第4話 傷を隠す道化師
太陽の家から高校までは、歩いて通うには少し遠い。
そのため、太陽はいつものように通学バスに揺られていた。
「……まあ、同じ学校なんだから当たり前か」
窓に薄く映る自分の顔――ではなく、その斜め後ろに座る光の姿が見えた。
太陽と光は同じ高校に通っている。
同じ地域に住んでいる以上、時間が合えば同じバスになるのも当然だった。
昔は、二人で並んで座ることもあった。
他愛のない話をしながら、二人だけの時間を過ごしていた。
けれど今は、離れた席に座っている。
「……今更、どうでもいいけどな」
太陽は窓の外へ視線を逃がした。
まだ早い時間帯ではあるが、バスの中には生徒の姿がそれなりにあった。
部活の朝練に向かう者。
早めに登校して自習でもするつもりなのか、参考書を開いている者。
その中には、先ほどの言い争いを見ていた生徒もいたのだろう。
こちらを見て、ひそひそと何かを囁いている。
だが、太陽は気にしない。
気にしたところで、もうどうにもならない。
「……ねむ」
バスの揺れに合わせて、意識がゆっくりと沈んでいく。
数分だけ船を漕いでいたところで、車体が減速した。
『えー、鹿原。鹿原高校前に到着しました。お忘れ物のないよう、お降りください』
車内放送で目を開ける。
いつの間にか目的地に着いていた。
停留所から乗ってきた生徒も増えていたらしく、制服姿の生徒たちがぞろぞろと降車口へ向かっていく。
太陽もその流れに乗って席を立ち、ICカードをスキャンしてバスを降りた。
振り返らないようにしながら、横目だけで後方を確認する。
光も、降りてきていた。
同じ高校なのだから当たり前だ。
当たり前のことなのに、太陽は小さく息を吐いた。
顔を合わせたくない相手と同じ学校に通っている。
その事実を、朝から突きつけられた気分だった。
鹿原高校は、この地域では数少ない進学校だった。
大学進学を考えていた太陽にとっては、ほとんど唯一の選択肢でもある。
もっとも、太陽の成績は決して良くなかった。
中学の頃は友達と遊んでばかりで、受験期になってからそのツケが一気に回ってきた。
偏差値は届かず、合格できるかどうかも怪しい学力。
そこから必死に勉強して、どうにか滑り込んだ。
そして、その勉強を見てくれたのが、他でもない光だった。
「……」
太陽は奥歯を噛む。
あの頃は、ただ同じ高校に行きたかった。
光と同じ制服を着て、同じ校舎に通って、これからも隣にいられると思っていた。
まさか、それを後悔する日が来るなんて思っていなかった。
「……何考えてんだ、俺」
少し気を抜くと、すぐ光のことを考えてしまう。
忘れようとしているのに。
忘れなければいけないのに。
今朝、偶然顔を合わせたせいだ。
少しだけ言葉を交わしてしまったせいだ。
太陽は沈みかけた気分を振り払うように、乱暴に息を吐いた。
「よう、太陽! 元気してるか!」
その瞬間、背中に衝撃が走った。
「ぐっ……!」
バン、と豪快な音を立てて叩かれ、太陽は前のめりになる。
すぐに振り返り、原因の男を睨んだ。
「痛ぇな、信也……。いきなり人の背中叩くんじゃねえよ」
太陽の背中を叩いたのは、新田信也だった。
中学の頃からの付き合いで、今も同じ高校に通う親友である。
太陽の抗議にも、信也は悪びれた様子もなくへらへら笑い。
「いいじゃねえかよ。俺とお前の仲だろ?」
「その理屈で人の背中を強打するな」
「まあまあ。それより、どうだった?」
「どうだったって……動画のことか?」
太陽が聞き返すと、信也は「正解」と頷いた。
太陽は小さく息を吐く。
「どうしたもこうしたも、お粗末な演奏だったよ。初心者なら、もう少し上達してから上げた方がいいんじゃねえか?」
「いや、面白かったとかつまんなかったとかならともかく、動画を上げるタイミングの話を俺にされても知らねえよ」
信也は肩を竦める。
「言うなら、後ろのご本人に言った方がいいんじゃねえか?」
くい、と信也が顎で後方を示す。
