自我の摩耗(1)
二週間が過ぎた。
部屋の中に漂う空気は、以前にも増して重く淀んでいた。カーテンを閉め切った六畳間は、昼か夜かの区別すらあやふやになりつつある。ゴミ箱からは腐敗臭が漂い始めていたが、ゴミ捨て場へ行くことすら拒んだ真一は、ベランダの隅に指定ゴミ袋を固く縛って放置していた。
肉体は、元に戻る気配を一切見せなかった。
それどころか、鏡を見るたびに「見慣れた幼女」がそこに立っていることに、脳が少しずつ慣れ始めてしまっている自分がいた。それが何より恐ろしかった。大人の男性として過ごした二十七年間の感覚が、幼い肉体の生理現象や日々の無力感によって、じわじわと上書きされていくような感覚。
(まだだ。俺は城戸真一だ。投資家で、二十七歳で……)
言葉を口に出して確認しようとするが、口から漏れるのは甲高い幼声だ。そのギャップが、自分自身の存在を内側から削っていく。
そして、ついに「物理的な限界」がやってきた。食料の枯渇だった。
押入れに積んであったカップ麺の箱は空になり、パックご飯も残すところあと二つ。ペットボトルの水はついに底をついた。水道水は飲めるが、沸かさずにそのまま飲むことへの拒絶感と、日々の不衛生な生活で腹を下す恐怖が真一の思考を支配していた。
(買い物を……しなければ)
ネットスーパー。
唯一の解決策だった。画面上で決済し、商品を届けてもらう。
だが、そこには大きなハードルがあった。置き配(置き配指定)が利用できるかどうかだ。
真一は震える指でネットスーパーのアプリを操作し、水と缶詰、レトルト食品をカートに放り込んだ。決済は登録済みのクレジットカードで行う。ここまでは問題なかった。
注文確認画面の備考欄に、必死の思いで文字を打ち込む。
『インターホンは鳴らさないでください。商品はドアの前に置いて、そのままお帰りください(置き配希望)』
送信ボタンを押す。配送予定時刻は、翌日の午前中。
画面を閉じた後、真一は祈るように胸の前で小さな手を組んだ。頼むから、指定通りに置いていってくれ。
翌日、午前十時。
約束の時間が近づくにつれ、真一の鼓膜は激しくドクドクと音を立てた。
押し入れの布団の隙間に身を潜め、玄関の方角をじっと見つめる。呼吸することすら恐ろしい。
ピンポーン。
甲高いインターホンの音が、静まり返った部屋に響き渡った。
(な……っ!?)
真一は血の気が引くのを感じた。備考欄に書いたはずだ。鳴らさないでくれと、あれほど念を押したのに。
ピンポーン、ピンポーン。
「すみませーん! ネットスーパーでお届ものでーす!」
ドア越しに聞こえたのは、若い男のハキハキとした声だった。
配達員は備考欄を見ていないか、あるいはオートロックのない古いアパートゆえに、念のため在宅確認をしようとしているのか。
「城戸さまー? お留守ですかー?」
ドンドン、とドアが軽く叩かれる。
真一は押し入れの中で頭を抱え、小さく丸まった。心臓が暴走し、視界がチカチカと明滅する。
(頼む……諦めてくれ、置いていってくれ……!)
しかし、配達員の声は続いた。
「生鮮食品もありますので、手渡し指定なんですよね……。おかしいな、注文入ったばっかりなのに」
手渡し指定。アプリの仕様上、一部の食品は置き配が適用されず、デフォルトで対面手渡しになっていたのだ。真一の見落としだった。
外から、カサカサと伝票をめくる音が聞こえる。
「……ん? 中からテレビの音とかしてないか?」
真一の背中に冷や汗が吹き出した。PCのファン音や、液晶の明かりが隙間から漏れているのかもしれない。
「すみませーん、いらっしゃいませんかー?」
ガチャガチャ、とドアノブが外から回された。
鍵がかかっていることを確認すると、配達員は不審そうに呟いた。
「なんだ……? 部屋の中に誰かいるっぽいけどな。事故か……?」
事故。その一言が、真一の脳裏で爆発した。
もし「室内で住人が倒れているかもしれない」と判断されたらどうなる? 配達員が管理会社に連絡し、管理会社が警察を呼んで鍵を開ける。
開けられたドアの向こうにいるのは、倒れた成人男性ではなく、怯えて丸まっている見知らぬ幼女だ。
「っ……!」
真一は反射的に押し入れから飛び出し、足もつれさせながら廊下へ走った。
ドアの手前で立ち止まり、必死に呼吸を整える。喉を締め付け、できる限り「大人の声音」を作ろうと試みた。
「……はい」
声を出した瞬間、絶望が胸を刺した。
喉から出たのは、風邪をひいた子どものような、かすれた高い声でしかなかった。
外の気配がピタリと止まった。
「……え? あ、小さなお子さん? お父さんかお母さん、いるかな?」
配達員の声のトーンが一変した。親切だが、明らかに不審がっている声。
真一はドアに額を押し付け、必死で頭を回転させた。何を言えばいい? 「親は寝ている」? 「今お風呂に入っている」?
どんな言い訳をしても、こんな平日の真昼間に、鍵のかかったアパートに幼女が一人で取り残されている状況は異常だ。
「あー……ボク? お名前言えるかな? お留守番?」
配達員の問いかけに、真一は言葉を失った。
一度でも返事をすれば、声の幼さから絶対に大人ではないと確信される。そして「親を呼んできて」と言われ、それが叶わなければ通報へ一直線だ。
真一は沈黙を選んだ。
口を固く結び、ドアの前で石のように硬直した。
「……もしもしー? 大丈夫ー?」
ドアを叩く音が、先ほどよりも強く、深刻さを帯びて響く。
沈黙が、かえって配達員の猜疑心を決定的なものにしようとしていた。社会の安全網という名の「親切な目」が、外側から真一の部屋をじわじわと追い詰めていく。




