第19話 期待の転校生
――――全国レベルの陸上選手が転校してきた。
その噂は、火がついたような勢いで校内に広がった。
晴峰御影。
朝の正門で太陽が御影と再会してから、まだ半日も経っていない。にもかかわらず、昼休みが終わる頃には、鹿原高校の生徒の大半がその名を知っていた。
全国大会でも上位に食い込む実力を持ち、さらに世界陸上に選抜された元陸上選手を母に持つ、いわゆる二世選手。
テレビにも何度か出演したことがあるらしく、生徒たちの中には最初から彼女の顔と名前を知っている者も少なくなかった。
太陽は、一昨年の陸上大会で一度会っていたから御影の存在を知っていた。
だが、それはあくまで「昔会ったことがある相手」という程度の認識だった。
だからこそ、周囲の反応を見て、太陽は今さらながら思い知らされる。
晴峰御影という少女は、自分が思っていた以上に有名人なのだと。
放課後。
普段なら、部活動に関係のない生徒がわざわざ足を運ぶことなどほとんどない陸上部の練習場に、今日は人だかりができていた。
部活棟一階にある陸上部の部室前には、見物目的の生徒たちがずらりと並んでいる。
目的はもちろん、今日転校してきたばかりの転校生だった。
「すげえな……本当に晴峰が来てるのか。俺、何度かテレビで観たぞ」
「てかそいつって、全国レベルだろ? 今年の陸上部、マジで全国行くんじゃね?」
「しかもかなり美人なんだろ?」
「そうみたいだな。ネットでは『走る女神』なんて呼ばれてるらしい』
そんな声があちこちから聞こえてくる。
太陽もその中に混ざっていた。
とはいえ、御影を一目見たいというよりは、周りが騒いでいるから何となく見に来た、という野次馬根性に近い。
自分のクラスに転校してきたわけではない。
朝に正門で会ったきり、御影と話す機会もなかった。
それなのに、学校中が彼女の話題で持ち切りになっている。
やがて、陸上部の部室の扉が開いた。
練習着に着替えた部員たちが、ぞろぞろと外へ出てくる。
鹿原高校の陸上部は、県内ではそこそこの成績を残している。決して弱小ではない。部員たちの表情にも、運動部らしい引き締まった空気があった。
だが、集まった生徒たちの視線は、そのほとんどが最後尾に集中していた。
そして、彼女が姿を見せた瞬間。周囲から小さなどよめきが起こった。
晴峰御影。
背中まで伸びた黒髪が、風にふわりと揺れる。
手には、あとで髪を結ぶつもりなのか、黒いヘアゴムが握られていた。
練習着姿になった御影は、制服の時とはまた違う印象を受ける。
顔立ちの良さはもちろんだが、それ以上に目を引くのは、その身体だった。
無駄な肉のない、すらりとした体型。
細いだけではない。積み重ねた練習によって作られた、しなやかで引き締まった筋肉。
彼女が、本気で陸上をやってきた人間なのだと、見ただけで分かる程だった。
「おぉ……」
誰かが感嘆の声を漏らした。
それにつられるように、周囲の生徒たちもざわつき始める。
御影はその視線に気づいたのか、きょとんと目を瞬かせた。
そして、少し戸惑ったように笑いながら、小さく頭を下げる。
「え、えっと……初めまして。晴峰御影です。皆さん、よろしくお願いします」
控えめに手を振る御影。
その仕草に、男子生徒たちから黄色い歓声が飛んだ。
「かわいい! 本物だ!」
「頑張ってください! 俺、応援してます!」
御影は芸能人ではない。
テレビに出たことがあるとはいえ、あくまで陸上選手だ。
だからなのか、自分を見るためだけに集まった生徒たちを前に、どう反応すればいいのか分からない様子だった。
その戸惑いが、かえって彼女の印象を柔らかくしている。
実力もあって、見た目もいい。
それでいて、偉ぶった態度はない。
男子生徒たちの心を掴むには、十分すぎるほどだった。
その時、先頭を歩いていた女子部員が振り返った。
雰囲気からして、おそらく陸上部の主将だろう。
日に焼けた肌に、快活な笑み。
いかにも面倒見は良さそうだが、同時に人を振り回すのも好きそうな顔をしている。
「よし! せっかく見物人がこんなにいるんだ。晴峰、ここで一発、部活初日の意気込みを言え!」
「ええっ!? 主将、何言ってるんですか!? さっき部室で自己紹介したばかりじゃないですか!」
唐突な無茶ぶりに、御影が慌てて主将へ詰め寄る。
しかし主将は、まるで聞く耳を持たない。
けらけらと笑いながら、御影の背中を景気よく叩いた。
「いいじゃないか。ここにいる奴らは、お前を見に来てるんだぞ? 期待の新人からひと言もないんじゃ、みんなガッカリするだろ?」
「うぅ……パワハラです……」
御影が肩を落として嘆くと、周囲からどっと笑いが起こった。
そのやり取りだけで、彼女がすでに部内に受け入れられ始めていることが分かる。
その中で、近くにいた男子生徒が笑いながら口を開いた。
「出たよ。主将の無茶ぶり。あの人、ああやってすぐ部員困らせるよな」
「でも、主将があれやる時って、大体そいつに期待してる時らしいぜ」
「そういや前にもあったよな。去年、皆の前で抱負言わされてたやつ」
「あー……渡口だっけ?」
その名前が聞こえた瞬間、太陽の眉がわずかに動いた。
