異変(2)
カーテンの隙間から差し込むかすかな光が、室内をほの暗く照らしていた。
畳の上に座り込み、呼吸を整えようと試みる。冷たい床の感触が、皮膚を通してじわりと伝わってくる。小さくなった手の平を見つめ、何度も握ったり開いたりしてみた。指を動かす感覚そのものは自分のものだが、伝わってくる筋肉の厚みや骨の感覚が圧倒的に頼りない。
(とにかく、生活の基盤を整えるのが先だ)
思考を大人のトレーダーモードに切り替えようと自分に言い聞かせる。パニックは損失を拡大させるだけだ。相場と同じで、不測の事態が起きた時こそ冷静なリスク管理が求められる。
まずは衣類だった。着ているXLサイズのTシャツはあまりにも大きすぎ、歩くたびに裾を踏んで転びそうになる。クローゼットを開け、いちばんサイズが小さそうな服を探した。学生時代に着ていた古着のSサイズTシャツや、縮んでしまったスウェットパンツ。それらを引っ張り出し、ハサミで裾を強引に切り落とし、紐でウエストを固く縛る。みすぼらしい姿だが、引きずって歩くよりはマシだった。
次に確認すべきは「生活維持の手段」――つまりトレード環境だった。
真一はPCデスクの前に置かれたオフィスチェアを見上げた。座面の位置が高すぎる。足を掛けてよじ登ろうとしたが、幼い腕力では体を持ち上げることができず、ドサリと床に落ちた。
「くそっ……」
甲高い声で悪態をつき、押し入れから厚手のクッションと畳んだ布団を運んできた。それをデスクの足元にうずたかく積み上げ、踏み台代わりにしてどうにか椅子の上に這い上がった。
モニタの電源を入れる。トリプルディスプレイの画面が青く光り、普段見慣れたチャート画面が広がった。
マウスに手を置く。大きすぎる。大人の手に合わせて買ったエルゴノミクスマウスは、いまの真一の手には巨大な塊でしかなく、人差し指と中指を限界まで開かなければ左右のクリックボタンに届かない。キーボードのブラインドタッチなど不可能だった。片手でマウスを掴み、もう片方の手でキーを一つずつ押し込む作業を強いられる。
(だが、動く……! ログインさえ維持できれば、取引はできる)
モニタ上でメインで使っている証券会社と為替取引のブラウザ画面を開く。セッションは維持されており、チャートはリアルタイムで動いていた。
安堵の息が漏れた。
専業投資家という選択は、怪我の功名だった。会社員であれば、今日この休む連絡一つ入れるだけで地獄を見たはずだ。電話口で幼い声を出せば「お父さんかお母さんは?」と怪しまれ、体調不良と偽っても上司や同僚がアパートに様子を見に来る危険がある。
しかし、自分にはそれが一切ない。誰とも話す必要がないのだ。
(食料と水の確認だ)
椅子から降り、台所へ向かう。
流し台の横にある冷蔵庫を開ける。背が届かないため、ここでも足踏み台が必要だった。
庫内にあるのは、2リットルのペットボトルのお茶が3本、卵1パック、納豆、賞味期限の切れかかった豆腐、そして冷凍室に溜め込んだ冷凍食品の買い置きがいくつか。
押入れの備蓄スペースには、箱買いしたカップ麺とパックご飯が1ケースずつ。
(1人分の大人なら二週間分……いや、この体の代謝なら一ヶ月はもつか?)
胃袋の小ささを考えれば、消費スピードは遅くなるはずだった。
だが、問題は「調理」と「摂取」だった。
ガスコンロのツマミは高い位置にあり、台に乗らなければ手が届かない。ヤカンに水を汲もうにも、満水の2リットルを幼い腕で持ち上げるのは至難の業だった。お湯を沸かすだけで、火傷や不審火の危険がつきまとう。
さらに、何気なく手を伸ばした2リットルのペットボトルを持ち上げようとして、真一は愕然とした。
「あ……」
キャップが開かない。
握力がないのだ。大人の男性なら軽く捻るだけで開くプラスチックのキャップが、幼い手の平の上でヌルりと滑る。何度も力を込め、皮膚が赤く擦り切れるまで捻ったが、固く閉ざされたキャップはビクともしなかった。
身体が小さくなったことの生々しい無力さが、容赦なく襲いかかってくる。
ハサミの刃をキャップの隙間に叩き込み、テコの原理で強引に留め具を切ることで、どうにか水を得ることができた。それだけで息が切れ、額にうっすらと汗が浮かぶ。
リビングに戻り、床に直接座り込んでパックのご飯をかじる。電子レンジで温めることすら億劫だった。冷えて硬くなった米粒を噛み締めながら、真一は壁の時計を見上げた。
午前11時。
世界は何事もなかったかのように回っている。外からは時折、トラックが道路を走り去る低い走行音が聞こえてくる。
(数日だ。数日だけ耐えればいい。人間の身体が急に変形するなんて、ホルモンバランスの極端な異常か何かだ。時期が来れば収まる)
そう自分を洗脳するように言い聞かせた。
だが、その日の夕方、真一を本当の絶望へ叩き落とす通知がPC画面に届く。
ピコン、と電子音が響いた。
トレード画面の脇に、メインで使用しているネット銀行および証券口座からのポップアップ通知が表示されていた。
『【重要】お客様情報の定期確認および本人確認(eKYC)手続きのお願い』
画面を凝視した真一の顔から、一瞬で血の気が引いた。
『犯罪収益移転防止法に基づき、最新のご登録情報およびご本人様確認を実施しております。下記期日までに、スマートフォンアプリよりマイナンバーカードおよびご本人様の容姿(顔写真)の撮影による本人確認を完了させてください。期日内に確認が取れない場合、安全のため口座の一部機能(出金・取引)を一時制限させていただきます』
設定された期日は、今から三週間後だった。
「顔……認証……」
画面上の文字が、歪んで見えた。
スマホのアプリを起動し、免許証やマイナンバーカードの厚みを撮影し、その後に自分の顔をカメラに向けて上下左右に動かす——現代の金融機関がこぞって導入しているオンライン本人確認制度「eKYC」。
カードに印字された「27歳男性・城戸真一」の顔写真と、スマホのインカメラが捉えるであろう「6歳女児」の顔。
一致するはずがない。AIは一瞬で「なりすまし」または「エラー」と判定し、ロックをかけるだろう。
口座が凍結されれば、トレードでいくら利益を出そうが出金できない。家賃の引き落としも、電気代の決済も、すべてが止まる。
冷たい汗が、幼い背中を滑り落ちていった。
部屋の中で、真一の「社会的な死」へのカウントダウンが静かに始まっていた。




