異変(1)
視界の位置が、異常に低かった。
浅い眠りから意識が浮上した瞬間、城戸真一は強烈な違和感に襲われた。いつもなら目の前に広がるはずの、安っぽい白い天井がやけに遠い。頭を支える枕の感触も重く、首筋に妙な圧迫感があった。
まぶたを開けようとしたが、身体が鉛のように重い。昨晩は深夜三時までドル円のチャートを追いかけていた。終盤の急変動に巻き込まれ、損切りラインを割ったポジションを手動で切った記憶がある。脳の芯が痺れるような疲労感は、いつものことだった。
「……くそ」
声を出そうとして、喉の奥で呼吸が掠れた。
喉から漏れ出たのは、自分の声ではなかった。掠れた、だが鈴を転がすように甲高い、幼い子どもの吐息だった。
真一は跳ね起きようとした。しかし、腕に力が入らない。敷布団を押して身体を起こそうとした自分の手元に視線を落とした瞬間、全身の血が引き引いていくのが分かった。
そこに置かれていたのは、あまりにも小さく、薄く、頼りない「手」だった。
指先は丸く、皮膚は関節の皺すら浅い。爪は小豆のように小さく、ピンク色に透き通っている。手首のあたりには、幼児特有の小さな肉のくびれさえあった。
「な……」
喉が痙攣した。叫び声にならない。
真一は狂ったように立ち上がろうとしたが、足の長さが足りず、履き古したスウェットの裾に引っかかって畳の上に転倒した。ドスン、と軽い音が響く。痛覚はある。夢ではない。肘を打った痛みが、じんわりと脳に届く。
這うようにして、真一は部屋の姿見へと向かった。
六畳の和室兼オフィス。壁際にはマルチモニタのPCデスクが鎮座し、足元には空のペットボトルとコンビニの袋が散らばっている。二十七歳の男が一人で暮らす、薄暗い賃貸アパートの日常。その床を、小さな裸足が這っていた。
鏡の中に、見知らぬ少女が映っていた。
肩まで伸びた不揃いな黒髪。大きな瞳は恐怖に見開かれ、眉は情けなく下がっている。着ているのは、真一が昨晩まで着ていたXLサイズのTシャツだ。首元はガバガバに開き、片方の肩が完全に露出していた。布地は膝を通り越し、床を引きずっている。
年齢にして、六歳か、せいぜい七歳。小学校に上がるか上がらないかといった年格好の、華奢な女児だった。
「嘘だろ……」
少女の唇が動き、甲高い声が鏡の向こうから返ってくる。
鏡に映る少女は、真一が右手を挙げると、同じように小さな右手を挙げた。頬を強く引っ張ると、鏡の中の少女も顔を歪めて涙目になった。痛い。激痛だ。
真一は鏡の前でへたり込んだ。心臓が暴走し、胸の奥が熱く焼けるようだった。
TS――性転換。ネットの小説や漫画で見たことのある、阿呆らしいフィクションの単語が脳裏をよぎる。だが、そこ描かれるようなドラマチックな光景も、神秘的な光もなかった。ただ不条理に、現実の肉体が縮み、性別が変わっていた。
(病院か? 救急車か?)
パニックに陥った頭で、真っ先に浮かんだのは外部への助けだった。
真一は這いつくばってPCデスクへ向かい、充電ケーブルに繋がれたスマートフォンに手を伸ばした。しかし、小さな指では重い端末を持ち上げることすら覚束ない。どうにか画面を叩き、ロックを解除しようとした。
インカメラが起動し、顔認証が走る。
『顔が認識されません』
無機質なエラーメッセージが画面に躍る。真一は焦りで震える手で指紋センサーに親指を押し当てた。
『指紋が一致しません』
面積が違いすぎるのだ。大人の男性の指紋と、幼女の指紋。システムは目の前にいる存在を、明確に「城戸真一ではない第三者」と判定していた。
パスコードの数値を小さな指で叩き込み、どうにかホーム画面を開く。発信画面で「119」の三文字を押そうとした瞬間、真一の指がピタリと止まった。
冷や汗が、背筋を吹き抜けた。
(待て。警察や救急を呼んで……なんて説明する?)
脳内でシミュレーションが高速回転を始める。
『寝て起きたら幼女になっていました』――誰が信じる?
警察が駆けつけた時、そこにいるのは連絡のつかない二十七歳男性の部屋と、身元不明の幼女一人だ。
警察の目にはどう映るか。
「城戸真一」という男が、どこかから女児を連れ去り、部屋に監禁していた。そして男自身は逃走したか、あるいは隠れている。
あるいは、この女児自身が誘拐の被害者として保護され、児童相談所へ送られる。精神病院に孤立させられ、実験動物のように検体として扱われるかもしれない。
『俺が城戸真一だ』と主張したところで、証明する手段がない。声も、顔も、指紋も、体格も、何一つとして「城戸真一」のデータを満たしていないのだから。
「アハ……」
掠れた乾いた笑いが漏れた。
通報した瞬間に、俺は「被害者」ではなく「未成年者誘拐の容疑者」として全国に指名手配されるか、言葉の通じない狂人として隔離される。
真一はスマートフォンを畳の上に落とした。
喉がカラカラに乾いていた。膝が震えて立ち上がれない。
(戻るはずだ。こんな異常事態、一時的なアレルギーか何かだ。数日……いや、数時間経てば、元に戻るに決まっている)
そう自分に言い聞かせるしかなかった。非現実的な現象が起きたのなら、非現実的な解決――時間経過による自然治癒――を祈るしかない。
真一は震える体で玄関へ向かった。
ドアノブに手を伸ばす。高い。普段なら意識もしないドアノブの位置が、見上げるような高さにあった。背伸びをし、両手でノブを包み込むようにして下へ押し下げる。ガチャリと音がして鍵が開く。
だが、その上にある金属製のチェーンロックに目が留まった。
届かない。
台を持ってこなければ、外から鍵を開けることも、中から完全に解錠することもできない。
真一はチェーンロックを見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
(出なくていい。出るべきじゃない)
幸いにも、自分は会社員ではない。
大学を卒業後、社会適応に失敗して数年で会社を辞め、専業の個人トレーダーとして生計を立てていた。毎朝決まった時間に出社する必要もなければ、上司からの電話に怯える必要もない。
実家とは折り合いが悪く、年に一度連絡を取るかどうかだ。友人らしい友人も、この数年で綺麗にいなくなった。
自分がこの部屋から一歩も出なくても、世界は困らない。誰も自分の不在を不審に思わない。
「篭城だ」
声に出すと、少しだけ落ち着きを取り戻した。
元に戻るまでの数日間、この部屋に隠れ続け越せばいい。食料はある程度買い込んであったはずだ。トレード用のPCさえ動けば、収入が途絶えることもない。
真一はダボダボのTシャツの裾を捲り上げながら、部屋のカーテンを固く締め切った。遮光カーテンが外界の光を遮り、六畳間は薄闇に包まれる。
これが、長い籠城生活の始まりだった。




