8話 最後の繋がり
太陽が帰宅した、ちょうどその頃――。
――――県民健康広場健康促進センター、屋外運動場。
「はぁ……はぁ……っ、ぶはっ……はぁ……」
虫の群がる外灯の下で、渡口光は膝に手をつき、荒い息を吐いていた。
顔も身体も汗で濡れている。
喉の奥から込み上げる吐き気をこらえながら、光は自嘲気味に笑った。
「ほんと……情けないね。三ヶ月以上リハビリしてるのに、十キロもいかないで限界なんて……」
震える太ももを軽く摩りながら、光は近くの芝生に腰を下ろした。
足を伸ばし、両手を後ろについて空を仰ぐ。
月には雲がかかっていた。
「私、情けないな……。何も考えたくないからって、周りからの言葉に耳を傾けないで、自分に鞭打って……その結果がこの様じゃ、もう笑うしかないよ」
言葉とは裏腹に笑えてはいない。
「正しく自業自得……いや、因果応報かな」
膝と太ももに、ずきりと痛みが走った。
「……ッ!」
光の顔が強張る。
その痛みは、秋を迎える少し前、医者に告げられた言葉を嫌でも思い出させた。
『……君の高校での陸上は、諦めた方がいい』
それは、光にとって余命宣告にも等しい一言だった。
『お願いです! どんな苦しい治療にも耐えます。お金だって、将来必ず返します。だから、私の足を治してください!』
医者に詰め寄り、必死に懇願した。
けれど、医者は首を縦には振らなかった。
『高校の間は、リハビリと治療に専念した方がいい。無理をすれば、君は一生まともに歩けない身体になるかもしれない』
『そんなの……』
『君が受け入れがたいのは分かる。だが、医者としてはっきり言う。高校での競技復帰は諦めなさい』
光は、その場で頭が真っ白になった。
怪我のことは、自分でも分かっていた。
手術は成功した。リハビリも続けている。一歩ずつ、回復には向かっている。
だが、競技に戻るとなれば話は別だった。
膝周辺の靭帯損傷。
限界を超えて走り込み、痛みを抱えながらも無理を続けた結果だった。
高校生活の三年間で、全国を狙える身体に戻すのは難しい。
無理をすれば、選手生命どころか日常生活すら危うくなる。
医者の言葉は、正しい。自分の体だからそれは理解できた。
正しかったからこそ、光には耐えられなかった。
『お願いします、先生……。高校じゃないと駄目なんです。高校で陸上ができないと、意味がないんです……』
光は消え入りそうな声で、拳を握る。
『将来のことは、どうでもいいです。せめて高校で走れるくらいに……』
『それは、君の我儘だ。周りは誰もそれを望んでいない』
医者の声が、少しだけ厳しくなった。
『君が何を思って走っているのかは、私には分からない。だが、自分の身体を管理できず、酷使して壊したのは君自身だ。その事実から目を逸らしてはいけない』
重く、鋭い言葉だった。
『君の怪我は、ハッキリ言って自業自得だ。だからこそ、これ以上自分を壊す前に止まりなさい。これは医者としての忠告だ』
医者の一言は、重く、鋭く、冷たく、正しすぎた。
その言葉で、ようやく光は現実を受け入れた。
―――少なくとも、表面上は。
それから半年、光は医者に言われたリハビリメニューをこなしてきた。
普通に歩くことはできるようになった。
軽く走ることもできる。
だが、選手として戻るには、まだ遠い。
高校生の間は治療に専念し、大学や社会人になってから競技復帰を目指す。
それが医者の見解だった。
けれど。
光は、それをどうしても良しとは思えなかった。
「……十分休んだし、そろそろ再開しようかな」
五分ほど空を見上げ、物思いに耽っていた光は、腰を上げようとした。
だが、足が動かなかった。
震えた太ももが、凍えたように言うことを聞かない。
光は歯を食いしばる。
「……ほんと、世の中って上手くいかないね」
立ち上がることを諦め、光は膝を抱えた。
「こんなんだと、自分が選んだ道が、本当に正しかったのか分からなくなるよ……」
膝に顔を埋める。
頬を伝った雫が、汗なのか涙なのか、光自身にも分からなかった。
その時、芝生を踏む足音が近づいてきた。
