第3話 心に残る傷
学校へ行く身支度を終えた太陽は、「行ってきます」とだけ告げて玄関を出た。
背中に、父と母の「行ってらっしゃい」が届く。
少し前の始業式までは満開だった桜も、今ではすっかり散っていた。
昼頃には暖かくなるらしいが、朝の空気はまだ肌寒い。
「早く出たけど、忘れ物はないよな……」
鞄の中を漁りながら太陽は門を出る。
その瞬間、目の前の誰かとぶつかりそうになった。
「あっ、すみま…………ちっ」
謝りかけた言葉が、途中で消える。
ぎりぎりで衝突は避けられた。
けれど、相手の顔を見た瞬間、太陽の口から小さな舌打ちが漏れた。
「……なんだ、お前か」
悪態をつくように目を細める。
肩にかかる亜麻色の髪。
毛先に少し癖があり、どこかボーイッシュな雰囲気を漂わせる少女。
渡口光。
同じ街で生まれ、家が隣同士で、父親同士も親友。
小さい頃から兄妹のように一緒に育ってきた幼馴染。
そして今は、太陽が最も会いたくない人物だった。
光は、太陽の顔を見た途端、気まずそうに視線を逸らし、落ち着きなく肩を揺らしている。
この様子から、太陽を待っていたわけではないのだろう。
たまたま家を出る時間が重なっただけ。
そもそも、今更光が太陽を待つ理由など、何処にもないのだから。
太陽は何も言わず、光の横を通り過ぎる。
「ま――待ってよ、太陽!」
後ろから声が飛んでくるが、太陽は歩みを止めない。
だが光は小走りで追いつき、太陽の隣に並んだ。
「た、太陽……えっと……おはよう」
「…………はよ」
適当に返したはずだった。
それなのに、光は少しだけ嬉しそうにはにかんだ。
その表情を見た瞬間、太陽の胸の奥がざらついた。
(何を喜んでいるんだ。俺がこうなった原因は、お前だろうが!)
喉元まで出かかった言葉を、太陽は無理やり飲み込む。
「そうだ、太陽! 昨日ね、面白いことがあったんだよ!」
返事をもらえたことで気を良くしたのか、光はぎこちない笑顔のまま話し始めた。
千絵と、最近仲良くなった咲良という女子とのやり取りらしいが、太陽の耳にはほとんど入ってこなかった。
光は笑いながら話を続ける。
何事もなかったみたいに。
昔と同じ距離で、昔と同じ声で。
それが、たまらなく不快だった。
「それでね、その後千絵ちゃんが――」
「……なあ、光」
太陽は足を止めた。
「ん、なに?」
三歩ほど先で、光も歩みを止めて振り返る。
直後、彼女の顔から、笑みが消えた。
「お前、さっきから何を平然と話しかけてるんだ?」
「え……」
「分かってるよな。今の俺とお前が、どういう関係なのか」
穏やかに言うつもりだった。
けれど、声は思ったより低く、感情が抑えられそうになかった。
「お前さ。自分から振った相手に、何事もなかったみたいに話しかけるって、どういう神経してんだよ? なんだ俺に対しての嫌がらせか? 馬鹿にしているのか?」
「い、いや……私は、そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりがなくても、そう見えるんだよ! 少しは人の気持ちを考えやがれバカ女がッ!」
太陽の怒声は朝の住宅街に響く。
太陽も自分がここまで怒声を張り上げた事に内心驚き、直ぐに後悔する。
だが、この今太陽を支配する黒い感情こそが、目の前にいる嫌いな相手に向ける本音であった。
「罪悪感か? 同情か? それとも、もう昔のことだからって、自分ではそう思ってるのか?」
言葉が止まらなかった。
ずっと胸の奥に押し込めていたものが、ひび割れた隙間から溢れていく。
「違う……私は……」
何かを言いかけて、光は唇を噛んだ。
太陽はそれを見ても、止まれなかった。
「お前、自分が俺を振った時に言った言葉、覚えてるよな!?」
光の顔が強張る。
「あれが、どれだけ相手を傷つける言葉か分かってんのか!?」
