~チョンの手記~
~チョンの手記~
チョンの小屋は、まだ残っていた。
ベチュにぃと作った小屋。
俺が殺された場所。
チョンが泣いた場所。
国王に殺された場所。
セスタは小屋の前で足を止めた。入るのが怖いのだろう。俺だって怖い。赤ん坊の体じゃなければ、膝が震えていたと思う。いや、赤ん坊なので普通に震えていた。
レギラが扉を開ける。
中は、驚くほど綺麗だった。
小さな机。木箱。古いノート。消えたロウソク。チョンの生活が、そこに残っていた。誰かが死んだ後の部屋というものは、なぜこんなにも残酷なのだろう。死んだ本人が戻ってきそうなまま、戻ってこないことだけが確定している。
「これですね」
レギラがノートを開いた。
チョンの字は、きっちりしていた。真面目で、冷たくて、でもところどころ迷いがある字だった。
そこには、調査記録が書かれていた。
ベチュ族の生活。デベチュギラスープの製法。エグロイドの感染経路。人間との共存時代。転生伝承。そして、チョン自身の仮説。
レギラが読み上げる。
「転生者は、一度ベチュ族に生まれ変わる可能性がある…… 」
誰も声を出さなかった。
「ベチュ族がかつて人間と共存していた理由は、単純な友好関係ではない。人間の死者の一部がベチュ族として生まれ変わっていたのだとすれば、人間とベチュ族は別種族でありながら、魂の循環によって結びついていたことになる」
辞典に書かれていた共存関係。
それは美談でも、偶然でもなかった。
人間は、ベチュ族として生まれ変わっていた。
いや、俺もそうだった。
俺はあの時、化け物だと思った。
でも、あれは誰かの次の人生だった。
俺は、自分の姿に耐えられずに叫んだ。死にたいとまでは思わなかったけれど、チョンに刺されなければ、そのうち自分を嫌いになっていたかもしれない。
レギラは続きを読んだ。
「エグロイドは、感染病ではない可能性がある。ベチュ族に転生した元人間が、自分の姿に耐えきれず、精神を破壊される現象。周囲への感染に見えるのは、デベチュギラスープの汗成分に含まれる毒素が、恐怖や自己嫌悪を増幅させるためである」
「…… は?」
ビギンが声を漏らした。
「じゃあ、病気じゃねぇってことか?」
「少なくとも、チョンはそう考えていたようです」
レギラはさらにページをめくる。
「デベチュギラの汗には、微量の精神作用がある。ベチュ族には旨味として処理されるが、転生直後の不安定な精神状態では、自己認識の崩壊を引き起こす可能性がある。伝統料理として定着している以上、廃止は困難。だが、もしこれがエグロイドの正体なら、ベチュ族は病原体ではなく、被害者である」
被害者。
その言葉が、重く落ちた。
チョンは、そこまで辿り着いていた。
あいつは、命令に従ってベチュ族を滅ぼすために来たのに、ベチュ族を救う答えに辿り着いていた。
でも、死んだ。
レギラの手が震えた。
彼女にしては珍しい。いや、もう珍しいとか言っている場合ではない。レギラだって人間だ。ポーカーフェイスが上手いだけで、人間だ。
「しかし、おかしいですね」
レギラは言った。
「エグロイドが昔からあったなら、共存時代など成立しない。ですが、辞典には共存時代があったと明記されています。つまり、エグロイドは比較的新しい現象です」
「デベチュギラスープは昔からあったんだろ?」
ビギンが言う。
「伝統料理と書かれていました。ならば、原因がスープだけなら昔から発症していなければおかしい」
「じゃあ、何が変わった?」
セスタが低い声で聞いた。
レギラは、ノートの最後のページを見た。
そこには、チョンの字でこう書かれていた。
――エグロイドという名は、王都側の記録で突然現れる。ベチュ族側の伝承には、対応する概念が薄
い。これは本当に病か。あるいは、病として扱いたかった誰かがいたのではないか。
誰か。
そんなの、一人しかいない。
美しい女性が好きで、ベチュ族を嫌い、人を物として扱い、死んでもなお自分だけがやり直そうとした男。
「国王…… 」
キャサ姫が呟いた。
その声には、怒りよりも疲れがあった。
「でも、待ってくれ」
