第14話
「何をしているの?」
扉の前にはアンナが立っていた。
「ア、アンナさん……」
アンナはリタを見つめ、それから部屋の中へ視線を巡らせた。
鏡台の上に目をやり、わずかに眉を上げる。
何も言わない。
その沈黙が、かえって怖かった。
「べ、別に何も……お部屋を整えていただけです」
「そう」
アンナの声は静かだった。
「では、鏡台に置いてあったオフィーリア様の手袋はどこへいったのかしら?」
「え……」
「リタが掃除に入る前に、オフィーリア様がそこに置いたものよ」
リタの顔が強張る。
「わ、私は知りません」
「そう。では、そのポケットの中を見せなさい」
リタは反射的にエプロンのポケットを押さえた。
その仕草を見たアンナの目がすっと細くなる。
「リタ」
低く名を呼ばれただけで、逃げ道はもうないのだと悟った。
「……ご、ごめんなさい」
震える手で、エプロンのポケットから手袋を取り出した。
――これで終わりだ。
侍女長に報告される。
きっと、この屋敷を追い出される。
それだけならまだましで、盗みを働いた使用人として、どんな罰を受けるのだろう。
リタは真っ青になって震えた。
(盗みなんかしなければよかった。いけないことだって、最初からわかっていたのに……)
アンナは怯えているリタを見つめ、ほんの少し可哀想に思った。
だから、声音を和らげた。
「オフィーリア様は、香水がなくなったことに気づいていらっしゃいます」
「え……?」
リタが顔を上げる。
「そんな……でも、奥様は何も……」
「ええ。香水の一本くらいなくなったところで、気になさらない方ですからね」
アンナはそこで少しだけ声を厳しくした。
「ですが、それをいいことに繰り返すのなら、もう見過ごせません。二度とこのようなことをしてはいけません。次はありませんよ」
「……」
「返事は?」
「はい……! 申し訳ございませんでした!」
リタは深々と頭を下げた。もう絶対に盗みはしないと心に誓いながら。
リタが部屋を出ていくと、アンナは小さく息を吐いた。
「まったく……オフィーリア様がお馬鹿さんのふりなんてするから、こんなことになるのよ。もちろん、盗んだあの子が悪いけれど……オフィーリア様にも少しは反省していただかないと」
帳簿がわからないふりをしてみたり、覚えていることを忘れたと言ってみたり。
あんなことを続けていれば、本当に何もできない、頼りない奥様だと思う者が出てきても不思議ではない。
そこでアンナは、そもそもオフィーリアが妙な真似を始めた原因を思い出した。
「……これも何もかも、オフィーリア様の賢さに嫉妬した最低な男のせいだわ。本当に腹立たしいこと!」
王都にいるアルフレッドには届くはずもない悪態を、アンナは小さく吐き捨てた。
それから数日後。
フォートリエ辺境伯家に、一人の商人がやってきた。
屋敷や騎士専用棟の厨房で使う食料をまとめて納めている商人で、月初めになると先月分の代金を受け取りに訪れるのだ。
「奥様もお立ち会いになりますか?」
執事に尋ねられ、オフィーリアは少し迷った。
「……そうね」
黙って座っているだけなら問題ないだろう。
余計な口を挟まなければいいのだ。
そう考えて、執事と侍女長の横に腰を下ろした。
商人から差し出された先月分の請求書には、食材ごとの数量と単価が細かく記されている。オフィーリアはざっと目を通した。
(特におかしなところは……ないわね)
そのまま視線を外しかけて、ぴたりと止まる。
「……おかしいわね」
気づけば、声に出していた。
執事と侍女長が同時にこちらを見る。
アンナは後ろでオフィーリアを制するべきか迷っていたが、いずれはバレることだとそのまま黙って見ていることに決めた。
オフィーリアは請求書の一箇所を指した。
「この小麦粉、少し高すぎないかしら?」
商人はにこやかな笑みを浮かべた。
「こちらはいつも通りのお値段で納めさせていただいておりますので、特におかしな点はございませんよ」
「だから、おかしいのよ」
「……はい?」
オフィーリアは首を傾げる。
「去年は小麦が不作だったでしょう? だから値段が上がった。でも今年は豊作だったはずよ。収穫後には市場価格も下がっているのに、どうして去年と同じ値段なの?」
商人の笑みが、ほんの少しだけ固まった。
執事も請求書へ視線を落とす。
価格が高めであることには気づいていた。だが、この辺境伯領では小麦を生産しておらず、他領から仕入れている。長年取引を続けている商人でもあり、輸送費を考えればこの程度なのだろうと思っていた。
ところがオフィーリアは、そんな事情まで含めて請求書を見ており、高すぎると判断していた。
「それに、こちらの根菜類も高いわね」
商人の頬が微かに引きつる。
「今の時期なら、もう少し値が下がっているはずでしょう?」
「……奥様は、ずいぶんお詳しいのですね」
「王都新聞に載っていたもの。農産物の相場の記事って、意外と面白いのよ」
オフィーリアにとっては、それだけのことだった。
王都新聞には、王宮の動向から商業、農作物の作況、漁獲や各地の相場まで一通り載っている。オフィーリアは今でも王都新聞を愛読しており、キャサリンには何日か分を取り置いてもらい、まとまったところで辺境地へ送ってもらっていた。
しかし、商人はすぐに笑顔を取り戻した。
「ですが奥様、ここは生産地から遠い辺境でございます。どうしても輸送に費用が――」
「輸送費なら、こちらに別で計上されていますわよ?」
オフィーリアが請求書の下段を指差すと、アンナはずいっと後ろから覗き込み、ボソリと言った。
「しかも、少し小さめの文字で書いてあるのが、せこいです」
すると、商人の顔から笑顔が消えた。
「相場が上がったときにはここぞとばかりに価格を上げ、相場が下がったときには以前の価格のまま据え置きですか? ずいぶん、あなたに都合のいい仕組みですこと」
オフィーリアの指摘に、商人の額には、じわりと汗が浮かんだ。
そこでようやく、オフィーリアは室内が妙に静かなことに気づいた。
執事は目を丸くしていたし、侍女長も驚いた顔をしている。
そしてアンナは、後ろで笑いを堪えるように肩を揺らしていた。
(しまった。私、今……ものすごく賢そうでは?)
オフィーリアの笑顔が引きつった。
できないふりをするのだった。
帳簿も数字もよくわからない、頼りない妻になる予定だったのに。
しかし、目の前で辺境伯家が損をしているとわかっていて、黙っていることなどできないではないか。
(えぇい、ままよ。ここまで言ったらもうお馬鹿さんのふりはやめよ。言いたいことは最後まで言わせてもらうわよ)
「今後このような真似をなさったら、そちらとの取引は終わりですわよっ!」




