第20話
翌日の朝、マルスはブライアンの執務室を訪ねた。
「旦那様。先日の馬の取引について、お話があります」
「ああ、入れ」
扉が開いた。
マルスはブライアンの机まで来るなり、突然その場に膝をついた。両手を組み、まるで懺悔でもするかのようにブライアンを見上げる。
ブライアンは思わず身を引いた。
「……お前、どうした?」
「旦那様ぁ……」
「なんだ」
「俺は、とんでもない損失をフォートリエ辺境伯爵家に負わせていましたぁ……!」
「……は?」
「申し訳ありません!」
「とりあえず鼻水を拭け。ほら」
ブライアンは机の上にあったハンカチを放ってやった。
「旦那様、お優しい……。俺、一生旦那様についていきますぅ」
「いいから、続きを話せ」
「はいぃ……」
マルスは鼻をかむと、抱えていた資料を机の上に広げ始めた。
「実は先日、商人が提示した馬の値段なんですが……安すぎたんです」
「安すぎた?」
「はい。あの栗毛は金貨十二枚でしたが、同程度の馬なら王都では二十四、五枚ほどで取引されています」
ブライアンの眉が動いた。
マルスはさらに資料を並べていく。
「もちろん、ここから王都まで運ぶ費用があります。道中の飼料代も人件費もかかりますし、商人の利益も必要です。ですが、それを差し引いても安すぎます 」
「……なるほど」
「しかも、うちは昔から同じ商会にしか馬を売っていません。他の商人がいくらで買うのか、比べたことすらありませんでした」
ブライアンは資料へ目を落とした。
王都や各領地での標準取引価格、馬の年齢や訓練の程度による価格差、輸送に必要な費用。要点が簡潔にまとめられていて、非常に分かりやすい。
確かにこれを見る限り、フォートリエ辺境伯家は長年、かなり安い価格で馬を手放していたことになる。
「……俺も迂闊だったな。先代からの取引先なので信用していた」
ブライアンは小さく息を吐いた。
「それに馬のことはお前に任せておけば安心だと思っていたんだ」
「申し訳ありません!」
「責めているわけじゃない。俺も確認しなかった。それより――」
ブライアンは一枚の資料を持ち上げた。
「ずいぶんよく調べたな」
「えっ」
「これだけの資料を、あれからまとめあげだのだろう? おまえがこんなことができたとはね……意外だな」
「…………」
マルスの目が泳いだ。
「ま、まあ……その……俺も、やればできる男ですから」
「ふーん、そうか」
「はい!」
「それにしても……どんなきっかけがあったんだ?」
「い、いえ! 別に! なにも。ふと思いついただけです」
返事をしながら、マルスは落ち着かなげに指先を擦り合わせている。
ブライアンはわずかに眉を寄せたが、それ以上言うことはなかった。
その日の午後、報告を無事に終えたとマルスから聞いたオフィーリアは、さっそく次のことを考えていた。
「ではマルス。これまでの馬に関する帳簿を、全部持ってきてちょうだい」
居間で紅茶を飲んでいたオフィーリアは、当然のように言った。
「全部ですか?」
「ええ」
「どうしてです?」
「だって、マルスは馬の適正価格を知らなかったのでしょう?」
「……はい」
「だったら、買うほうも心配になってきたのよ」
「…………」
しばらくして、何冊もの帳簿が居間へ運び込まれた。
オフィーリアは一冊を手に取ると、ぱらぱらとページをめくっていく。
その手元を見ていたマルスが、思わず声を上げた。
「奥様、そんな速さでわかるんですか?」
「もちろんよ」
「へえ……」
ぱらぱら。
ぱらぱら。
そして、オフィーリアの手が止まった。
「……マルス」
「はい?」
「この飼料、ずっとこの値段で買っているの? 高すぎるわよ」
「えっ」
さらに数ページめくる。
「この干し草も、馬具も……あら、馬のお手入れ用品までだわ」
「ええっ?」
マルスの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「奥様。俺……また旦那様に謝りに行ったほうがいいですかね? 」
「その前にまず、あなたには勉強してもらいます」
「勉強……」
マルスの顔が露骨に曇った。
「大丈夫よ。分かりやすく教えてあげるから」
オフィーリアはにっこりと微笑んだ。
「今日から毎日、決まった時間にここへ来てちょうだい。飼料や干し草、蹄鉄や馬具など、馬に関わる品の相場を一通り覚えてもらいます 」
「毎日……」
「それから、仕入れ先を一つに決めてしまわないこと。価格だけではなく品質も比較すること。値段が変わったら、なぜ変わったのか確認すること」
「……」
「返事は?」
「はい!」
「よろしい」
オフィーリアは満足そうに頷いた。
それから、必ずこう付け加える。
「このことは旦那様には絶対に内緒よ」
数日後。
ブライアンの執務室に、またマルスが現れた。
「旦那様ぁ……」
その声を聞いた瞬間、ブライアンは書類から顔を上げた。
「……今度はなんだ」
マルスが膝をつく。
「また損してましたぁ!」
「今度は何をした?」
「飼料と干し草を高く買ってましたぁ! あと蹄鉄と馬具も! すみません!」
「……鼻水を拭け」
「旦那様ぁ……!」
「近寄るな」
ブライアンはまたしても自分のハンカチを投げた。
鼻をかんだマルスは、また大量の資料を机に並べ始める。
「そっちがフォートリエ辺境伯家が払っている金額です。それに対して品質ごとの相場価格がこっちです。長年同じところから買い続けていて、高い物を買わされていることに気がつきませんでした」
「……なるほど。ここの商会も先代からの付き合いだったな」
「はい……」
「俺も任せきりにしていたのがいけなかった」
ブライアンは資料を一枚ずつ確認する。
またしても分かりやすい。
前回と同じだった。
必要な情報が整理され、比較すべき数字が並び、改善策まで簡潔にまとめられている。
ブライアンはゆっくり顔を上げた。
「マルス。これも、お前が調べたのか?」
「……はい」
「全部?」
「はい」
「お前、こんなに数字に強かったか?」
「俺……成長したんです」
「急すぎるだろう」
ブライアンは目を細めた。
明らかにおかしい。誰かがマルスに知恵をつけている。だが、問い詰めても口を割らなかった。