セスタが眉を寄せる。
「あいつがベチュ族を嫌って、エグロイドをでっち上げたとしても、あいつ自身がベチュ族に転生した時点で発狂してないのはおかしくないか?自分の姿に耐えられないなら、真っ先に壊れるだろ」
それは俺も思った。
俺なんて自分の触手を見て絶叫した。あんなに手足はいらない。多ければ便利ってもんじゃない。机の上の物を取る時は便利そうだけど、それはそうとして怖い。
レギラは静かに答えた。
「国王は狡猾だったのでしょう」
「狡猾?」
「自分の姿に耐えたのではありません。利用したのです。自分がベチュ族になったことすら、次に転生するための踏み台にした。ベチュ族に認められれば転生できなくなることも知らずに、チョンを殺し、英雄として受け入れられた」
レギラはノートを閉じた。
「つまり、最初から病気の存在などなかったのですよ」
その言葉は、誰かを刺した。
セスタが膝をついた。
「じゃあ…… チョンは…… 」
チョンは、死ななくてよかった。
ベチュにぃも、死ななくてよかった。
ベチュ族も、殲滅されなくてよかった。
キャサ姫が国王を殺すことになったあの連鎖も、チョンを遠ざけたことも、セスタが疑われたことも、全部。
全部、誰かが作った嘘の上にあった。
あまりにも酷かった。
俺は、何も言えなかった。
言葉を知っていても、言えることがない時がある。赤ん坊だからじゃない。十九歳でも、王子でも、ベチュにぃでも、何も言えない。
セスタはチョンのノートを握りしめた。
「私、あいつに好きって言えばよかったなぁ……」
その一言だけで、小屋の空気が壊れた。
ビギンが顔を背ける。ジェスタは静かに泣く。レギラは目を閉じる。キャサ姫は俺を抱きしめる腕に力を込める。
後悔は、死者に届かない。
それがあまりにも当たり前で、あまりにも理不尽だった。
その時、暖かい風が吹いた。
キャサ姫の体から、淡い光が漏れていた。
「キャサ姫様…… ?」
レギラが警戒する。
だが、さっきのような黒い魔法陣ではなかった。赤でもない。淡い、柔らかい光だった。
キャサ姫のスキル『愛』。
それは暴走ではなかった。
キャサ姫は泣きながら、言った。
「ごめんなさい…… みんな、ごめんなさい…… 」
光が広がる。
セスタの肩に触れる。レギラの手に触れる。ビギンの鍋にまで触れる。いや鍋は関係ないだろと思ったが、ビギンも泣いていた。鍋ごと泣いているみたいで少し面白かったけれど、笑う場面ではなかった。
光はベチュ族たちにも広がっていった。
集落に残っていた怒りや恐怖が、ゆっくりとほどけていく。洗脳ではない。抑圧でもない。無理やり感情を消すものではない。
ただ、痛みを痛みのまま包む光だった。
それが愛なのだと思った。
人を救うなんて大げさなものじゃない。死んだ人が帰ってくるわけでもない。罪が消えるわけでもない。後悔が無くなるわけでもない。
ただ、それでも生きていいと、誰かに言われるような光だった。
俺はその光の中で、現世の母さんの顔を思い出した。
俺の人生十九年、まともに話してくれたのは母さんだけだった。俺が友達も作れず、努力もできず、読書に逃げて、惨めだと思いながら生きていても、母さんだけは俺を見てくれていた。
今も、探しているのだろうか。
俺は死んだと思われているのだろうか。
いや、死んでいない可能性もあるのか。
女神は、転生は変化だと言っていた。俺の現世の体はどうなっているのだろう。完全に死んだのか。まだ残っているのか。分からない。
帰れるなら、帰りたい。
そう思った。
でも、キャサ姫の腕が暖かかった。
ベチュの母さんの触手も暖かかった。
レギラも、セスタも、ビギンも、ジェスタも、もう俺にとっては物語の登場人物ではなかった。
死ぬということは、終わりかもしれないし、転生という始まりかもしれない。
ここに生まれてキャサ姫は喜ぶが、ベチュの母は哀しみに暮れている。
現世の母は、今も探しているかもしれない。
何が正解なのだろうか。
誰かを選ぶことは、誰かを捨てることなのだろうか。
俺は泣いた。
赤ん坊としてではなく、俺として泣いた。




