第18話
「ね、猫になってる!?」
オフィーリアは叫んだつもりだった。
「みゃあ!」
しかし、口から出たのはどう聞いても子猫の鳴き声だ。
(いやあああ! 本当に猫になってるー)
しかも、よりによってブライアンのすぐそばである。
「子猫?」
ブライアンが辺りを見回し始めた。
「どこだ?」
(見つけないで。お願いだから見つけないで……!)
そう願いながら、オフィーリアは仕切りの隅でうずくまる。
「あ、いた」
(見つけるのが早すぎっ!)
あっけなく見つかった。
しかもブライアンは、普段オフィーリアに向けたことのないような、とびきり優しい笑顔を浮かべた。
「金色の毛並みか。綺麗だな。瞳もエメラルドみたいだ」
(えっ!? い、今、可愛いって……!)
低く甘い声で言われ、オフィーリアの胸が跳ねる。
(旦那様が私に可愛いって!)
嬉しさのあまり、差し出された手に頬をすり寄せた。
「人懐っこいな」
頭を撫でられ、さらに抱き上げられた。
(きゃあああ! 旦那様に抱っこされてる!)
オフィーリアは完全に浮かれていた。
そのころマルスは、何事もなかったように商人との交渉を続けていた。
「なるほど。どれもよく育っていますな」
商人は一頭ずつ馬を見ていく。脚に触れ、歯を確認し、身体つきを眺める。
やがて、オフィーリアが先ほどまで乗っていた栗毛の馬の前で足を止めた。
「こちらもですか?」
「はい。訓練も一通り終えています」
「ふむ……では、こちらは金貨十二枚で」
(……十二枚?)
オフィーリアの耳がぴくりと動いた。
(安すぎるわ!)
思わずブライアンを見上げ、「みゃあ! みゃああ!」と訴える。
「腹が減ったのか?」
「にゃぁー(違います!)」
「もう少し待ってくれ。あとでミルクをあげよう」
(だから違いますってば! それにしても、旦那様が優しすぎる。人間の私より猫の私の方が、明らかに待遇がいいような……)
「わかりました」
一方、マルスは当然のように了承し、取引の話はどんどん進んでいく。
(わかりましたじゃないわ!)
商人は次の馬へ移る。
「こちらは十枚ですな。あちらの二頭は少々小柄ですから、九枚ずつで」
「はい、いいでしょう」
「にゃあああん!(よくない! 全然よくない!)」
オフィーリアは必死に鳴いた。
どう考えても安すぎる。
先ほどの栗毛は身体つきもよく、脚もしっかりしている。気性も穏やかで、人の指示にも素直に従う。しかも騎乗訓練まで済んでいるなら、王都での取引なら金貨二十四、五枚でもおかしくないのだ。
「にゃっにゃっ!(半値じゃない!)」
もちろん販売地までの輸送費はかかる。世話をする人間も必要だし、商人が利益を取るのも当然だ。それでも安すぎる。
オフィーリアが腕の中でじたばたしながら文句を言っていると、ブライアンは優しく背中を撫でた。
「よしよし。そんなに腹が減ったのか? もう少し待っておくれ」
「にゃぁーん!(私は怒ってるんですー!)」
「よし、よし。いい子、いい子」
頭に口づけられて一瞬固まる。
(つっ……その愛を人間の私にもください!)
やがて六頭すべての話がまとまった。
ブライアンは最後まで口を挟まなかった。
そしてなぜかオフィーリアを、ずっと腕に抱いている。
(いつまで抱いているのかしら。……まあ、もう少しくらいならいいか。旦那様の腕の中は気持ちいいわ)
ちゃっかり身体を預けていると、そのまま執務室まで連れていかれた。
目の前には、ミルクの入った皿が置かれる。
(ちょうど喉が渇いていたところよ。旦那様ったら気が利くわ)
ぺろぺろと舐めていると、また頭を撫でられた。
「名前をつけよう」
(名前!?)
「お前は可愛いから……キュートでどうだ?」
(キュート!? そのまますぎません!?)
「それにしても可愛い。見ているだけで癒やされる」
(……え)
オフィーリアの耳がぴんと立った。
(い、今、また可愛いって……)
嬉しくなった。ものすごく嬉しくなったのだけれど、次の瞬間、重大な事実に気づく。自分は今、子猫である。
(これ、私に言ってるんじゃなくて子猫に言ってるのよね? つまり……)
オフィーリアは考えた。
(人間の私より、猫の私の方が可愛い?)
さらに考えた。
(私への扱いが、私以下? いいえ、違うわね。猫の私に、人間の私が負けてる!?)
ぷしゅうー、と心がしぼんだ。
そこへ侍女が、お茶とお菓子を運んできた。
皿に並んでいるのは、オフィーリアの大好物のバタークッキーである。
(甘いもの……今の自分には必要だわ。傷ついた心には糖分よ)
猫の身であることも忘れ、テーブルによじ登り、ブライアンのクッキーにかじりつく。
「おい」
(怒られる? もういいわ。怒られても食べる)
「クッキーが好きなのか?」
ブライアンは笑った。
「可愛いなあ」
(また可愛いって言った!)
それどころかクッキーを小さく割って、目の前へ差し出してくれる。
「ほら、食べろ」」
(えっ! こ、これは……! 仲睦まじい男女がやるという『あーん』では!?)
オフィーリアは震えた。
ぱくり。
「美味いか?」
「みゃ(美味しいです)」
「そうか」
ブライアンは嬉しそうだった。
(待って。私、猫になってからの方が旦那様との距離が近くない?)
