第12話
背後で扉が閉まる。それを確認してから、ブライアンも自分の部屋へ戻った。これでいい。あれほど可愛い子が、今日会ったばかりの男に怯えながら夜を過ごす必要などない。もし彼女が王都へ戻ることになったとしても、この婚姻が彼女の次の人生の妨げにならないほうがいい。ブライアンは、白い結婚を自分の誠意だと信じていた。
オフィーリアがフォートリエ辺境伯領へやって来て、数日が過ぎた。
朝食を終えて居間でのんびり過ごしていると、執事が何冊かの分厚い帳簿を抱えて話しかける。
「奥様。少々よろしいでしょうか」
「ええ。どうぞ」
執事はテーブルの上に帳簿を置いた。
「今後の屋敷の管理について、ご相談がございます」
「屋敷の管理?」
「はい。これまでは私と侍女長で取り仕切ってまいりました。しかし、今後は使用人の配置や屋敷内の備品、食料や薪などの備蓄、客人をお迎えする際の支度、修繕の手配など、屋敷の運営全般を奥様にお任せしたいと思っております」
執事が一冊の帳簿を開き、思わずオフィーリアは目を走らせた。数字が自然に頭に入っていく。何ページかめくっていけば、毎月何にどれだけのお金が使われているのか、おおよそのところは把握できた。叔母の商会を手伝っていた頃には、これよりはるかに複雑な帳簿を扱っていたのだ。
執事が説明を始めるより先に、オフィーリアは全てを完璧に理解し分析を始めていた。しかし、慌てて気づいて帳簿から顔を上げる。
(危ない、危ない)
いつものように、テキパキと指示を出すところだった。ここはキャサリンの商会ではないのだ。
(少し頼りない、守ってあげたい妻になるわよっ!)
オフィーリアは、途端に悲しげな表情を浮かべる。思い浮かべたのは三歳の頃に大好きなパンケーキを食べようとして、床にベチャリと落としたことだ。
(ああ、あれはとびっきり悲しかったわね)
涙が一筋頬を流れた。
「……ごめんなさい。実は……」
「はい? 申し訳ありません、なにかお気に障ったのでしょうか?」
執事がこんなことを頼まなければ良かったと盛大に悔やむ顔をしている。
オフィーリアは少し困ったように微笑み、渾身の演技を続けた。
「私、こういうことは苦手で……よくわかりませんの」
「……さ、さようでございますか」
「ええ。ですから、これまでどおりあなた方にお任せするわね」
「も、もちろんです。奥様には無理なお願いをして、大変申し訳ございませんでした」
執事はあたふたと恐縮しながら一礼し、その場を後にした。
その横で控えていたアンナが、呆れたようにオフィーリアを見ている。
けれど、オフィーリアは気づかないふりをした。
(よしよし。これで完璧だわ)
このほうが、きっと男性にとっては可愛げがあるはずだ。オフィーリアはそう固く信じていた。
それから数日後、オフィーリアは居間で本を読んでいた。すぐ傍らではアンナがお茶を注ぎ、部屋の隅には数人の侍女たちが控えている。
そこへ侍女長がやってきた。
「奥様。春からの使用人たちの衣服について、少々よろしいでしょうか」
「ええ。どうしたの?」
「仕立屋から、生地をそろそろ発注したいと連絡がございました。屋敷内で働く者には肌触りのよい綿布を、外仕事の多い者には丈夫な麻混じりの生地を使うということで、進めてもよろしいでしょうか」
オフィーリアは本を閉じた。
その話をしたのは、五日ほど前のことだった。まだまだ辺境の冬はこれからが本番ではあるが、使用人たちの数も多いので春物は早めに仕立てることになっている。
侍女長が二種類の生地を持ってきたので、オフィーリアは実際に手に取り、それぞれの手触りや丈夫さを確かめたのだ。
もちろん、オフィーリアは覚えている。
柔らかな綿布は屋敷内で働く者に。
丈夫な麻混じりの生地は、厩舎や庭など屋外で働く者に。
そう提案したのは自分だった。
これは帳簿を読み解くような話ではない。生地について意見するくらいなら、さすがに問題ないと思っていたのだ。
(待って、ここでテキパキと指示を出したら、可愛げがないのでは? うっかり忘れる天然系の女性のほうがきっといいわよ)
「あら……」
オフィーリアは少し考えるように首を傾げた。
「どちらがどちらでしたかしら。もう忘れてしまいましたわ」
傍らにいたアンナがぴくりと眉を動かし胡乱な眼差しを向けたが、オフィーリアはまたもや気づかないふりを決めこみ、にっこり微笑んだ。
侍女長はたった五日前のことなのに覚えていないと言うオフィーリアに、内心呆れていた。
(これほどお綺麗で愛らしいのに、なんと頭が残念なお方かしら。旦那様もお可哀想に。これでは話し相手にもならないでしょうね……やれやれ)
そう思いながらも侍女長は、けっして表情や態度に表すことはなかった。そのあたりは使用人としてきっちり弁えている。
やがて侍女長も侍女たちも居間から退出し、その場にいるのはアンナとオフィーリアだけになった。
我慢できなくなったアンナが、オフィーリアの耳元で囁いた。
「……執事や侍女長をからかって遊ぶなんて……不謹慎ですよ。いくら娯楽の少ない辺境の地だからって――」
アンナは声を潜めながら、オフィーリアの前へ回り込んだ。
「帳簿をわからないとか、生地の話を忘れるなどあり得ませんでしょう? 三歳の頃の記憶さえ鮮明に覚えているオフィーリア様が!」
オフィーリアは目を逸らした。幼い頃から傍にいるアンナだけには本当の気持ちを伝えたほうが良さそうだ。
「……愛され奥様になりたいのよ」
「はい?」
「だから、旦那様に好かれたいの」




