今夜でなくてもいいんだよ」
その言葉に、オフィーリアは勢いよく顔を上げた。
「いいえ、今日がいいです!」
思った以上に大きな声が出てしまい、言った本人が一番驚いた。
ブライアンも一瞬目を見開いたあと、嬉しそうに頬を緩める。
オフィーリアは恥ずかしさに耐えきれず、また俯いた。
「その……やっとお互いの気持ちが通じ合ったのですもの。これ以上先延ばしにしたくありませんわ」
「ああ。わかった」
短く答えたブライアンの声が、蕩けるように甘い。
それから夕食が終わるまで、オフィーリアはまともにブライアンの顔を見ることができなかった。
その様子を少し離れたところで見守っていた執事と侍女長は、やっとこの日が来たとばかりに目を潤ませていた。
「もしかしたら、そう遠くない未来に屋敷を賑やかに駆け回るお坊ちゃまが誕生なさるかもしれませんな」
「いえいえ、きっと可愛らしいお嬢様ではないでしょうか」
気の早い二人は、まだ見ぬ子どもの姿を思い描いているのか、すっかり浮き立っていた。それを聞いていたアンナは呆れたように肩をすくめる。
「お二人とも、まだ何も始まっておりませんわ。まずは今夜を無事にお迎えいただくことだけ考えてくださいませ」
もっとも、そう言ったアンナ自身も口元の笑みを隠しきれてはいなかった。
湯浴みを終えると、アンナはいつにも増して念入りにオフィーリアの髪を整え、用意していた夜着を着せていった。以前にも同じように初夜の支度をしたはずなのに、今夜は胸の高鳴りがまるで違っていた。そして夜もすっかり更けた頃、オフィーリアは、夫婦の寝室の前に立っていた。




