~ベチュの集落~
~ベチュの集落~
殺す。
赤ん坊の俺が聞くには、あまりにも物騒な単語だった。いや、赤ん坊じゃなくても物騒だ。通学中に電子書籍を読んでいただけの十九歳大学生が、転生先で「殺しましょう」なんて会議に参加している状況がそもそもおかしい。おかしいのだが、もはや俺の人生においておかしくないことの方が少ない気がする。
トラックに轢かれて美少女に出会う予定だったのに、スライム的なやつを飲んで死に、化け物になって母親に愛され、友達になりかけた少年に刺され、今度は王族の赤ん坊として殺人会議に参加している。
なろうだったらタイトル詐欺で炎上している。
「ジャン様、どうされますか」
レギラがそう聞いてくる。どうされますか、じゃない。俺はまだ首も完全には強くない赤ん坊である。
そんな俺に殺害計画の決裁を求めないでほしい。
だが、俺は紙に文字を書いた。
「いく」
それを見たキャサ姫は、抑圧されたばかりの顔で、それでもまた目に危ない光を宿した。
「ジャンは行かせません」
「いや、行く必要があるでしょう」
レギラはあっさりと言った。
「ジャン様はベチュ族としての記憶を持っておられます。ベチュ族の言葉も理解できます。つまり交渉役として最適です」
「交渉役?この子まだ赤ちゃんなのよ⁉」
「そうですね。私も言っていて頭がおかしくなりそうです」
レギラはいつもの真顔に戻っていたが、戻りきれてはいなかった。もうこの屋敷の誰も正気ではないのかもしれない。国王に人生を壊され、チョンを奪われ、なおその国王が別の姿で生きていると知ったのだから。
キャサ姫は俺を抱きしめた。
「ジャン、あなたを失いたくないの」
その声は、重かった。
母親の声だ。俺を所有物のように抱く危うさもあったけれど、それだけではない。俺を守りたいという、あまりにも当たり前で、当たり前すぎるほど怖い愛情だった。
俺は紙に書いた。
「おれも、ははを、なくしたくない」
キャサ姫は息を呑んだ。
その瞬間、俺は自分が何を書いたのか分からなくなった。
はは。
俺には母が何人いるんだろう。
現世の母さん。ベチュ族の母さん。キャサ姫。
どれか一つを本物にしないといけないのだろうか。どれかを選んで、どれかを偽物にしないといけないのだろうか。分からない。そんなの、十九歳まで友達もいなかった俺に分かるわけがない。
ただ、分かることもある。
誰かが悲しむのは、嫌だった。
「……行きましょう」
セスタは短剣を腰に差して言った。その声は落ち着いていたが、目だけが落ち着いていなかった。
「チョンを殺した奴がまだ生きてるなら、私が殺す。これは任務じゃない。私怨だ」
「ええ。私怨で構いません」
レギラは言った。
「人は、大義名分より私怨で動くときの方がよほど正直です」
「お前、時々怖いこと言うよな」
「時々ではありません。常にです」
そうして、俺たちはベチュの集落へ向かった。
馬車の中は、やたら静かだった。
キャサ姫は俺を抱き、レギラは本を読み、セスタは剣の柄を握り、ビギンは持ってきた鍋の中身を何度も確認していた。ジェスタはずっと「坊ちゃまが初めての遠征…… 坊ちゃまが初めての討伐…… 」と泣いていた。いや討伐って言うな。赤ん坊の遠足みたいに言うな。
「本当にこのスープで分かるのか?」
セスタがビギンに尋ねた。
「分かるだろ。ベチュ族はこれを飯として食うんだ。人間の感覚なら気持ち悪いが、あいつらにとっては家庭の味だ。逆にこれを拒む奴は、ベチュ族の体になっても中身が別もんってことになる」
「でもジャン様は美味しいと思っておられましたよ」
「俺は特殊例だからカウントしないでくれ」
と言いたかったが、赤ん坊なので「あう」としか言えなかった。
「ジャン様も美味しいとおっしゃっております」
「言ってねぇよ」
ビギンは笑った。
「でもよ、もし国王がベチュ族に馴染んでたら?普通に食うかもしれないだろ」