渡口光。
去年、この陸上部には期待の新星が入った。
中学全国大会で優勝経験を持つ、鹿原中学出身の女子生徒。
推薦でも、特待でもない。
本人の意思で一般入試を受け、この鹿原高校に入学してきた。
彼女の入部は、当時の陸上部がどれだけ沸いたかは、太陽も覚えている。
今と同じように、多くの生徒が見物に来ていた。
学校の威信を全て背負わす様に期待され、応援された。
それでも彼女は、半年も経たずに陸上部を去った。
「でも、あいつ辞めたんだよな? 去年の夏くらいに」
「ああ。確か怪我だって聞いた」
「怪我かぁ……。まあ、それなら仕方ないよな」
「周りはかなり期待してたけどな」
かつてあれほど騒がれていた光の名前は、今では過去の話として簡単に流されていく。本人たちに悪気はないのだろう。
太陽は何も言わなかった。
ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚だけが残った。
その間に、御影は覚悟を決めたらしい。
胸の前でぐっと拳を握り、集まった生徒たちの方へ向き直る。
「部員の方々には先ほども言いましたが、改めて。今日からこの鹿原高校に転校してきました、晴峰御影です。ご存じの通り、私は陸上部に入部します」
先ほどまで戸惑っていた表情が消える。
御影の瞳に、鋭い光が宿った。
その変化に、ざわついていた生徒たちが自然と口を閉ざす。
「皆さんの反応を見る限り、少なからず私のことを知っている人もいると思います。ですが、ひとつだけ言わせてください」
御影は真っ直ぐ前を見据える。
その声は、はっきりと練習場に響いた。
「私がこれまでどうだったかは、ここでは関係ありません。過去の成績に縋る気も、振りかざすつもりもありません。だから皆さんには、今までの私ではなく、これからの私を見てほしいです。そして必ず、この学校を全国大会に連れて――」
「はーい。練習開始するぞー」
「「「「「おおー!」」」」」
「――ええっ!? 皆さん!? 私、今すごく格好つけたことを言っている最中なんですが!?」
御影の宣誓は、主将の間延びした声によってあっさり遮られた。
部員たちはそれに合わせて、何事もなかったかのように練習場へ向かい始める。
置いていかれた御影が、涙目になりながら手を伸ばした。
「待ってください! 今、絶対いいところでしたよね!? もう少しで綺麗に締まりましたよね!?」
部員たちが振り返る。
主将は悪びれもせず、にやりと笑った。
「冗談、冗談。いやー、思ったより熱い演説するからさ。ちょっと照れくさくなった」
「こっちは出鼻を挫かれた気分です! もう少しで泣いて拗ねるところでした!」
「怒るな怒るな。そういう顔も面白いぞ」
「面白がらないでください!」
御影が頬を膨らませると、また周囲に笑いが起こった。
先ほどまでの格好良さが嘘のように、空気が一気に柔らかくなる。
御影は肩を落とし、「まったく……」と小さくため息をついた。
そして、気を取り直したように歩き出そうとした――その瞬間。
「うわっ!」
突然、御影の身体が前に傾いた。
何かにつまずいたように、彼女は顔面から地面に突っ込んだ。
見事なまでの転倒だった。
周囲の空気が、一瞬止まる。
「……大丈夫か?」
主将がさすがに心配そうに声をかける。
御影は砂のついた顔をゆっくり上げた。
「は、はい……大丈夫です……」
そう答えながら立ち上がり、ぱんぱんと顔と練習着についた砂を払う。
御影は自分が転んだ場所を見下ろし、不思議そうに首を傾げた。
「驚きました。何かにつまずいたんですかね?」
主将は苦い顔をした。
「いや……私から見た限り、石も段差もなかったぞ」
「へ?」
「お前、何もないところで転んだんじゃないか?」
御影が固まった。
周囲の視線も、自然と地面に集まる。
確かに、そこには転びそうな石も、出っ張りも、へこみもない。ただの平らな地面だった。
その事実を飲み込んだ瞬間、御影の顔が耳まで真っ赤に染まっていく。
「は、ははは……。わ、私、またやったみたいです……」
御影は乾いた笑みを浮かべた。
そして、明らかにその場から逃げるための勢いで身を翻す。
「そ、それじゃあ私、新入りなので! 練習器具とか準備してきまーす!」
「お、おい。準備は下級生が――」
主将の制止を聞かず、御影は凄まじい速度で走り去った。
その速さだけは、さすが全国レベルだった。
太陽は、その背中を見送りながら、先日の御影の言葉を思い出す。
『私って……早とちりもそうなんですけど、昔からそこそこドジでして。今はそこまででもないんですけど、昔は外に出るたびに怪我をしていたんです』
本人は確かに、自分をドジだと言っていた。
だが、まさか本当に何もないところで転ぶとは思わなかった。
漫画みたいなドジを、生で見る日が来るとは。
しかも――
「……晴峰のやつ、倉庫がどこにあるか知ってるのか?」
主将が、ぽつりと心配そうに呟いた。
そして案の定。
1分後。顔を真っ赤にした御影が、先ほど以上の全速力で戻ってきた。
「すみません! 倉庫の場所、どこですか!?」
練習場に、今日一番の笑い声が響いた。