光はそっと顔を上げ、横目でそちらを見る。
そこにいたのは、レジ袋を手にした高見沢千絵だった。
「千絵ちゃんか……。どうしたの、こんな夜遅くに。買い物かなにか?」
光は特に驚いた様子も見せず、飄々と尋ねる。
だが千絵は、じとっとした目で光を見下ろした。
「白々しいよ、光ちゃん」
「え?」
「どーせ光ちゃんのことだから、また無理して走ってるんじゃないかって思ってね」
千絵は光の前まで来ると、手にしていたレジ袋を差し出した。
「はい、これ。スポーツドリンクとタオル」
「……ありがとう」
光は袋を受け取り、中を確認する。
五百ミリリットルのスポーツドリンク。
それから、白いタオル。
タオルは新品らしく、薄いビニール袋に包まれていた。
「もしかして、このタオルも買ったの?」
「そうだよ。そこのコンビニで一緒にね」
「そ、そうなんだ……」
光は苦笑する。
「なら、その分も今度渡すよ。今、財布は更衣室のロッカーにあるから」
「いいよ、別に」
千絵はあっさり首を横に振った。
「それより、汗かいたままだと風邪引くから。ちゃんと拭いてね。あと、水分補給も忘れずに」
「……なんだか千絵ちゃん、マネージャーみたいだね」
光はタオルを袋から取り出し、汗を拭った。
その間に、千絵はふふんと少し誇らしげに胸を張る。
「これでも一応、医者志望だからね。他人の体調悪化を防ぐのも今後の糧になるし、そもそも目の前で体調を崩しそうな人を放っておけるわけがないよ」
そこで千絵は、少しだけ柔らかく笑った。
「それが親友なら、なおさらね」
「…………そうだね、ありがと」
親友。
その言葉が、光の胸に重く落ちた。
光は蓋を開け、スポーツドリンクを飲む。
相当喉が渇いていたのか、ごくごくと強く喉を鳴らしてしまった。
千絵は保護者のような目でそれを見ていたが、やがて表情を改める。
「……ねえ、光ちゃん」
「ん?」
「確かに光ちゃんは陸上の才能があって、中学の頃は大会で優勝したことだってある。光ちゃんがどれだけ頑張ってきたかも、私は知ってるよ」
急に真面目な話になり、光は怪訝そうに眉を寄せた。
千絵の瞳に、儚げな影が差す。
「前に訊いたよね。どうして、そこまで無理をしてまで、陸上にこだわるのかって」
「……うん」
「その時、光ちゃんは言ったよね。『せっかく才能を持って生まれたんだから、その才能を遺憾なく使いたい。だから陸上を諦めたくないんだ』って」
「言ったね」
光は頷く。
「最初は、才能がある人の高慢なのかなって思った」
「……そんなこと思ってたんだ、酷いね」
「ごめん。でも、今は少し違うと思ってる」
千絵は、真っ直ぐ光を見る。
「本当に、それだけが理由なの?」
「……なにが言いたいの?」
光は眉を顰める。
「怪我をしたとはいえ、私に陸上の才能があったのは事実だよ。だから早く怪我を治して、高校で陸上をしたい。そこに嘘はない」
「分かってる。光ちゃんが嘘を言ってないのは分かってるよ」
親友なら分かる。
光は嘘は言ってないことを。
そして、それが全てではないことも。
千絵は言葉を選ぶように、一度唇を結んだ。
「でも、それだけじゃない気がするの。だって光ちゃんが陸上を始めた理由って――」
「それ以上言わないで!」
光の怒声が、夜の運動場に響いた。
千絵の身体がびくりと強張る。
光は、自分でも驚くほど感情を荒立てていた。
「それ以上言ったら、千絵ちゃんでも許さないよ」
千絵は硬直していたが、すぐに我に返り、頭を下げた。
「ご、ごめん……。口が過ぎた」
光がここまで感情を露わにするのは珍しい。
千絵がすぐに謝ると、光もはっと目を見開いた。
「こ、こっちこそごめん。いきなり叫んで……」
互いに謝った後、気まずい沈黙が落ちた。
数秒後、千絵が重たい口を開く。
「今のは、私のお節介が過ぎた。本当にごめん」
「……うん」
「今日、ある人にも言われたのにね。懲りないな、私って」
千絵は苦笑し、それから光の正面へ移動した。
芝生の上にしゃがみ、光と目線の高さを合わせる。
