第26話
「聞こえませんでした?」
「いえ、聞こえましたが……なぜ急に」
「急ではありませんわ。あの子はずいぶん悩んでいたようですから」
ブライアンの表情がわずかに強張る。
「悩んでいた?」
「ええ。自分は妻として必要とされていないのではないか、と」
「そんなことは――」
「違うのですか?」
キャサリンは間髪入れずに切り込んだ。
「屋敷のことは任せる。領地の仕事でも頼りにする。商談でも意見を聞く。オフィーリアが優秀なのは、十分おわかりなのでしょう?」
「……はい、もちろんです。とても助かっていますし、感謝しています」
「姪を正しく評価していただき、私も嬉しいですわ」
キャサリンは口元を緩めたが、すぐにまた厳しい顔付きに戻る。
「ですが、あの子を妻としては放っておくのでしょう?」
「…………」
「勇気を出して夫婦の寝室へお誘いしたのに、お断りになったと聞きました。オフィーリアが言ってきたのではありませんよ。アンナが私に手紙を寄こしました」
ブライアンは目を伏せた。
「事情がおありなのかもしれません。ですが、それならそれで、きちんと説明なさるべきです」
「……おっしゃる通りです」
「あら。素直でいらっしゃるのね」
少し意外そうに言われ、ブライアンは苦笑した。
「反論できませんから」
キャサリンはじっとブライアンを見つめた。
愛らしく、美しく、賢く、気立てもいい。
そんなオフィーリアから夫婦の寝室へ誘われて断る男。
(やっぱり……そういうことなのかしら)
「ご存じのように、私は王都で商会を経営しています。オフィーリアほど優秀な子なら、いくらでも活躍できますのよ。こちらへ嫁ぐまでは、私の片腕のようなものでした」
「……片腕、ですか」
「ええ。いずれは商会そのものを継がせるつもりでした」
ブライアンは黙った。
「ですから、しばらく王都で暮らしてもらいます。妻として必要とされていない場所に、いつまでも置いておく理由はありませんもの」
「そんなつもりは――」
「では、どういうおつもりなのです?」
ブライアンは答えに詰まる。
その沈黙を見て、キャサリンは内心でますます確信を深めた。
(やっぱり、女性には興味がないんだわ。……こればっかりは仕方ないわね)
すっかりキャサリンの中では、ブライアンの恋愛対象は男性になっている。
(それなら最初から、あんな可愛い子を妻に迎えなければよかったでしょうに。……あっ、この結婚は王命だったわ。思慮の浅い国王が思いつきで嫁がせたんだった。本当に腹立たしいこと!)
「オフィーリアは王都へ連れて帰ります」
きっぱり告げられたブライアンは、しばらく黙っていた。
本当は引き止めたかった。
だが、自分は彼女を傷つけたばかりだ。
それに、華やかな王都で商会の仕事をしているほうが、オフィーリアには似合っている。
「……わかりました。オフィーリアが王都で過ごしたいのであれば、こちらのことは何も心配しなくていいと伝えてください。好きなだけ王都にいて構いません」
「承知しましたわ。それでは、そうさせていただきます」
キャサリンは満足そうに微笑んだ。
しばらくして、キャサリンがサロンへ戻ってきた。
その顔には、晴れやかな笑みが浮かんでいる。
オフィーリアはそれを見ただけで、なんとなく察してしまった。
(……話がついたのね)
つまり、ブライアンは引き止めなかったのだ。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「叔母様……お話は終わったの?」
「ええ。きちんとお話ししてきたわ」
隣にいたアンナが、少し遠慮がちに尋ねる。
「キャサリン様。旦那様は……オフィーリア様がお帰りになることを、お止めにならなかったのですか?」
「ええ。まったく」
「……そうですか」
アンナの表情が憤然とした。
オフィーリアは表情を曇らせながら、膝の上でギュッと手を握る。
「王都で暮らしたいのなら、好きなだけそうすればいいとおっしゃっていたわ」
そこまで聞けば十分だった。
「わかりました」
オフィーリアは立ち上がり、無理にでも明るく笑った。
「では叔母様、早速王都へ参りましょう」
「ええ。そうしましょう」
「奥様……?」
少し離れたところに控えていた侍女長が驚いたように声を上げた。
執事も目を見開いている。
「お待ちください。本当に、王都に向かわれるのですか?」
「ええ。荷物もまとめてありますし」
「ですが、あまりにも急では……」
侍女長と執事は戸惑いを隠せない。
キャサリンは二人へ穏やかな笑みを向けた。
「どうか、オフィーリアを引き留めないでください。これはオフィーリアとブライアン卿の夫婦間の問題ですのよ。妻として望まれない以上、離れて暮らすのが最善の策ではないかしら?」
執事と侍女長は顔を見合わせた。
納得はできないが、当のオフィーリアが帰ると言っている以上、それ以上強く止めることもできない。
「皆さんには本当によくしていただきました」
オフィーリアがそう言うと、侍女長の眉尻が悲しげに下がる。
「奥様……」
「そんな顔をしないで。ずっと帰ってこないと決まったわけではないのだから」
そう言ったものの、自分でもその言葉がどこか空しく聞こえた。
やがて出発の支度が始まる。
トランクが運び出され、馬車の準備が整えられていく。
その様子を見ていた執事は、ついに黙っていられなくなった。
「侍女長、旦那様のところへ行こう」
「ええ」
二人は短く頷き合うと、その足でブライアンの執務室へ向かった。
「旦那様」
執事と侍女長が揃って現れたことに、ブライアンは書類から顔を上げた。
「どうした?」
「奥様が、まもなく王都へお発ちになります」
「……そうか」
あまりにもそっけない返事に、侍女長は思わず一歩前へ出た。
「旦那様。本当にこのままお帰しになってよろしいのですか? しかもお見送りもしないなど……」
ブライアンはしばらく黙った。
「これでいいんだよ……ここはあまりにも娯楽が少ない。オフィーリアがかわいそうだろう?」
執事と侍女長が同時に顔を見合わせた。
「ですが旦那様。あれほどの女性を王都に帰してしまうなんて、フォートリエ辺境伯家の損失です。とても有能で可愛らしい奥様でしたのに……」
ブライアンは寂しげに首を横に振った。
「これがオフィーリアにとっての最善なんだ」
執事と侍女長は、しばし無言で主人を見つめた。
夫婦の寝室には一度も足を運ばず――これは夫婦の寝室を掃除している者たちの話でわかっている。
奥様から誘われても断り――アンナからすでに聞いていた。
そのうえ、王都へ帰ると聞いても引き止めない。
侍女長がそっと執事を見る。
執事もまた、何とも言えない顔で見返した。
(まさか……)
二人の胸に、キャサリンたちと同じ疑念が浮かんだ。
ブライアンはそんな誤解を招いているとも知らず、再び書類へ視線を落とした。
もちろん、一文字も頭には入っていなかった。