そこには、太陽が辛辣に評価した動画に映っていた一人、光がいた。
光は、こちらを見ていた。
だが太陽と目が合った瞬間、すぐに顔を逸らす。
太陽は露骨に眉を寄せ、小さく舌打ちした。
「なんで俺があいつに言わなきゃいけねえんだよ。渡口には、お前から言っとけ」
その言葉に、信也の表情が渋くなる。
昔は当たり前のように「光」と呼んでいた。
それが今では、名字呼びに変わっている。
その変化が、信也には引っかかったのだろう。
「お前……まだ渡口と仲違いしてんのか」
「まだ?」
太陽の声が少し低くなる。
信也はしまった、という顔をしたが、それでも言葉を続けた。
「いや、もう一年以上経つだろ。そろそろ仲直りした方がいいんじゃねえか? このままだと完全に疎遠になるぞ」
信也なりの心配なのは分かっていた。
太陽と光がどんな関係だったのか、信也は近くで見てきた。
だから、今の二人を見ていられないのだろう。
「……年数なんて関係ねえよ」
信也の気持ちを分かっていても、触れられたくない場所であった。
太陽は前を向いたまま言う。
「俺と光は、もう取り返しのつかないところまで来てる。このまま疎遠になったところで、知ったことか」
「太陽……」
「それに、信也」
太陽は横目で信也を見る。
「お前のお節介は嫌いじゃない。友達として心配してくれてるのも分かってる。そこはありがたいと思ってるよ」
太陽は目を細めて忠告する。
「でもな、恋愛でのお節介は、相手を助けるどころか余計に傷つけることもある。だから、あんまり関わらないでくれると助かるよ」
淡々とした声だった。
けれど、その奥には触れれば裂けるような痛みがある。
信也は少し黙り、それから申し訳なさそうに頭を掻いた。
「……悪かった」
「別に。お前が謝ることじゃねえよ」
そう言ったものの、空気は重くなった。
二人はしばらく黙ったまま、校舎へ続く道を歩く。
その沈黙を破ったのは、横から近づいてくる慌ただしい足音だった。
「おーい! 太陽っち、おはよう!」
朝からやけに元気な声が響く。
半袖半ズボンの陸上着姿。
茶髪の短髪を揺らしながら駆け寄ってきたのは、太陽のクラスメイトで陸上部に所属する池田優菜だった。
「この前のカラオケ楽しかったね! また一緒に行こうよ!」
突然の明るさに、太陽は一瞬だけ目を瞬かせる。
そして、軽く咳払いし―――いつもの態度へ一変する。
「おっす、ゆーちゃん。おはようさん! もちろんいいぜ。この前のゆーちゃんの歌、めちゃくちゃ上手かったしな。惚れ惚れしたわ。また聞きたいし、部活の休みの日に皆で行こうぜ」
「本当に!? 太陽っちに言われると照れますな~」
優菜はにやにやしながら、肘で太陽の腹を小突いた。
「でも、ウチとしては太陽っちと二人きりで行きたいんだけどな~」
「その誘いはすげえ嬉しいけど、ゆーちゃんみたいな可愛い子を独占したら、たくさんの男子から恨まれるから遠慮しとくよ。何人か誘って、カラオケ兼プチ合コンにした方が楽しそうだろ?」
「うーん、たしかに一理あるね。けど、ウチ的には二人きりがよかったんだけどな~」
「それは光栄でございます、お嬢様」
「可愛いとかお嬢様とか、太陽っちは女子を乗せるのがうまいねえ」
優菜はけらけら笑う。
口が勝手に回る。
作り笑顔も、冗談も、もう慣れた。
けれど、それが本当の自分なのかと聞かれれば、太陽自身にもよく分からなかった。
隣でやり取りを見ていた信也は、少し引き気味に固まっている。
優菜がそれに気づいた。
「どうしたの、新田君。もしかして新田君もカラオケ行きたい?」
「い、いや……俺は別に……」
「遠慮しなくていいよ? 新田君カッコいいし、ウチの友達も来てくれたら喜ぶと思うよ」
「いや、本当に俺は……」
信也が本気で断ろうとする前に、太陽がその肩に腕を回した。
「おいおい信也よ。女子からの誘いを断るなんて野暮なことはしちゃいけねえぜ?」
「お前な……」
「大丈夫だよ、ゆーちゃん。こいつは是が非でも連れてくるから。部活の休みが分かったら連絡ちょうだい」