抱っこ。
頭なでなで。
甘い声。
クッキーを『あーん』だ。
(人間の私、完敗じゃない!)
ショックでふらつく。
そして侍女がティーセットを下げに来た隙に、オフィーリアは決意した。
(とにかく、逃げよう)
ぴょん、とテーブルから飛び降りる。ちょっとだけよろけた。まあ、まだ子猫だから仕方がない。
「あ、キュート。どこへ行くんだ?」
オフィーリアは全力疾走した。
「キュート。帰っておいでー」
(帰りません! 私の心が持ちません!)
廊下へ飛び出したオフィーリアは、ちょうど向こうから歩いてきたアンナを見つけた。
(アンナ!)
一直線に駆け寄り、勢いそのままエプロンドレスの前ポケットへ飛び込んだ。
「きゃっ!?」
「にゃう、みやっ(アンナ、私よ! 旦那様から隠して!)」
「……え?」
アンナが固まった。
ポケットをのぞくと、金毛の子猫がいる。
「にゃっ、にゃぁん(私よ! オフィーリアよ!)」
「なんでしょう? この子猫、怯えてますね」
アンナは子猫の顔をじっと見た。エメラルドグリーンの瞳は鮮やかでとても綺麗だ。
(あらまあ……オフィーリア様の瞳にそっくり。愛らしいこと)
アンナが戸惑っていると、廊下の向こうからブライアンの声が聞こえてきた。
「キュートー? 隠れてないで出ておいで。一緒にお昼寝してあげよう」
子猫はブライアンに見つかりたくないように、アンナのポケットの中で震えている。大人の男性を怖がる子猫もいるだろうと理解し、とりあえずポケットを両手で覆った。そして早足でオフィーリアの部屋へ逃げ込む。扉を閉め、鍵までかけた。
「大丈夫。きっと旦那様が苦手なのね。オフィーリア様に説明して飼っていただきましょう」
アンナが子猫を床へ下ろした、その瞬間。
ぽわん。
淡い光が弾け、そこにオフィーリアが現れた。
「きゃあ」
アンナはその場にへたり込む。
「お、オフィーリア様……」
「ようやく、戻ったわ」
オフィーリアは心の底から安堵した。そしてすぐにどこを見るともなく声をあげる。
「妖精さん! いきなり猫になるなんて聞いてないわよ。しかも、いつ戻れるかもわからないなんて不便すぎるわ」
「呼んだか?」
「きゃあ! 急に出てこないで」
目の前に一匹の蝶が現れた。
淡い光がその身体を包み、次の瞬間には手のひらほどの人の姿に変わった。背中には透き通った羽があり、楽しそうに口元を緩めている。
「もぉ、注文が多いよ。猫になるのは『可愛くなりたい』って強く思ったときだけだし、人間に戻るタイミングは半刻から一刻ぐらいさ」
「そのような説明は先にしてください! いったいいつ人間に戻るのかハラハラしましたわ」
「でもよかったじゃない。旦那様にすっごく可愛がってもらえて」
妖精はにやにやしながら、オフィーリアの周りを飛び回った。
「違うんです!」
オフィーリアは拳を握った。
「人間として旦那様に可愛がられたかったのですわ! 猫としてじゃなく!」
「でも、可愛いっていっぱい言ってもらえたでしょ?」
「くっ……それが一番傷ついたのよ」
「どうして?」
「猫の私に、人間の私が負けたからです!」
妖精は一瞬きょとんとしたあと、腹を抱えて笑い出した。
「あははは! 自分に嫉妬してる!」
「笑わないでくださいませ。それにあなた、人間に本来の姿を見せちゃってますよ?」
「ああ、これ? 俺の本来の姿じゃねーし。人間が思い描く姿になってるだけさ。悪戯、大成功!」
「なんて悪戯な妖精なの……もう二度と猫にはならないわよ」
「それは無理じゃね? だってまた『可愛くなりたい』って思うでしょ? それって一生続く僕からの贈り物さ。おばあちゃんになっても子猫になれるよ、嬉しいだろ?」
オフィーリアは固まった。
アンナも固まった。
妖精だけが、やりと笑った。
「じゃあ、またなー」
「ちょっと待ってえええー! 全然嬉しくなーい!」
ぽわん、と光が弾け、妖精は消えた。
しばらく呆然としていたオフィーリアだったが、ふと本来の目的を思い出した。
「あ、馬の取引を止めなきゃいけないわ。ちょっとマルスと話をしてくるわね」
オフィーリアはそう言うなり、すぐさま厩舎の方角へ駆けていった。さきほどの商人との取引を止めるためだ。
一人取り残されたアンナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
辺境に悪戯好きの妖精がいる――そんな伝説は、アンナも聞いたことがある。けれど、まさか本当に存在していて、しかもオフィーリアを子猫にしてしまうとは思わなかった。
「お馬鹿さんのふりをやめたと思ったら、今度は猫になるなんて……」
アンナは額を押さえた。
これから先、オフィーリアが「可愛くなりたい」と思うたびに、あの子猫になってしまうらしい。考えるだけで頭が痛い。
けれど、先ほどポケットから見上げてきた金色の子猫を思い出す。
エメラルドグリーンの瞳はオフィーリアそのもので、あまりにも可愛らしかった。
「まあ……次に猫になったときは、少しくらい触らせてもらってもいいですよね」
できれば、思いきりもふもふしたい。
そんなことを考えながら、アンナはにっこりと笑った。
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