第19話
厩舎の横には、マルスの住まいを兼ねた二階建ての事務所がある。
一階が事務所で、二階が住居になっていた。
「マルス、いらっしゃる? ちょっと聞いてもいいかしら?」
オフィーリアが声をかけると、ほどなくして扉が開いた。
「はい、奥様。どうされました?」
「今日いらした商人のことなんだけれど、あの方とは長いお付き合いなの?」
「ええ。先代の頃から取引している商人ですよ」
「そうなのね」
オフィーリアはひとつ頷いてから、何でもないことのように続けた。
「実は今日の取引のお話、聞いていたの」
「え?」
マルスが怪訝そうに首を傾げる。
「ですが、奥様のお姿はどこにも――」
「細かいことは気にしないで」
「はあ……」
明らかに腑に落ちない顔だったが、オフィーリアは先を続けた。まさか、猫になってブライアンの腕の中で聞いていました、などと言えるわけがない。
「それで、いつもあのくらいのお値段で売っているのかしら?」
「そうですね。馬によって多少違いますが、大体あのくらいです」
「ほかの商人にも売ることは考えなかったの?」
「ありませんね。先代の頃から、あの商会がまとめて買っていきますから」
「……なるほど」
オフィーリアは考え込んだ。
食料品の商人のように、価格をごまかしているわけではない。
相手はただ、自分が買いたい値段を提示しているだけだ。
そしてフォートリエ辺境伯家も、その値段に納得して売っている。
契約そのものには、何の問題もない。
問題なのは、こちらの意識だ。何年も同じ相手に売り続け、提示された値段をなんの疑問もなく受け入れている。それなら商人だって、わざわざ高値をつけるはずがない。
「……もったいないわ」
オフィーリアは、厩舎の向こうにいる栗毛の馬へ目を向けた。
あれほど立派な馬を育てるまでには何年もかかる。
飼料もいるし、世話をする人間もいる。訓練にも手間がかかる。
それなのに、売り方ひとつで本来得られるはずの利益を逃しているのだ。
(……あ)
そこでオフィーリアは気づいた。
(また私、余計なことに口を出そうとしているわ)
いけない。自分は今、可愛げのある妻を目指しているのである。夫の仕事にずかずか入り込み、相場だの取引だのと口を出す妻のどこに可愛げがあるというのか。
(でも、このまま大損するのを見ているなんて無理よ!)
オフィーリアはしばらく悩んだ末、ぽん、と手を打った。
(そうよ。私が旦那様に言わなければいいのよ)
完璧な解決策を思いついた。
「マルス」
「はい?」
「あなたの経歴を聞かせてちょうだい」
「俺の、ですか?」
突然話が飛び、マルスは不思議そうな顔をした。
「俺は少年の頃からここで働いています。ずっと馬の世話や訓練をしてきたんで、馬のことなら大抵はわかります。今は馬関係の責任者として、売買まで任されていますが……」
「そう。よくわかったわ。確かにあなたは馬の専門家といえるわ。でも、商取引の専門家ではないわ。だから、今日からお勉強しましょうね」
オフィーリアは人差し指を立てた。
「はい? 勉強ですか? 俺はそういうのは苦手でして……」
「馬の相場を正確に知ることは大事よ。いい馬を育てられるのに、それをいくらで売ればいいのかわからないのはいけません」
「はあ……よろしくお願いします」
「大丈夫よ。わかりやすく説明してあげる」
オフィーリアは晴れやかに微笑んだ。
可愛げのある妻になるために夫の仕事には口を出さない、と決意した女性が、その数分後には部下への商取引講座を始めている。矛盾だらけであるが、本人はそれにまったく気づいていないのだった。
屋敷の居間で、ブライアンにバレないようにアンナを見張りに立たせ、オフィーリアの授業が始まった。
「……奥様」
一通り説明を聞き終えたマルスは、頭を抱えていた。
「俺、とんでもない値段で馬を売ってたんじゃ……旦那様に、ずいぶんな損をさせちまったってことですよね?」
「その通りよ」
「どうすれば……」
顔色を悪くするマルスに、オフィーリアは尋ねた。
「今日の取引は、もう契約書を交わしたの?」
「いいえ。今日は馬を見に来ただけです。正式な契約と引き渡しは三日後の予定です」
「それなら、まだ間に合うわ。正式な契約前なら、価格についてもう一度話し合えばいいでしょう。まずは旦那様に報告してちょうだい」
オフィーリアは即答した。
「いや、奥様から説明していただいた方が……。俺はこういう話をするのが苦手でして」
「だめよ!」
オフィーリアは思わず声を上げた。
マルスがびくりとする。
「……奥様?」
「それだけはだめなの。いいこと? 私から教わったということは絶対秘密よ」
「はあ……」
「必要な資料は今から私が作るわ。適正価格の根拠も全部、旦那様に説明できるようにまとめてあげる。あなたはそれを持って報告するのよ」
「そこまでしていただけるなら、奥様が直接――」
「だめ!」
「はい」
今度はマルスも素直に引き下がった。
こうしてオフィーリアは、夫の仕事には口を出さないという決意を無事に守った。
少なくとも、本人はそのつもりだったのだが――




