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異変(3)

三週間。それが、この部屋で城戸真一という存在が猶予されたタイムリミットだった。


モニタに表示された「eKYC」の文字を直視できず、真一はブラウザのタブを閉じた。見なかったことにしても問題が解決するわけではない。だが、今の幼い頭脳では、その期限が突きつける残酷な現実から目を背けることしかできなかった。


(戻る。それまでに元に戻ればいいだけだ)


それからの数日間、真一は文字通り部屋に引きこもった。

遮光カーテンは一度も開けず、部屋の明かりも最小限に抑えた。外の光を遮断することで、自分が置かれた不条理な現実を少しでも遠ざけたかった。


だが、肉体の「小ささ」は、日常のあらゆる場面で静かに真一の精神を削っていった。


三日目の夜、風呂に入ろうとして足が止まった。

普段なら意識もせずに入っていたユニットバスの浴槽が、まるで深いプールのように見えた。シャワーのフックは頭遥か上方にあり、手が届かない。ホースを引っ張ってシャワーヘッドを床に転がし、冷めかけたぬるま湯を体に回しかけるのが精一杯だった。


鏡を見ないようにして自分の体を洗う。だが、小さな手足に触れるたび、そこにあるはずのない柔らかさや無力感が指先から伝わってくる。大人の男性として生きてきた二十七年間の記憶と、今そこにある幼女の肉体。その強烈な解離ギャップに、吐き気すら覚えた。


さらに真一を苦しめたのは、「音」と「気配」だった。


四日目の昼過ぎ、廊下から足音が近づいてきた。

ドスン、ドスンと重い足音が部屋の前で止まり、ドアの外で金属が触れ合うカチャリという音が響いた。


「っ……!」


真一は息を呑み、デスクの下の狭い隙間に身を縮めた。心臓が早警を打ち、全身から嫌な汗が噴き出す。

ただの隣人か、あるいは郵便配達員か。大人だった頃なら気にも留めなかった足音が、今の身体には巨人が迫ってくるような恐怖として響く。


『郵便でーす。城戸さーん、不在票入れておきますねー』


ドア越しに聞こえた配達員の野太い声に、真一は両耳を強く塞いだ。小さく縮こまった膝がカタカタと震える。

もし、ここで自分が「はい」と返事をしてドアを開けたらどうなるか。

そこに立つ小さな女児を見た配達員は、必ず怪しむ。「お父さんは?」と訊くだろう。「いません」と答えれば、親の放置ネグレクトか、あるいは誘拐を疑って警察に通報するかもしれない。


足音が遠ざかり、静寂が戻っても、真一はしばらくデスクの下から出ることができなかった。


外の世界は、もはや安全な場所ではなかった。一歩でも部屋から出れば、あるいは誰かに姿を見られれば、その瞬間に自分の「隠遁生活」は破綻する。外には自分を保護名目で奪い去るシステムと、犯罪者として追い詰める警察の目が網を張っている。


一週間が経過した。

身体は元に戻らなかった。髪の毛が少し伸び、爪が伸びただけだった。


備蓄していた食料は確実に減っていった。

特に深刻だったのは、水と主食だった。2リットルのペットボトルはお茶が残り1本。カップ麺の湯を沸かすのすら、台に登って重い鍋を扱うリスクから避けるようになり、冷めたパックご飯と缶詰ばかりを口にしていた。


栄養の偏りと恐怖によるストレスで、頭痛が慢性化していた。

トレードの画面に向かっても、以前のような集中力は保てない。チャートの波線が、ただの意味のない折れ線グラフに見えてくる。


(集中しろ……稼がなきゃ死ぬぞ)


自分に言い聞かせ、震える指でマウスを操作する。

だが、画面の隅に刻まれた日付と時刻は、着実に「タイムリミット」へ向けて進んでいた。


eKYCの期限まで、あと十四日。

そして、さらなる追撃が真一を襲う。


郵便ポストに溜まっているであろう書類を確認するため、真一は深夜二時、住人が完全に寝静まったタイミングを見計らって、数ミリだけドアを開けた。

息を殺し、ドアの隙間から小さな手を伸ばしてポストの中身を引っ張り出す。


舞い込んできた数枚のチラシの中に、一枚のハガキが混ざっていた。


『賃貸借契約更新のご案内および火災保険更新手続きについて』


管理会社からの通知だった。

契約更新の手続きには、署名・捺印の上、同封の書類を返送し、さらに指定の保証会社による「本人確認の電話連絡」に応じる必要があると書かれていた。


真一はハガキを握りしめたまま、薄暗い玄関の床にへたり込んだ。


電話。

受話器を取れば、聞こえるのは幼い少女の声だ。大人である「城戸真一」として振る舞うことなど、絶対に不可能だった。


証券口座の凍結だけではない。

この部屋の契約そのものが、あと二ヶ月で切れる。


部屋という「檻」の壁が、徐々に、しかし確実に内側へ向かって狭まってきていた。逃げ場はどこにもなかった。

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