第10話
(でも、まだ会ったばかりだもの。これからよね!)
オフィーリアは小さく拳を握った。
案内されて足を踏み入れたフォートリエ辺境伯邸は、外観から受けた印象そのままの屋敷だった。
広い。けれど、華美ではない。
磨き上げられた石の床にも、長い廊下にも、王都の貴族屋敷でよく見かけるような豪奢な装飾はほとんどなかった。壁に掛けられているのも、歴代当主らしい人物の肖像画や、この地方を描いた風景画がいくつかある程度だ。
けれど、決して貧しいわけではないことはひと目でわかった。使われている調度品はどれも上質で、古いものも手入れが行き届いている。廊下の隅には埃ひとつなく窓硝子も曇りなく磨き上げられていた。
何より驚いたのは、屋敷の中がとても暖かいことだった。外では凍えるような風が吹いていたというのに、厚い壁に守られた屋敷の中には、どこへ行っても穏やかな暖気が満ちている。寒さの厳しい土地だからこそ、暖を取ることには十分な備えがされているのだろう。
「こちらが奥様のお部屋でございます」
侍女長に案内され、オフィーリアは部屋へ足を踏み入れた。それまで通ってきた屋敷の中は、濃い色の木材を使った家具や深い色合いの絨毯が多く、辺境伯家らしい重厚で落ち着いた雰囲気だった。だが、この部屋だけはまるで違う。
大きな窓には薔薇色のカーテンが掛けられ、床にはクリーム色の絨毯が敷かれている。暖炉の前には丸みを帯びた長椅子と、猫脚の小さなテーブル。寝台の天蓋からは白いレースがふんわりと垂れ、寝具にも小花の刺繍が施されていた。
寝室の奥には広々とした衣装部屋があり、その隣には身支度を整えるための部屋まで設けられている。王都から持ち込んだ大量のドレスや帽子を収めても、まだ十分な余裕がありそうだ。
王都のウェインライト伯爵邸ほど華やかではない。それでも、この屋敷のほかの部屋とは明らかに趣が違っていた。
(……これ、私のために整えてくださったのよね?)
そう思うと、オフィーリアの頬が緩んだ。こうして自分を迎える準備まできちんとしてくれているのだ。
(……やはり噂よりは、ずっとお優しい方なのよ)
そんな期待を抱きつつ、その日の夕食はブライアンと二人で取ることになった。
広い食堂の中央には長いテーブルが置かれ、白いクロスの上には銀の食器が整然と並んでいる。
料理は申し分なかった。温かなスープに、香草を添えて焼いた肉料理。付け合わせの野菜に、焼きたてのパン。
長旅を終えたばかりのオフィーリアを気遣っているのか、どれも胃に負担の少ない、優しい味付けだった。
ただし、まったく会話がない。
ブライアンは黙々と食事をしていて、不機嫌そうなわけではない。
オフィーリアを睨んでいるわけでも、あからさまに無視しているわけでもない。
ただ、自分から話しかけようという気がまるでないのだ。
オフィーリアはちらりと向かいに座る夫を見た。
(……どうしましょう)
話題がないわけではない。
むしろ、話そうと思えばいくらでも話せる。
道中で目にした領地の様子について尋ねてもいい。
王都とは大きく異なるこの土地の気候や産業についても興味があったし、屋敷へ来る途中で見かけた村の様子についても聞いてみたい。
辺境という土地柄なら、隣国との交易や領地の防衛についてだって、知りたいことはいくらでもある。
しかし、不意に、アルフレッドの言葉が蘇る。
『自分より頭のいい女が好きな男なんていないよ!』
『女なら少しはできないふりをしろよっ』
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
あのとき初めて知ったのだ。
自分が長所だと思っていたものを、疎ましく思う男性もいるのだと。
(思ったことをそのまま口にしてはだめよ。興味があるからといって次々と質問するのも良くないわ。今度は、同じ失敗をしないわよ)
せっかく夫となった人なのだ。
しかも、会った瞬間に思わず胸が高鳴るほど素敵な男性だ。
できることなら、嫌われたくない――いや、少しでも好かれたい。
そう思えば思うほど、いつもなら自然に出てくるはずの言葉が出てこなくなる。
(普通の令嬢なら、こういうとき何をお話しするのかしら……)
領地経営の話? 固すぎる。
交易の話など、もっといけない。
政治の話もやめておいたほうがいいだろう。
では、天気?
(……今日は寒いですね、とか?)
辺境地の冬が寒いのは当たり前。そんなことを言って、そこからどう話を続ければいいのだろう。普段なら相手の話を聞きながら、興味を持ちそうな話題を選び、いくらでも会話を広げられるのに。
賢く見えてはいけない。
知識をひけらかしてはいけない。
夫より前へ出てはいけない。
そう自分に言い聞かせるたびに、口にできる話題がひとつずつ消えていく。
(……うーん。なんとも難しいわねぇ)
商人を相手に条件の異なる取引をまとめるほうが、よほど簡単な気がしてきた。
それでも、このまま黙っているわけにもいかない。
「あの……」
意を決して声をかけると、ブライアンの深紅の瞳がこちらを向いた。
「お部屋を用意してくださって、ありがとうございます。とても素敵なお部屋でした」
「ああ」
「…………」
「…………」
(つっ……あっと言う間に終わってしまったわ)
オフィーリアはそっと視線を皿へ戻した。
今の話題なら、賢すぎると思われる心配はなかったはずだ。
だが、会話そのものが続かない。
(容姿は完璧! でも……私の素敵な旦那様は圧倒的に無口なんだわっ。これはどうしたらいいの?)
食後、部屋へ戻ったオフィーリアを待っていたのは、初夜のための支度だった。
大きな浴槽には温かな湯がたっぷりと張られ、その水面には薔薇の花びらが惜しげもなく浮かべられている。甘く優しい香りに包まれながら身体を沈めると、長旅で凝り固まっていた身体がようやくほどけていくようだった。
湯浴みを済ませたからといって、それで終わりではない。むしろ、ここからが本番だ。
「オフィーリア様、こちらへ」
促されるまま、オフィーリアは大きな鏡の前へ腰を下ろした。
まだ湿り気の残る金髪を、柔らかな布で丁寧に拭い、目の粗い櫛から細かな櫛へと替えながら、時間をかけて梳いていく。艶が出るまで何度も梳かれた金の髪は、やがてさらさらと背中を覆うように流れ落ちた。
肌には王都から持ち込んだ香りのよい香油が薄く塗られ、首筋や肩、腕から指先に至るまで、念入りに整えられていく。さらに胸元や手首には、ごくわずかに甘い香りの香水を纏わせる。
「アンナ。もう十分ではないかしら」
「いいえ。今夜は初夜でございますから……女が一番気合いを入れねばならない勝負の瞬間でございます!」
ずいぶん大袈裟な言い方だと思ったものの、そこまで真剣な顔をされてしまえば、反論する気にもなれない。
オフィーリアは少し困ったように笑いながらも、素直に頷いた。
最後に用意されていた夜着へ袖を通す。柔らかな布地で仕立てられたそれは、普段使いのものよりもずっと薄く頼りない。アンナが満足そうにオフィーリアの姿を確かめる。
「お綺麗ですよ。オフィーリア様は世界一愛らしいです! 旦那様もひと目で虜になります!」
「あ……ありがとう」
オフィーリアは鏡の中の自分を見つめた。
夕食の間、あれほど何を話せばいいのかわからなかった相手との初夜。
(……でも多分大丈夫よね? 一応私だって閨教育は受けているわ。黙って旦那様に任せていればいいのよ)




