自我の摩耗(2)
「……もしもし? お父さんかお母さん、中で倒れてたりしない?」
ドア越しに聞こえる配達員の声に、真一は冷や汗を流しながらも、持ち前の観察力と冷静さを必死にかき集めた。パニックに陥れば終わる。ここで警察や管理会社を呼ばれることだけは、何としてでも防がなければならない。
(落ち着け。声を出さずに『在宅かつ受取完了』の形を作ればいい)
真一は音を立てずに玄関のたたきへ下りると、ドアの横に置いたメモ用紙と油性ペンに手を伸ばした。幼い手でペンを固く握りしめ、大きめの筆跡で素早く文字を書き走らせる。
『風邪で声を痛めています。感染防止のためドア前に置いてそのままお戻りください。置き配で受け取ります』
それをドアの隙間からすっと滑り込ませ、同時にドアを内側からトントンと二回叩いた。
「うおっ……あ、紙……?」
外で配達員が紙を拾い上げる気配がした。数秒の沈黙の後、男の申し訳なさそうな声が返ってくる。
「あ、すみません! 体調悪いところわざわざ……! 置き配不可の商品が入ってたんで確認しようとしただけなんです。じゃあ、ドアの前に置いておきますね。お大事にしてください!」
袋が床に置かれるカサカサという音と、軽快な足音が階段を下りていくのが聞こえた。
真一は胸をなでおろし、深く息を吐き出した。
十分に時間が経ったことを確認してから、チェーンロックをかけたままドアを数センチだけ開け、隙間から小さな手を伸ばして食料品と水の袋を室内へと引きずり込んだ。
(よし……これで当面の水と食料は確保できた)
成功体験に一瞬だけ胸を撫でおろした真一だったが、部屋に戻り、冷たいペットボトルの水を喉に流し込んだ瞬間、すぐに別の冷酷な現実に引き戻された。
ごまかせるのは、こうした「人間の目」だけだ。
機械的で感情を持たない「システムの手続き」は、メモ書き一枚でごまかすことなど絶対に許してくれない。
PCの画面には、相変わらず無機質な警告が灯っていた。
『【重要】ご本人様確認(eKYC)完了までの残り日数:8日』
どんなに知恵を絞って配達員や近隣の目を欺こうとも、金融機関のAI顔認証システムは容赦なくタイムリミットを刻み続けている。
画面上の残高には、当分遊んで暮らせるだけの十分な資金がある。しかし、本人確認を突破できなければ、その数字はただの「動かせない電子データ」と化すのだ。
さらに、その日の夜。
スマートフォンの画面に、滅多に鳴ることのない着信履歴が残されていることに気づいた。
表示されていたのは、遠方に住む「母親」の電話番号だった。
不在着信は1件だけではない。昨日から今日にかけて、すでに3件。
いつもなら年に一、二度しか連絡を越さない実家から、なぜこのタイミングで電話が来るのか。
(親父かおふくろが、何か嫌な虫の知らせでも感じたのか……?)
幼い手で握りしめたスマートフォンが、ずっしりと重く感じられた。
電話に出ることはできない。出れば一秒で「見知らぬ子どもの声」だとバレる。かといって無視し続ければ、不審に思った親が警察に「捜索願」を出し、アパートへ立ち入る口実を与えてしまう。
ネットスーパーの配達員を騙せても、肉親の勘と、銀行のセキュリティシステムという二重の包囲網が、着実に部屋の壁を締め上げていた。




