消滅(2)
赤灯の淡い光が、濡れたアスファルトに小さな赤い輪を作っていた。
半開きのガラス戸を押し、踏み込む。
「……すみません」
出たのは、やはり鈴を転がすような、幼い少女の声だった。
デスクに向かっていた年配の警察官が驚いて顔を上げ、慌てて膝をついて目線を真一の高さまで下げた。
「おや、どうしたのボク? こんな時間に一人で……お父さんやお母さんは?」
真一は答えず、ただ静かに首を横に振った。
「お家はどこ? お名前言えるかな?」
問いかけに、真一は口を固く結んだまま、もう一度首を横に振る。喋れないのではない。「城戸真一」という真実を口にすればすべてが破綻するからこそ、完全な無言を貫くしかなかった。
「喋りたくないのかな……寒かったろう、中にお入り」
警察官は優しく室内へ招き入れ、パイプ椅子に座らせると、温かいお茶を出してくれた。そして受話器を取り、署の生活安全課へ連絡を入れた。
「こちら駅前交番です。未就学児と思われる女児を保護しました。お名前や住所を尋ねても首を振るばかりで、応答が得られません。ネグレクトまたは迷子の可能性があります。本署での一時保護と、児童相談所への連絡をお願いします」
記憶喪失などという都合のいいドラマの単語は出ない。警察官の目は、ただ「保護者に置き去りにされたか、ショックで心を閉ざした虐待・迷子児」として真一を見ていた。現実の警察組織が動く、極めて無機質な、しかし確実な手続きの始まりだった。
夜の間に本署の生活安全課へと移送され、翌朝には「児童相談所(児相)」のアセスメント面接へと回された。
案内されたのは、柔らかいマットが敷かれた味気ない面談室だった。
担当の女性児童福祉司と心理判定員が、真一の前に座る。彼女たちは優しく微笑みながら、絵本やスケッチブック、クレヨンを差し出してきた。
「○○ちゃん(仮の呼び名)、ここにお絵かきしてみる? お家や、お父さんお母さんの顔、描けるかな?」
心理判定テストだ。言葉を発しない子どもから情報を引き出すための、専門的な手法。
真一はクレヨンを見つめた。
大人の頭脳を持つ自分なら、上手な家や車の絵を描くことも、ひらがなでメッセージを書くこともできる。だが、そんなことをすれば「この年齢にしては知性が高すぎる」「教育を受けているはずなのに身元不明」と、余計に怪しまれて徹底的に調査される。
真一は拙い手つきでクレヨンを握り、丸や線をただ無造作に紙になすりつけた。幼い子どもの「拙さ」を正確に演じること。それが、この観察の目をやり過ごす唯一の術だった。
数日間にわたる身体測定や医師の診察が行われた。
「推定年齢:5歳から6歳」「顕著な外傷なし」「身体的な発達は概ね良好」。
指紋を採取され、警察のデータベースと照合されたが、当然ながら未就学児の指紋データなど存在しない。行方不明者の女児のデータベースとも照合されたが、該当する少女は全国のどこにもいなかった。
真一は、「どこからも探されていない、存在しない子ども」として確定していった。
二週間後、真一は児童養護施設へ移送された。
園長室に呼ばれる。古びた木製デスクの向こうで、白髪の園長先生が穏やかな顔で書類を開いていた。
「今日からここが君の家だよ。……名前もないままじゃ不便だからね。行政の手続きを通して、裁判所で君の仮の戸籍(就籍)を作る手続きを進めているんだ」
園長は一枚の用紙を真一に見せた。そこには、真一の新しい「氏名」が記載されていた。
「君が保護された港町の名前から取って……『海野あおい』ちゃん。これから君は、あおいちゃんだ。いいね?」
海野あおい。
それが、これからの自分の人生を縛り、そして守ってくれる新しい記号だった。
施設での生活が始まった。
集団生活のルール、決まった時間に食べる温かい食事、自分より小さな子どもたちとの遊び。
大人としての知識やトレーダーとしての記憶を隠しながら、真一は「あおい」としての日々をこなしていった。
ある日の夕方、施設の庭で一人、夕焼け空を見上げていた。
ポケットの中に手を入れる。かつて城戸真一として握りしめていたスマートフォンの感触も、取引画面の光も、もうどこにもない。
東京のあの部屋は、今頃どうなっているだろう。
部屋を開けた母親は、誰もいない室内と初期化されたPCを見て、息子の「蒸発」を悟ったはずだ。悲しむだろうが、少なくとも「性的倒錯の犯罪者」という最悪の濡れ衣を背負わずに済んだ。それは、真一が残せた唯一の防波堤だった。
「あおいちゃーん! ごはんの時間よー!」
遠くから、施設職員の女性が手を振りながら自分を呼ぶ声が聞こえた。
「……はーい」
真一は、幼い声で返事をした。
声に躊躇はなかった。
城戸真一という27歳の男は、あの雨の日に完全に消滅したのだ。
これから自分は、この小さな身体で、新しい名前とともに、もう一度「子ども」から人生をやり直していく。
赤く染まる夕闇の中を、小さな足音を響かせながら、真一——いや、あおいは温かい光が漏れる施設の中へと走っていった。




