第23話
一方、夫婦の寝室に誘われたブライアンは、きっぱりと断ったようでいて、心の中は大いにぐらついていた。
あれほど愛らしく美しい妻に誘われたのだ。しかも、ブライアン自身、オフィーリアには十分すぎるほど好意を抱いている。
できることなら、自分だってあの誘いを受け入れたかった。
本当の夫婦になれたなら、どれほど嬉しいだろう。
「……はあ」
執務机に向かったまま、ブライアンは深いため息をついた。
手元には領内から上がってきた報告書がある。
先ほどから目を通しているのだが、内容がまるで頭に入ってこない。
『そろそろ夫婦の寝室を使ってもよろしいのでは?』
昨夜のオフィーリアの声が、また頭の中によみがえる。
「…………」
ブライアンは報告書の一点だけを見つめている。
「ブライアン様」
向かいで書類を整理していた側近が、不審そうに顔を上げる。
「なんだ」
「いえ。先ほどから、その報告書をずっと睨んでいるだけで一向に仕事が進んでいませんよ」
「……そうか?」
「はい。それと、今日はため息が多すぎます」
ブライアンは眉間を押さえた。
どうにも集中できない。
昨夜、あのまま「わかった」と答えていたら。
二人で夫婦の寝室へ向かっていたら――。
そこまで考えて、ブライアンは慌てて思考を打ち切った。
「……書類を見よう」
「先ほどから穴が開くほど同じ書類を見てますよ」
「わかっている」
側近がますます怪訝そうな顔をする。
ブライアンは報告書に集中しようとしたが、目は文面を追っていても頭では別のことを考えてしまう。
オフィーリアが嫌なのではなく、むしろ逆だ。
聡明で、優しく、愛らしい。
ともに過ごす時間が増えるほど惹かれている。
だからこそ、簡単にあの手を取るわけにはいかなかった。
(オフィーリアには華やかな王都が似合う。まして、商いにも領地経営にも才があり、今日に至っては雪道を走る車輪にまで新しい工夫を思いついたのだ。こんな辺境に縛りつけていい女性じゃないんだ)
今ならまだ、オフィーリアが望めば自由にしてやれると、ブライアンは思っていた。しかし本当の夫婦になってしまったら、きっと手離すことはできない。
「……はあ」
「ブライアン様。いい加減仕事してくださいよぉー。これじゃぁ、奥様に代わりにサインしてもらうしかありませんね。奥様ならすぐに……」
「オフィーリア……ああ、オフィーリアは可愛すぎるよな」
ブライアンの本音が零れる。側近はしばらくブライアンを眺めていたが、やがて何かを察したように口元を緩めた。
「奥様に恋煩いとは微笑ましいです」
「ち、違う…………黙って仕事をしろ」
「はい」
側近の顔は明らかに面白がっている。
ブライアンはもう一度、報告書へ視線を落とした。
けれど、やはり文字は少しも頭に入ってこないのだった。
王都では、キャサリンが辺境から早馬で駆けつけた使いの者に、ねぎらいの言葉をかけていた。ここは、王都随一の規模を誇る商会本部の会長室である。
「遠いところをありがとう。まずは食事を取って、ゆっくり休んでちょうだい。馬の世話もこちらでさせるわ」
使いの者を休ませた後、キャサリンは人払いをし、アンナから届いた手紙を開いた。
最初のうちは、にこにこと楽しそうに読んでいた。
「まあ。オフィーリアったら、領地の仕事まで手伝っているのね。あの子らしいわ」
ところが、読み進めるにつれて笑みが消えていく。
最後まで読み終えた頃には、キャサリンのエメラルドグリーンの瞳は、らんらんと怒りに燃えていた。
「……フォートリエ辺境伯めっ!」
もう一度、手紙に目を落とす。
「オフィーリアを優秀な仕事仲間として頼りにしている?……それは結構よ」
そこまではいい。
「なのに、あの子は妻として求められていないのではないかと悩んでいた? 勇気を出して夫婦の寝室に誘ったのに断られたですって?」
それはゆゆしき問題だ。とても放っておくことなどできない。
キャサリンは手紙を机に置いた。
「冗談じゃないわ!」
ばん、と机を叩く。
「いくら王命で結ばれた夫婦だからって領地や屋敷の仕事だけ押しつけて、肝心の愛を与えないって、そんな都合のいい話がありますか!」
もちろん、ブライアンにも何か事情があるのかもしれない。
だが、そんなことは今のキャサリンにはどうでもいいことだった。
何より問題なのは、オフィーリアが悲しんでいるということである。
新妻にこんな仕打ちをするなんて碌な男ではない――キャサリンはそう決めつけた。そして、彼女はすぐさま新しい便箋を取り出した。
『可愛いオフィーリアへ
アンナから手紙をもらったわ。
あなたが今、どんなことで悩んでいるのかも聞いています。
そんな扱いを受けながら、無理をして辺境に居続ける必要なんてないわ。
王命で決まった結婚だから、簡単に離縁することはできないでしょう。
けれど、一年中夫のそばにいなければならない決まりもないはずです。
別居婚でも十分よ。こちらにはあなたに手伝ってもらいたい仕事が山ほどあります。いっそのこと、この商会を継いで王都でずっと暮らしたらどうかしら?
遠慮はいりません。
帰っていらっしゃい。
追伸:そもそも、あなたほど愛らしく、賢く、申し分のない妻から誘われて断るなんて、私にはまったく理解できません。よほど変わった趣味の持ち主なのよ。このまま待っていたところで時間の無駄です。荷物をまとめておきなさい。
キャサリン』
「……これでよし」
キャサリンは満足そうに頷いた。
十分な休息を取った使いの者にその手紙を託し、翌朝、再び辺境へ向けて送り出す。
そして自分はというと――。
「さて」
山のように積まれた書類を見渡した。
「これぐらいなら、今日と明日で片づけられるわね」
普通なら無茶である。
だが、キャサリンにとっては無茶ではなかった。
恐ろしい勢いで決裁を済ませ、商談の指示を出し、部下に仕事を振り分ける。
事情を知らない部下たちは、その日だけ妙に仕事の速い会長を見て首を傾げていた。
そして数日後、キャサリンの部屋にはフォートリエ辺境伯領へ向かうためのトランクが並んでいた。
「オフィーリア。待っていてちょうだい」
帽子を手に取ると、キャサリンはにっこり笑う。
「叔母様が迎えに行ってあげますからね」
その笑顔は母親のような慈愛に満ちていて、とても優しい。
ただし、辺境伯にとっても優しいかどうかは、かなり怪しかった。