「その時は、別の方法で見つけます」
レギラは本から目を離さずに言った。
「国王は美しい女性が好きでした。自分の欲望を満たすために人を選び、男を排除し、屋敷を支配してい
た。そんな人間がベチュ族として生活して、完全に馴染めるとは思えません」
「じゃあ、何を見る?」
「視線です」
レギラは本を閉じた。
「人間は、自分の嫌いなものを見下すとき、必ず見下す前の顔をします」
なんだその理論。いやでも、分かる気がした。
俺も最初、ベチュ族の母を見たとき、化け物だと思った。優しくされても怖かった。自分の体を見て叫んだ。あの時の俺は、ベチュ族を見下すというより、異物として見ていた。
でも、国王は違う。
あいつはきっと、もっと冷たく見る。
利用できるかどうかで、見る。
馬車は森の奥へ進み、やがて俺の記憶にある風景へ近づいていった。
あの家。あの窓。あの小屋。
石が飛んできた窓は、もう直されていた。壊したのチョンだけどな。なんで毎回石を投げてくるんだよと当時は思ったけれど、今はそれすら懐かしい。懐かしいなんて思うほど長くいたわけじゃないのに、胸が痛くなる。
集落の入り口で、ベチュ族たちがこちらに気づいた。
「キュルキュル…… ?」
警戒の声が広がった。半透明の体。十二本の触手。メジェドみたいな目。初見なら泣く。俺は泣いた。いや叫んだ。
セスタは剣に手をかけたが、レギラがそれを止めた。
「まずはジャン様に」
いや待て。俺に?本気で?赤ん坊に外交を?
キャサ姫が俺を抱き直す。俺は口を開いた。
「キュル、キュルキュル。キュル」
自分でも驚いた。
喋れた。
いや、赤ん坊の喉から出ているから、正確には変な鳴き声にしか聞こえないのかもしれない。でも、ベチュ族たちは一斉にこちらを見た。
伝わっている。
「キュルキュル…… キュル?」
奥から、一人のベチュ族が出てきた。
俺はその姿を見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。
あの母さんだった。
ベチュ族の時の、母さん。
半透明で、触手が多くて、表情なんて読めないはずなのに、俺には分かった。あの時、紫色のスープを持ってきてくれた母さんだ。俺が記憶を失ったと言ったらショックを受けて、それでも寝かせてくれた母さんだ。
母さんは俺を見て、キャサ姫を見て、また俺を見た。
「キュル…… ?」
ベチュ?
そう呼ばれた気がした。
胸の奥が、変な音を立てた。
俺は違う。もうベチュにぃじゃない。今はジャンだ。王族の赤ん坊で、キャサ姫の息子で、現世では電車に轢かれた十九歳の大学生で。
でも、あんたの息子でもあった。
「キュルキュル、キュル。キュルキュルキュル」
俺は必死に話した。
ベチュにぃは、もういない。
でも、ベチュにぃは、別の命として生きている。
俺は、今、国王の子として生まれている。
母さんは、動かなかった。
半透明の体が、少し震えたように見えた。表情は読めない。だけど、表情なんて必要ないこともある。
触手が、そっと俺に伸びた。
キャサ姫が一瞬俺を抱く腕に力を入れたが、俺は「あう」と小さく声を出した。大丈夫だと伝えたかった。伝わったかは分からない。たぶん伝わってない。でもキャサ姫は、腕の力を弱めてくれた。
ベチュの母さんの触手が、俺の頬に触れた。
冷たかった。
でも、暖かかった。
なんだよそれ。冷たいのに暖かいって、文章として破綻している。でもそうとしか言えない。現世の母さんの手とも、キャサ姫の腕とも違う。あの紫色のスープみたいな、見た目は最悪なのに、飲むと優しい味がするような暖かさだった。
「キュル…… キュルキュル…… 」
ベチュの母さんは、俺を抱きしめるように触手を回した。
キャサ姫が、それを見て泣いていた。
なぜ泣く。敵対していた種族だろ。いや、違うか。母親が母親を見ているだけなんだ。
