第11話
すべての支度を終えると、オフィーリアは夫婦の寝室へと向かった。
辺境伯夫妻の居室は、それぞれの私室の間に夫婦の寝室が設けられている。左右には扉があり、一方はオフィーリアの部屋へ、もう一方はブライアンの部屋へと続いていた。
普段は別々の部屋で過ごす二人が、夜だけはここで共に過ごすことになる。
「オフィーリア様。すぐに旦那様がいらっしゃいますわ。大丈夫です、きっと優しくしてくださいます。こんな天使のような新妻に惚れない男はおりませんっ!」
アンナが謎の自信に溢れながら一礼して退出すると、広い寝室にオフィーリア一人が残された。暖炉の火がぱちりと小さく爆ぜる。オフィーリアは寝台の端に腰掛け、膝の上で両手を重ねた。
(……落ち着かなければ)
そう思うのに、心臓は先ほどから早鐘を打ったままだった。今夜が初夜になることは、もちろんわかっていた。オフィーリアはもうブライアンの妻なのだ。
(うん……大丈夫。夫婦なのだから、当然のことよ)
何度も自分に言い聞かせる。
けれど、緊張している理由はそれだけではなかった。
辺境へ嫁ぐと決まったときは、正直なところ、どんな夫なのか少しばかり不安だった。噂どおりの無骨で恐ろしい大男だったとしても、王命で決まった結婚なのだから受け入れるつもりではいた。
ところが実際に会ってみれば、想像とはまるで違った。
驚くほど端整な顔立ちに、背が高く逞しい身体。低く落ち着いた声まで素敵だった。
(……格好いい方で、よかった)
そう思うと、オフィーリアの頬が自然と緩んだ。
初夜なのだから緊張はする。けれど、嫌だとは思わなかった。
むしろ、あの人になら――ほんの少しだけ、楽しみに思っている自分もいる。
(な、何を考えているの、私ったら……!)
はっと我に返り、オフィーリアは慌てて頬を両手で押さえた。
そのとき、ブライアンの私室へと続く扉が開く。
オフィーリアの肩がびくりと揺れた。
「……待たせたな」
「い、いいえ」
立ち上がろうとして、オフィーリアは危うく夜着の裾を踏みそうになる。
そんなオフィーリアを可愛いと思う一方で、ブライアンは少し気の毒にもなった。
どう見ても、ひどく緊張している。
頬はほんのり赤く染まり、こちらを見上げるエメラルドグリーンの瞳まで、どこか落ち着かなげに揺れていた。
(……怖いよな。つい数週間前まで、互いに顔すら知らなかったんだ。それが王命ひとつで夫婦となり、今日初めて会った男といきなり同じ寝台で眠れと言われても困るだろう)
ましてオフィーリアは、王都で何不自由なく育った伯爵令嬢だ。大量の荷物は家族に溺愛されて甘やかされた女性そのものだ。
彼が妻に望むのは、容姿の美しさや華やかさではない。雪に閉ざされた冬の辺境でも弱音を吐かず、自分の足で立ち、領民とも臆せず接するような芯の強い女性だ。
オフィーリアのような女性はこの厳しい土地で暮らすことに耐えられず、いずれ王都へ戻りたいと言い出すのは時間の問題なのだ。それならば、少しでも彼女が困らないようにしてやるのは自分の務めだ。
(白い結婚にしておこう)
「オフィーリア、君はこの部屋にいる必要はない」
「え……?」
「長旅を終えたばかりで、疲れていると思う。今夜はゆっくり休むといい」
オフィーリアの表情が、きょとんと固まる。
「俺は自分の部屋で休む。君も自分の部屋で休んでくれ」
「…………」
一瞬、オフィーリアは何を言われたのかわからなかったが、すぐに意味を理解した。
(なんてこと……私、初夜を拒まれたの!?)
アンナもそのつもりでオフィーリアを磨き上げたし、彼女自身も妻となった以上は当然のことだと思ってここで待っていた。それなのに、ブライアンは自分の部屋へ戻るという。
胸の奥が、すっと冷えた。
「……わかりました」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
本当は言いたい。
『なぜ、私を拒絶するのですか? 新妻との初夜を断るなんて、常識に反します』と。
けれど、言えなかった。もしも答えを聞いて、『君は僕の好きなタイプじゃない。自分がなんでも正しいと思うな』なんて、アルフレッドみたいなことを言われたら目も当てられない。
「では、おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
オフィーリアは微笑んだつもりだったが、うまく笑えていたかどうかはわからない。
自分の部屋へ続く扉を開き、静かに中へ入る。扉を閉じた途端、張りつめていた肩から力が抜けた。
初対面のときもほとんど話しかけてもらえなかったし、夕食でも会話は続かなかった。そして初夜は、夫婦の寝室から帰されてしまった。
これだけ重なれば、さすがにわかる。
(……はあー。きっと私の見た目がお気に召さなかったのね。中身はともかく、容姿で男性に嫌われるなんて珍しいんだけど)
小さく息を吐きながら、今夜のブライアンの姿を思い浮かべる。
(私は旦那様のこと、好ましいと思ったのに。うまくいかないものね)
けれど、そこでオフィーリアはふと思った。
(はっ……もしかして、旦那様のお好みはもっと逞しい女性なのでは?)
ここは北の辺境だ。
ならば、剣を自在に操り、雪の中でも颯爽と馬を駆るような女性が好きなのかもしれない。
(キリッとした顔立ちの女騎士とか……。うん。旦那様の隣に並んだら、とてもお似合いだわ)
なかなかいいところを突いていた。
ブライアンが求めているのは、実際、辺境でたくましく生きていける女性なのだから。
(乗馬なら得意だけれど、剣を振るえるわけではないし……。それに今さら見た目までキリッとした女性にはなれないものね)
では、自分にできることはなんだろう。
オフィーリアはゆっくりと寝台へ横になる。
すると、ふいに別の男の声が蘇った。
『……僕を気遣い、僕より前に出るべきじゃないだろ!』
『女なら少しはできないふりをしろよっ』
アルフレッドの言葉だ。
(……そうだわ。私に足りなかったものなら、もう教えてもらっているじゃない)
オフィーリアはぱちりと目を開いた。
(可愛げよ!)
同じ失敗をしてはいけない。
ブライアンには、これ以上嫌われたくない。知っていることを何でも口にするのはやめよう。できるからといって、何でも自分でやってしまうのもよくない。
夫を立てて、可愛げのある妻にならなければ。
(賢い女だなんて、思われないようにしなくちゃね)
そう決意してみると、ひどく簡単なことのように思えてきた。
要するに、なんでも「わかりません」と言っていればいいのだ。
(よし。これなら私にもできるわ!)
つい先ほどまで「逞しい女騎士こそ旦那様の好みなのでは」と、かなり正解に近い(精神面では)ところまで辿り着いていたことなど、もう頭から綺麗さっぱり消えている。
こうしてオフィーリアは、ブライアンの好みとはまるで逆方向へ、力いっぱい突き進むことにしたのだった。




