第9話
国王から王命が下されてから、オフィーリアの婚姻は驚くほどの速さで進められた。王命による婚姻であるため、通常のような婚約期間は設けられない。両家の間で必要な書類が取り交わされ、王家の承認を受けた時点で婚姻は正式に成立した。
つまり、相手の顔を見ることすらないまま、オフィーリアはブライアン・フォートリエ辺境伯の妻となったのである。
それから嫁入りの準備を整えたオフィーリアは、専属侍女のアンナと共に王都を発った。
目指すのは、はるか北にあるフォートリエ辺境伯領。
何日も馬車に揺られると、北へ進むにつれて景色は変わり、空気もぐんぐん冷たくなっていく。
そして長い旅の末、ようやくフォートリエ辺境伯邸が見えてきたころには、オフィーリアの胸にもわずかな緊張が走った。
これから会うのは、すでに自分の夫となっている男性だ。
ブライアン・フォートリエ辺境伯。
とても冷たく恐ろしい人物だと聞いている――王都に逃げ帰った令嬢談だ。
かつて二人の令嬢と婚約し、そのせいでどちらとも婚約解消になったらしい。
(どんな方なのかしら……きっと怖い顔をした、無骨な大男よね。うん……そんな気がする)
そんなことを考えているうちに馬車が速度を落とし、やがて辺境伯邸の前で止まった。一般的な貴族の屋敷とは違い、分厚い石壁に囲まれたその屋敷は、どこか城塞を思わせる堅牢な造りだった。馬車の扉が開くと、屋敷の前に立っていた男性がこちらへ歩み寄ってくる。
差し出された大きな手に自分の手を重ね、オフィーリアは馬車を降りた。そして改めて、その男性の顔を見上げる。
(……え?)
想像していた人物と、あまりにも違った。艶やかな黒髪に、深紅の瞳。驚くほど背が高く、鍛え上げられた身体は逞しい。それでいて均整が取れているため、すらりとした印象を与える。
そして何より、とても顔がいい!
涼やかな目元に、すっと通った鼻梁。引き締まった薄い唇。精悍さと気品を併せ持つその容貌は、華やかな貴公子ばかりが集う王都の夜会でさえ、そうそうお目にかかれないほどだった。
(まあ……!)
オフィーリアの胸が、一気に高鳴った。
なんということだろう。どれほど恐ろしい男性が待っているのかと思っていたのに、実際に現れた夫は驚くほど素敵な人だった。
(私、この方の妻なのよね?)
そう思った途端、急に国王に感謝したくなった。
同時に、むくむくとやる気も湧いてくる。
もちろん、夫婦にとって大切なのは容姿ではない。
そんなことはオフィーリアにだって、よくわかっている。
けれど、夫が美しいのは歓迎すべきことなのだ。
(よし! 今度こそ、私は間違えないわ。愛され妻になるのよ!)
『目立ちたがりで可愛げがない』と言われた。
『自分より頭のいい女が好きな男なんていないよ!』とも。
アルフレッドから学んだ教訓を、ここで生かさなくてどうする?
オフィーリアは同じ失敗を繰り返すつもりはない。
(ブライアン様に可愛いと思っていただけるように頑張らなくちゃ!)
オフィーリアが密かに決意を新たにしている一方、ブライアンもまた、馬車から降りてきたオフィーリアに驚いていた。
聞いていた以上に美しく愛らしい。蜂蜜を溶かしたような金髪に、鮮やかなエメラルドグリーンの瞳。顔立ちは精巧なビスクドールを思わせるほど可憐で整っていた。
長旅の後だというのに身につけているドレスも髪型も華やかで、まるで王都の夜会からそのまま抜け出してきたようだ。
(……こんな辺境の地には、まったく馴染めそうにない女性だな)
王家から送られてきた小さな肖像画は見ていた。だが、実物のほうが遙かに綺麗だった。そのとき、彼女の後ろで次々と荷物が降ろされ始めた。
大きな衣装トランク。
靴や帽子を収めた箱。
宝飾品の入ったでかすぎる宝石箱。
さらに次の馬車からも、その次の馬車からも荷物が出てくる。
どんどん運び込まれていく荷物を見て、ブライアンは軽く眉間を押さえたくなった。
(王都中の名店の品を丸ごと持ってきたわけではないだろうな)
ウェインライト伯爵家がとても裕福なことは知っている。叔母のキャサリンが大商会の会長で、姪をことのほか可愛がっていることも耳にしていた。
だが、これは想像以上だった。きっと、美しいものや楽しいことに囲まれ、蝶よ花よと大切に育てられてきたのだろう。
ブライアンは華やかなオフィーリアと、背後に積み上がっていく荷物を交互に見る。
(これは……すぐに王都へ帰りたがるな……絶対だ)
そう確信する。
辺境の冬は長く、厳しい。
王都のように華やかな夜会が頻繁に開かれるわけでもなければ、流行の店も洒落たカフェもない。
以前ここへやってきた二人の婚約者も、結局は辺境での暮らしに耐えられないと判断し、王都へ帰っていった。
目の前の女性も、きっと同じだろう。
最初のうちは物珍しさもあるかもしれない。
だが、すぐに王都が恋しくなり、こんな場所では暮らせないと言い出すに違いない。
(まあ、それまでは好きに過ごしてもらえばいいか)
王命によって成立した婚姻とはいえ、本人がここでは暮らせないと言うのなら、無理に引き留めるつもりはなかった。
どうせ長くはいないのだ。あれこれ構わず、本人の好きなようにさせておくのが一番だろう。そんな結論を出し、ようやくブライアンが口を開く。
「ブライアン・フォートリエだ。長旅、ご苦労だった」
「オフィーリア・ウェインライト――」
そこまで言って、オフィーリアは慌てて言い直した。
「……いいえ。オフィーリア・フォートリエです。私、もうブライアン様の妻ですものね。これから、どうぞよろしくお願いします。これからは旦那様とお呼びしますね」
照れたように微笑んだ頬がうっすらと赤い。その言葉と愛らしい笑顔に、ブライアンはわずかに眉を上げた。
オフィーリア・フォートリエ――彼女が当たり前のように自分の姓を名乗ったことは、少し意外だった。王命で突然決められた婚姻なのだから、もっと不満そうな顔をして、愚痴のひとつも聞かされるかと思っていたのだ。
(てっきり、この結婚を嫌がっているものと思っていたが……。まあ、この機嫌の良さも辺境での暮らしを知るまでだろう)
「ああ。よろしく頼む」
それだけ答え、ブライアンは口を閉ざした。
だが、そんな彼の胸の内など、オフィーリアにわかるはずもなかった。
(……あら? それだけ……?)
オフィーリアは、いささかがっかりしていた。
ほんの少しだけ、期待していた。
長旅は大変ではなかったかとか、疲れてはいないかとか。
ほんの一言でも、自分を迎えることを喜んでいるとわかる言葉をかけてくれるのではないかと。けれど、ブライアンはそれ以上何も言わない。
オフィーリアに背を向けると、すぐに使用人たちへ荷物を運ぶよう指示を出している。
(もしかして……私は好みのタイプではないのかしら?)
オフィーリアは密かに焦った。
せっかく新しい人生が始まったのだ。
今度こそ、賢くて可愛げのない女ではなく、夫に愛される可愛い妻になりたい。
そう思っていたのに、肝心の夫からは早くもまったく手応えがないのだった。