「OK! 飛び切り可愛い女の子たちを用意するから、その時は太陽っちも男友達に声かけてよ」
優菜はびしっと太陽を指差す。
「あっ、太陽っちはウチが予約ね」
「お客様、申し訳ございません。俺は予約不可の当日早い者勝ちとなっております」
「えー、なにそれ!」
「まあ、俺の場合はいつも売れ残ったりするけどな!」
自虐混じりに笑う太陽に、優菜はすぐに首を振った。
「いやいや、太陽っち普通に人気じゃん! 中学の頃はそんな感じじゃなかったって聞くけど、全然信じられないよ」
「……」
何気ない一言が、太陽の胸の奥を軽く刺した。
中学の頃の太陽は、こんなふうに女子と軽口を叩ける人間ではなかった。
もっと地味で、真面目で、冴えなくて。
光の隣にいることで、ようやく自分の居場所を見つけていたような少年だった。
そんな自分を変えたくて、今の太陽がいる。
言葉に詰まった太陽に、優菜は気づかない。
彼女の視線は、別の人物へ向いていた。
「あっ、光さん! おはよう!」
「え、あ……おはよう」
太陽たちの横を通り過ぎようとしていた光に、優菜が大声で挨拶する。
思いがけない声かけだったのか、光は少し戸惑いながらも笑顔を返した。
「ねぇねぇ、今度ウチの部活が休みの日に、太陽っちたちとカラオケ行こうって話してたんだけど、光さんも来ない?」
その無邪気な誘いに、空気が固まった。
険しい顔になる太陽。
冷や汗を浮かべる信也。
たじろいで視線を泳がせる光。
高校から知り合った彼女は、太陽と光の過去を知らない。
二人が幼馴染だったことも、付き合っていたことも、そして今はまともに話すことすら難しい関係になっていることも。
光はちらりと太陽を見た。
太陽の顔には、隠しきれない拒絶が浮かんでいた。
それを見た光は、ほんの一瞬だけ唇を噛む。
そして、無理に笑顔を作った。
「ごめん。私、今の部活が忙しいから、多分休みが合わないと思うんだ。だから、皆で楽しんできて」
「えぇー。光さん可愛いし人気者だから、来てくれたら皆のテンションぎゅんぎゅん上がると思ったんだけどなー」
優菜は残念そうに肩を落とす。
もちろん、そこに悪意はない。
「でも、部活なら仕方ないよね」
「うん。誘ってくれてありがとう」
光は笑顔で手を振る。
「それじゃあ、私、日直だから先に行くね」
「じゃーねー!」
優菜が元気よく手を振り返す。
光はもう一度だけ小さく笑い、校舎の中へ消えていった。
三人は、その背中を見送る。
やがて優菜が、ぽつりと呟いた。
「それにしても、今思っても本当に残念だな……」
さっきまでの明るさが、少しだけ陰る。
「光さん、陸上の才能あったのに。去年まではさ、うち中距離は光さんが引っ張るんだって、皆思ってたんだよ」
光と優奈は去年まで同じ陸上部だったため彼女のことはよく知っている。
「中学の時から有名だったし、推薦の話もいっぱい来てたって聞いた。全国だって狙えるって」
優菜の声が、少し沈む。
「なのに、あの怪我でしょ。今は普通に生活できるし、軽くなら走れるらしいけど……選手として戻るのは、やっぱり難しいんだよね……」
光は去年まで陸上部に所属していた。
中距離の選手で、その実力は全国レベル。
だからこそ、怪我で選手生命を断たれた時の衝撃は大きかった。
何かに取り憑かれたように走り込み、身体が限界を迎えた。
その結果、光は競技の道を失った。
「一時期、すごく落ち込んでたからさ。今、軽音部で打ち込めるものができたなら、それはよかったなって思うんだ」
優菜は両手で頬を軽く叩いた。
そして、いつもの明るい顔に戻る。
「光さんの分まで、ウチが頑張らないとね!」
そう言って、優菜は勢いよく走り出す。
「じゃあ、ウチは朝練行ってくるね! 今度の休み、ちゃんと連絡するから待っててね!」
嵐のように現れ、嵐のように去っていく優菜。
その背中を、太陽と信也は黙って見送った。
数秒の沈黙。
やがて信也が、乾いた笑みを浮かべた。
「……今度、胃薬でも買おっかな……」
私の他作品も是非読んでください。