「でも、これだけは言わせて」
千絵の声は、いつもよりずっと静かだった。
「光ちゃんが、本当に陸上を楽しんで走っているなら、私は全力で応援するよ」
「……」
「良い成績を残したくて頑張ってるなら、応援する。悔しいからもう一度走りたいって思ってるなら、それも応援する」
けれど、と千絵は続ける。
「今の光ちゃんは、走ってるんじゃなくて、自分を傷つけてるように見える」
光は何も言えなかった。
「親友だから。そんな姿を、私は応援できない……したくないよ」
柔らかく、けれど真っ直ぐな言葉だった。
光は思わず涙ぐみそうになる。
千絵は昔から、光を親友だと言ってくれた。
光にとって、千絵は最高の宝物のような存在だった。
だからこそ、胸が締めつけられる。
自分は、こんな良き親友の気持ちを踏みにじった。
いや、こんな良き親友だったからこそ。
あの日、光は自分が許せなくなったのだ。
千絵は言いたいことを言い終えると、立ち上がった。
「それじゃあ、私は帰るね」
「え、もう?」
「うん。あんまり長居すると、光ちゃんが休めないでしょ」
千絵は小さく笑う。
「忘れてないとは思うけど、明日の放課後は軽音部のリハがあるから。陸上もいいけど、そっちもしっかり練習しといてね?」
「分かってるよ」
光も微笑み返す。
「せっかく千絵ちゃんが誘ってくれたんだし、バンドの方も絶対手抜きはしないから安心して。コード移動とカッティングはちゃんと練習してる」
光は怪我で陸上ができなくなり、落ち込んでいたところを千絵に誘われ、軽音部に入った。
陸上を失い、持て余した時間で新しいことに挑戦する。
そう思って入部した。
それでも、陸上への未練は消えなかった。
だから裏でこうして走っている。
ただ、バンドの練習を怠るつもりもなかった。
帰宅後は、家族や近所に迷惑がかからないように気をつけながら、ひっそりとギターを練習している。
同時期にギターを始めた千絵より、上達は早かった。
「光ちゃんは天才肌だからね。そこは心配してないよ」
「そんなことないよ」
「あるある。じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
光は小さく手を振った。
千絵は背を向け、運動場を後にする。
その背中が見えなくなるまで、光は手を振り続けた。
やがて千絵の姿が完全に消えると、光はゆっくり立ち上がった。
「……もう五キロだけ走ったら、帰ろうかな」
再び、舗装されたコースを走り出す。
はっ、はっ、と一定のリズムで息を吐きながら、夜の運動場を駆ける。
足は重く、膝は痛い。
それでも、光は走るのを止めない。
走りながら、千絵の言葉が、頭の中で反響していた。
『光ちゃんが陸上を始めた理由って――』
「……私が陸上を始めた理由、か」
光は小学四年生の頃を思い出す。
夕暮れの公園。
追いかけっこ。
息を切らして地面にへたり込む男の子。
『ぶはぁ~! やっぱりヒカリは速いな!? 全然追いつける気がしねぇ……』
『へへん! それはタイヨウが遅いからじゃないの? 私はまだ全然本気出してないもんね』
『うわっ、うぜぇええ! ……けど、やっぱりヒカリは速ぇよ。俺もそこそこ速いはずなんだけどな……』
男の子は悔しそうに笑い、それから眩しそうに光を見た。
『なあ、ヒカリ。お前、マラソン選手とかにならねえの?』
『マラソン選手? 走って競う人たちのこと? 無理無理。私にあれは無理だよ。勝てっこない』
『いやいや。ヒカリは才能あるから、絶対いい線行くって』
『……本当に?』
『ああ。俺が保証する』
男の子は、真っ直ぐに言った。
『絶対応援する。ほかの奴らが馬鹿にしても、俺はお前を応援するぜ!』
その言葉が、光にとっての始まりだった。
男の子――古坂太陽。
親友で、幼馴染で、そして元恋人。
太陽の後押しで、光は陸上を始めた。
小学四年生の頃、地元のクラブに入った。
太陽の言葉通り、光には才能があったらしい。
始めてから半月も経たないうちにレギュラーを取り、大会にも出場した。