その時だった。
「キュルギャアアアアアアアア!」
集落の奥から、怒号のような声が響いた。
ベチュ族たちが一斉に道を開ける。
出てきたのは、他のベチュ族より少し大きい個体だった。半透明の体の中に、濁った紫色が混ざっている。目の位置が少し高く、触手の動きが妙に優雅だった。
その優雅さが、気持ち悪かった。
モンスターの体で、人間の偉そうな仕草をしている。
レギラが俺の横で小さく言った。
「見つけました」
あいつだ。
俺にも分かった。
亡き国王。
死んでもなお、死にきれていない男。
ビギンが鍋を前に出した。
「よぉ、ベチュ族の皆さん。王都から土産だ。デベチュギラスープだぜ」
紫色のスープの匂いが広がった。ベチュ族たちはざわめく。懐かしい料理なのだろう。何人かが喜ぶように触手を揺らした。
国王だったものだけが、わずかに退いた。
そのほんの一歩で十分だった。
「食べないのか?」
ビギンが笑う。
「ベチュ族の伝統料理なんだろ?」
「キュル…… キュルキュル」
国王は何かを言った。
俺には分かった。
毒かもしれない。
そう言った。
いやいやいやいや。
どの口が言うんだ。いや口ないけど。毒で死んだやつが、毒を疑うな。いや疑うか。疑うなよ。どっちだよ。
セスタが一歩前に出た。
「お前が、チョンを殺したのか」
国王はセスタを見た。
その目が、嫌だった。
見覚えのある目ではない。俺は国王と会ったことがない。でも、その目の種類は知っている。人を、人として見ていない目だ。チョンも、セスタも、レギラも、キャサ姫も、全部自分の周りに置かれる物としか思っていない目だ。
国王が、笑った気がした。
「キュルキュル、キュル。キュルギュル」
セスタには分からない。けれど、俺には分かった。
あの少年は、邪魔だった。
ただそれだけの意味だった。
セスタの顔から、表情が消えた。
「そうか」
短い声だった。
その瞬間、国王の周囲にいたベチュ族たちが動き出した。彼らは国王を守ろうとしていた。国王はこの集落の中で、認められた存在だった。チョンを殺した誰かを、ベチュにぃの仇を討った者として、受け入れていた。
それがあいつの転生を止める鎖だった。
だが同時に、集落にとっては恩人だった。
理不尽だ。
正しいことと間違っていることが、同じ場所に立っている。
「どけ」
セスタが言った。
ベチュ族には伝わらない。
俺は叫んだ。
「キュル!キュルキュル!」
どいてくれ。
そいつは違う。そいつは、あんたたちを救ったんじゃない。
そいつは利用したんだ。
けれど、ベチュ族たちは怒っていた。無理もない。人間が急にやってきて、自分たちの仲間を殺そうとしているのだ。しかも、その仲間は、ベチュにぃを殺したチョンを殺してくれた存在だ。彼らからすれば仇討ちの英雄なのかもしれない。
でも。
チョンは悪人だったのか。
ベチュにぃを殺したチョンは、ただの悪人だったのか。
俺は知っている。
チョンは泣いていた。俺を殺す前も、殺した後も、たぶん泣いていた。洗脳なんてろくでもないスキルを持って、命令されて、でも愛されてしまって、愛してしまって、壊れてしまった少年だった。
それを邪魔だから殺したこいつを、英雄にしてはいけない。
「セスタ」
レギラが言った。
「やりなさい」
セスタは走った。
ベチュ族たちが触手を伸ばす。セスタの足に絡みつこうとする。だが、セスタは短剣を抜いた。抑圧ではない。今度は殺すための剣だった。
赤い髪が揺れた。
国王が逃げた。
逃げるのかよ。王なら堂々としてろよ。いや、そもそも王なんてそんなものなのかもしれない。都合が悪くなったら、権力も体も捨てて逃げる。死んでも逃げる。転生しても逃げる。
セスタの剣が、国王の背中を裂いた。
国王は叫んだ。
ベチュ族たちが怒号をあげる。キャサ姫の腕が震える。レギラが目を伏せる。ビギンが鍋を持つ手に力を込める。