「……っ」
「なのに、お前はそれを俺に言ったんだぞ! 平然とな! あれで、俺がどれだけ傷ついたかも、分かってるのか!」
溜め込んでいた怒りを吐き終えた時、太陽は息を乱していた。
太陽の怒声と嫌悪の視線に光は俯いていた。
その目元に、涙が滲んでいる。
住宅街の朝に、沈黙が落ちる。
気づけば、通学途中の生徒や通勤中の大人たちが、ちらちらとこちらを見ていた。
誰かが小さく「痴話喧嘩か?」と呟く。
太陽はそこでようやく、自分が道の真ん中で感情をぶちまけたことに気づいた。
「……………ッ!」
居た堪れなさが込み上げる。
喉を鳴らし、光の横を通り過ぎようとした。
その時、脳裏に封じ込めていた光景が蘇る。
中学を卒業する日。
満開の桜と在校生や恩師たちに見送られた、晴れた空。
二人キリの体育館裏で、光が、涙を堪えた顔で言った言葉。
『……太陽。別れよう、私たち』
『どうしてか、聞いて……いいよな?』
『……他に好きな人ができたんだ。私はその人に振り向いてほしい。だから、ごめん。別れて』
思い出しただけで、胸が締めつけられる。
一瞬、足元が揺れた。
それでも太陽は踏ん張り、奥歯を噛みしめる。
一方的に別れを切り出された太陽は、現実から逃げるようにあの場から走り去った。
それでも後日、光の気持ちを受け入れるしかないと、別れることに同意した。
その時、光は淡々と言った。
『ありがとう。太陽も、こんな私じゃなくて、他の人と幸せになってね』
小さい頃から一緒にいて、ずっと好きだった相手との関係は、あまりにも呆気なく終わった。
その後の太陽は、ひどいものだった。
しばらく部屋に閉じこもった。
食事もまともに取れなくなり、体重も落ちた。
何度も、全部終わらせたいと思った。
けれど臆病な太陽には、その一線を越えることすらできなかった。
卒業式から二週間が過ぎ、高校の入学式が近づいた頃。
このままでは両親にも友人にも迷惑をかけるだけだと思い、ようやく部屋を出た。
けれど、傷が癒えたわけではない。
――――他に好きな人ができた。
何度も、何度も。
その一言だけが、今も太陽の中で響き続けている。
太陽は自分の金髪を乱暴に掻き乱す。
今の太陽は、金髪にピアスと、客観的に見れば、不良じみた外見をしている。
中学までの太陽は、冴えない黒髪の真面目な生徒だった。
光への想いに区切りをつけるため。
あるいは、捨てないでくれと縋りつく、惨めな自分を捨てるため。
高校入学を機に、太陽は自分の見た目を大きく変えた。
全部、あの卒業式からだった。
あの日から、太陽の中で何かが歪んだ。
そして、嫌でも思い知らされた。
――――永遠に続く愛なんて、どこにもないのだと。
「……そう言えば、お前。最近バンド始めたんだってな」
太陽は背を向けたまま言った。
「動画、見たぞ」
「……そうなんだ。ひどかったでしょ、私たちの演奏」
互いに顔を合わせずに会話をして、太陽は鼻を鳴らす。
「お前と千絵は下手だったな。他の奴らはそれなりに聞けたけど」
「……うん」
「なんで元陸上のお前がバンドなんか始めたのかは知らないけどさ。せいぜい頑張れよ。好きな人に振り向いてもらえるように」
皮肉のつもりだった。
だが、言った瞬間、胸が痛んだ。
(完全に終わったな……)
もともと太陽は、人に悪口を言えるほど心が強い人間ではない。
相手が一番嫌いな相手だとしても、言い過ぎたのではないかという後悔が、すぐに心臓を締めつける。
それでも、もう立ち止まれなかった。
最後の手向けのように、太陽は言い放つ。
「だからもう、元カレの俺に話しかけるなよ。じゃあな、渡口さん」
これが二人の運命だったのだと、太陽は自分に言い聞かせた。
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