そして太陽は、約束通り応援に来てくれた。
大会の日には、いつも。
一度も欠かさずに。
けれど、中学の卒業式の日。
光は、その絆を自分の手で壊した。
『……太陽、別れよ。……私たち』
『……他に好きな人ができたんだ。その人に振り向いてほしい。だから、ごめんだけど、別れて』
思い出すだけで、吐き気がする。
自分で言った言葉なのに、虫唾が走る。
何度思い返しても、過去の自分を殴りたくなる。
けれど、時間は戻らない。
割れた皿が元に戻らないように、壊した関係も元には戻らない。
あの日の記憶は、さらに続く。
太陽が走り去った後。
一向に戻ってこない二人を心配して、千絵が体育館裏へやって来た。
『どうしたの、光ちゃん!? な、なんか太陽君が全速力で走って行ったけど!?』
『……太陽に別れを言ったの。私に好きな人が出来たからって』
『好きな人……!? 嘘でしょ!? 光ちゃんは太陽君のことが大好きだったじゃん! なんでそんなことを!』
『いや~。よくよく考えたら、私の太陽を好きって気持ちは、家族としてっていうか……ほら、太陽とは小さい頃から一緒だったから安心する仲っていうか。それを男性として好きだって勘違いしてたみたい』
よくも、そんな嘘を口にできたものだと思う。
最低だ。
過去の自分は、本当に最低だ。
『だから、他の人がいいなって思ってね』
『嘘……嘘だよ。光ちゃんは、一人の男の子として太陽君のことが好きで……!』
千絵の顔が、苦しげに歪んだ。
『誰なの……。その、光ちゃんの好きな人って?』
『言わないよ。言えるわけがないよ』
『どうして!?』
『もし言えば、千絵ちゃんはその人に文句を言いに行く。その人には迷惑をかけたくないから』
『どうして……なんで……』
千絵は、今にも泣き出しそうだった。
そんな千絵の肩に、光は手を置いた。
『だから千絵ちゃん。私に構わず、自分の気持ちに正直になって』
『え……?』
『こんな最低な女は、太陽には相応しくないから』
光は知っていた。
千絵の気持ちを。
千絵が、どんな想いで自分たちの背中を押してくれたのかを。
あの日、偶然見てしまった一冊のノート。
千絵の部屋で、机の上に置かれていたそれ。
たまたま開かれていたページを見て、光は愕然した。
そこには、太陽の名前と、誰にも言えなかった恋心が綴られていた。
事実を知った時から、光は、耐えられなかった。
千絵は、自分の恋を押し殺してまで、二人を応援してくれていた。
その優しさの上に、自分だけが何も知らずに幸せでいる。
それが、どうしようもなく醜いことに思えた。
だから別れた。
太陽のためでも、千絵のためでもない。自分を守るために。
結局、光は逃げただけだったのかもしれない。
太陽と向き合うことから。
千絵に本当のことを打ち明けることから。
自分が誰かを傷つけてでも幸せになりたいという醜さを認めることから。
逃げるために、最悪の嘘を選んだ。
「他に好きな人が出来た? ……なに言ってるのかな、私は」
乾いた笑いが漏れる。
「好きな人なんて、今も昔も……同じ人なのに」
光は分かっている。
もう自分は、太陽の前に現れない方がいい。
自分が近づけば近づくほど、彼の傷を抉るだけだ。
今朝の出来事が、その証拠だった。
それでも。
「ごめん、太陽……」
走りながら、光は胸の奥で呟く。
「高校まででいい。せめて高校の間だけでいいから……嫌いな相手としてでもいいから、私を見ていて」
高校を卒業したら、もう彼の前には現れない。
だから、それまでは、と光は足を前へ出す。
陸上じゃなくてもいいのかもしれない。
目立つだけなら、バンドでも、勉強でも、他の何かでもいいのかもしれない。
それでも、光にとっては陸上でなければ駄目だった。
太陽が見つけてくれた才能だった。
太陽が応援すると言ってくれた夢だった。
だから、やめられない。
たとえ彼がもう、自分のことを見ていなくても。
たとえ嫌われることでしか、彼の中に残れないとしても。
光にとって陸上は、太陽と繋がっていられる最後のものだった。




