消滅(1)
雨の臭いが、肺の奥まで冷たく落ちてきた。
アパートの階段を一段ずつ、小さな歩幅で下りる。背中に背負ったリュックサックには、あらかじめ引き出しておいた十分な現金と、数枚の着替えが入っている。重みは確かにあるが、幼い肉体でも十分に背負っていける重さだった。
濡れたアスファルトを踏みしめながら、真一は一度も振り返らなかった。
あの六畳間には、物理的に破壊したハードディスクと、初期化されたスマートフォン、そして27歳の男が着ていた服や生活の痕跡だけが残されている。明日の朝、母親と管理会社が予備鍵で踏み込んだ時、彼らが目にするのは「突如として部屋を捨て、荷物を持たずに蒸発した男の部屋」だ。
事件性はない。監禁も、犯罪もない。ただの不真面目な息子の失踪。
親戚や世間にはそう処理されるのが、残された親にとっても一番傷が浅くて済むはずだった。
(遠くへ行こう)
自分の顔や声を知る者が一人もいない、完全に未知の街へ。
深夜のローカル線のホームには、人影がまばらだった。
自販機で切符を買い、改札を潜る。券売機に届くか不安だったが、背伸びをすればどうにか届いた。小さな手で切符を握りしめ、ベンチに腰掛ける。大人の服を切り刻んで作った不格好なパーカーのフードを深く被り、膝を揃えて俯いていた。
通過する長距離トラックのライトが、濡れたホームを白く照らしていく。
自分の姿を観察する。誰も自分に注意を向けていない。深夜に幼女が一人で駅にいる異様さはあるはずだが、フードを深々と被り、じっと俯いている姿は「親の帰りを待っている子ども」に見えなくもないのだろう。都市の無関心が、今の真一にとっては唯一の濡れ衣を塞ぐ盾だった。
ガタゴトと音を立てて滑り込んできた始発電車に乗り込む。
車内は暖房が効いていた。濡れた服が肌に張り付いて寒気がしていた体に、じんわりと温もりが戻ってくる。
ガタゴトと揺れる電車の中で、真一は窓の外を見つめた。
闇の中から、少しずつ白んでいく街並み。見覚えのある東京の郊外から、見たこともない田園風景、そして山あいの景色へと、世界が流れていく。
乗換を何度も繰り返した。
切符を現金で買い直し、ローカル線と長距離バスを乗り継いで、西へ、さらに西へと向かう。
途中のサービスエリアや駅の売店で、現金を使ってパンと温かいお茶を買った。レジの店員は少し不思議そうな顔をしたが、真一が「お母さんは車で待ってます」というニュアンスで小銭を整然と手渡すと、特に咎められることもなくお釣りと商品が返ってきた。
金はある。餓死することもない。
だが、移動を続ける中で、真一の胸を満たしていたのは「自由」ではなく、不気味なほどの「透明感」だった。
自分は今、社会のどのシステムにも存在していない。
住民票も、戸籍の写真も、マイナンバーも、すべて「東京のアパートで蒸発した城戸真一」に紐づいている。
この電車に乗っている小さな肉体には、名前すらない。
(俺は……誰なんだ?)
窓ガラスに映る、自分の顔を見つめる。
大きな瞳、不揃いな黒髪、華奢な首筋。
いくら頭の中で27歳の投資家としての知識や思考を巡らせてみても、ガラスに映る少女は、ただの「名もなき幼女」でしかなかった。
二日が過ぎた。
たどり着いたのは、海沿いの静かな港町だった。
古い木造住宅が身を寄せ合い、潮の香りと魚の匂いが漂う、時間の流れが止まったような場所。
雨は上がっていた。
雲の隙間から夕日が差し込み、海面を赤金色の鱗のように輝かせている。
真一は港の防波堤に腰掛け、波が削るコンクリートの音を聞いていた。
リュックの中の現金を使えば、この街の小さなビジネスホテルや簡易宿泊所にしばらく身を寄せることはできるだろう。だが、その後は?
一年後、五年後、十年後。
この身体は成長するのだろうか。それとも、この幼い姿のまま固まってしまうのだろうか。
どんなに金があっても、身元を証明できない人間は、いずれ学校にも通えず、正規の契約も結べず、社会の暗がりで「存在しない者」として生きていくしかない。
そして何より——自分自身の精神が、日に日にこの幼い肉体に浸食されていくのを感じていた。
夕焼けの海を見て「きれいだ」と素直に感動してしまう心。
波の音を聞いて、無性に寂しくなり、涙ぐみそうになる目線。
大人の論理や計算が、少しずつ、乾いた砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。
(城戸真一は……もう死んだんだ)
波の音を聞きながら、真一は静かに悟った。
あの部屋を出た瞬間に、27歳の男性投資家・城戸真一の人生は完結したのだ。
今ここにいるのは、過去を失い、未来の居場所を探している、ただの小さな女の子だ。
もう、逃げ回る必要はないのかもしれない。
社会の隙間に隠れて、怯えながら生きていく必要も。
真一はゆっくりと防波堤から立ち上がった。
リュックサックを固く背負い直し、港町の小さな商店街の方へと歩き出した。
目指す場所は、決まっていた。
商店街の境界線、赤い赤灯が静かに灯る、小さな木造の建物。