セスタはもう一度剣を振り上げた。
「これは、チョンの分だ」
剣が落ちた。
国王だったものは、動かなくなった。
あっけなかった。
もっと壮大な戦闘があると思っていた。なんかラスボス戦みたいに、巨大化したり、魔法陣が出たり、転生スキルの応用で分身したり、そういうのがあると思っていた。いや、望んではいない。望んではいないが、あまりにもあっけなかった。
人が死ぬ時は、だいたいあっけない。
俺もそうだった。
ホームから落とされて、一瞬だった。
チョンもきっとそうだった。
セスタは剣を下ろしたまま、動かなかった。
「終わったよ、チョン」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
だが、集落は終わっていなかった。
ベチュ族たちが怒りに震えていた。触手を振り上げ、人間たちに襲いかかろうとしている。そりゃそうだ。目の前で仲間を殺されたのだ。認めた存在を殺されたのだ。俺たちが正しいなんて、彼らには分かるはずがない。
キャサ姫の呼吸が乱れた。
「やめて…… やめて…… もう誰も、傷つけないで…… 」
まずい。
俺は分かった。
愛が、また暴走する。
いや、違う。
今度は、愛じゃない。
キャサ姫の足元に、黒いような赤いような魔法陣が広がり始めた。森の風が止まる。ベチュ族たちの動きが鈍る。空気が重くなる。
「キャサ姫様!」
レギラが叫んだ。
「これは…… 愛じゃない…… 」
キャサ姫は俺を抱きしめながら、震えていた。
「この子を傷つけるなら、全部…… 全部…… 」
全部、何だ。
全部守るのか。
全部壊すのか。
キャサ姫のスキル『愛』が、反転しかけていた。
愛は、守る力だ。
でも、守るもの以外を敵だと思った瞬間、それは憎悪になる。
分かる。
分かってしまう。
俺だって、現世で友達がいなかった。誰にも認められなかった。だから転生ものに逃げた。そこで主人公が自分を馬鹿にした奴らを見返す展開に、気持ちよくなっていた。あれは愛じゃない。たぶん憎悪だ。自分を守るために、自分以外を嫌う快楽だ。
キャサ姫は、俺を愛している。
だから俺以外を壊そうとしている。
俺は、紙もペンも持っていなかった。
言葉もまだ上手く出ない。
だから、泣いた。
赤ん坊らしく、全力で泣いた。
「おぎゃああああああああああああああああ!」
世界の危機を止める手段が赤ん坊の泣き声ってどうなんだ。いや、でも仕方ないだろ。俺は赤ん坊なんだ。ステータスオープンもできないし、魔法も出せないし、剣も握れない。俺にできる無双なんて、泣くことぐらいだ。
キャサ姫の目が、俺を見た。
「ジャン…… ?」
俺は泣きながら、手を伸ばした。
キャサ姫の頬に触れる。
小さな手だ。こんな手で何ができるのだろう。でも、触れたかった。
やめて。
そう言いたかった。
俺のために、誰かを憎まないで。
俺のために、母さんが母さんじゃなくならないで。
「…… あう」
たぶん伝わらない。
でも、キャサ姫は崩れ落ちた。
魔法陣が消える。
キャサ姫は俺を抱きしめて、泣き始めた。
「ごめんね…… ごめんねジャン…… 私、また間違えるところだった…… 」
ベチュ族たちは、まだ怒っていた。
でも、その中で一人、ベチュの母さんが前に出た。俺の頬に触れた時と同じ触手で、国王だったものの
亡骸に触れた。
「キュル…… キュルキュル」
その声は静かだった。
他のベチュ族たちがざわめく。
母さんは、俺を見た。
「キュルキュル、キュル」
ベチュは、生きている。
そう言った。
そして、国王だったものを見る。
「キュル。キュルキュルキュル」
これは、ベチュではない。
集落の怒りが、少しずつ形を失っていった。
俺は、また泣きそうになった。もう泣いているけれど。赤ん坊って便利だな。泣き放題だ。涙腺の無双である。いや、嫌な無双だな。




