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自我の摩耗(3)

期限の日は、雨だった。


外の激しい雨音が、閉め切られたカーテン越しにも低く響いていた。

PCのモニタの前で、真一は膝を抱えて座り込んでいた。


『ご本人様確認(eKYC)の有効期限が切れました。これより、お取引およびご出金機能を一時制限いたします』


画面に浮かび上がる無機質な警告。だが、真一の顔に焦りはなかった。

専業投資家としてリスク管理を徹底してきた真一は、こうなることを見越して、数日前にATMからあらかじめ十分な現金を引き出しておいたのだ。


リュックの中に納まったまとまった札束の重みを感じる。

これで当面の生活費や移動資金に困ることはない。お金の問題はクリアできた。この部屋を出てどこか遠くへ行き、静かに暮らしていくための最低限の糧は確保できたのだ。


だが、その安堵を打ち砕く決定的な一打が、その日の午後にやってきた。


スマートフォンの画面が光り、留守番電話のアイコンが点滅する。スピーカーを耳に当てると、母親の少し焦ったような声が聞こえてきた。


『真一? お母さんだけど……何度も電話したのに、どうしたの? 管理会社さんから「賃貸の更新手続きの書類が届いていないし、連絡も取れない」って実家に電話があったのよ。心配だから、明日の朝、お母さんが管理会社の人と一緒に予備鍵で部屋に入ることにしたから。体調でも崩して倒れてたら大変だし……このメッセージを聞いたら、すぐ連絡しなさいね』


ドクン、と心臓が跳ね上がった。


明日。明日の朝。

母親と管理会社の人間が、予備鍵でこの部屋を開けて踏み込んでくる。


頭の中で、最悪のシナリオが完成する。

鍵が開けられた瞬間、そこにいるのは連絡のつかない27歳の城戸真一ではなく、男の服を着た、身元不明の6歳の幼女だ。


母親はパニックになり、管理会社は警察を呼ぶだろう。「城戸真一はどこへ行った?」「この子は誰だ?」「部屋に幼女を監禁して逃亡したのか?」「あるいは事件に巻き込まれて殺されたのか?」


警察の捜査が始まり、ニュースで騒がれ、実家や親戚の人生は「不祥事を起こして失踪した息子(あるいは怪事件の当事者)」の影によって永久に破壊される。


「そんなの……ダメだ……」


真一は頭を抱え、床に額をこすりつけた。


自分がこの部屋で「発見」されるわけにはいかない。

「城戸真一の部屋で幼女が見つかる」という状況そのものを、絶対に作ってはならなかった。


城戸真一という男は、ここで「音信不通のまま身一つで蒸発した不真面目な男」として処理されるべきなのだ。部屋の中に自分(幼女)が存在していてはならない。親に余計な混乱や濡れ衣を着せないための、これが大人としての、最後の手向けだった。


(出ていくんだ……今すぐに)


部屋を見回す。

数ヶ月前まで、自分が当たり前に大人として暮らしていた場所。

トレード用のモニタ、着慣れたスーツ、本棚に並ぶ投資本。それらはすべて、過去の遺物となっていた。


真一は立ち上がった。

あらかじめ現金と最小限の荷物を詰めておいたリュックサックを背負う。


スマホのデータはすべて初期化し、PCのハードディスクには物理的な破壊を加えた。自分が「城戸真一」として生きていた痕跡を、この部屋の中で完全に沈黙させる。


姿見の前に立った。

そこに映るのは、大きすぎるパーカーの袖を捲り上げた、小さな女の子だった。

瞳には、もう逃げ惑うだけのパニックはなかった。乾いた、諦めと覚悟の色が宿っていた。


「さようなら、俺」


鏡の中の少女に向かって、小さく呟いた。


外は相変わらずの土砂降りだった。

雨音が、部屋の窓を激しく叩き続けている。

真一は高くて届かないチェーンロックを踏み台を使って外し、ドアノブをゆっくりと押し下げた。


部屋という「檻」を出て、見知らぬ雨の世界へと踏み出していく。

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