第20話 全国レベルの実力
「よーし。ウォーミングアップ終了。一旦5分休憩に入る。再開後は各種目ごとに分かれて練習だ。それまでに水分補給をしておけ」
「「「「「はい!」」」」」
女主将の指示に、部員たちの声が揃って響いた。
本練習前のウォーミングアップまでは全員で行い、その後は種目ごとに分かれて練習するらしい。
陸上と一口に言っても、競技はさまざまだ。
短距離、中距離、長距離などの走る種目。
やり投げや円盤投げといった投てき種目。
走り高跳びや棒高跳びといった跳躍種目。
同じ陸上部でも、求められる身体の作り方も、練習内容もまるで違う。
鹿原高校の陸上部員は約40人。
その全員が、それぞれの練習場所へと散っていく。
今日の目玉である晴峰御影の種目は、中距離走だった。
中距離選手は6人。
練習場所は、トラックのある校庭。
選手たちは各々ストレッチをしながら、開始の合図を待っている。
その様子を、校庭の端に集まった野次馬たちがじっと見守っていた。
自分たちの学校に、全国レベルの選手がやってきた。
なら、せめて練習初日くらいは、その実力をこの目で見たい。
そんな好奇心が、この場にいる生徒たちを動かしているのだろう。
太陽もその一人だった。
中学時代、御影の走りを一度だけ遠目に見たことはある。
だが、それも2年近く前の話だ。細かい記憶はほとんど残っていない。
テレビに出ていたことも、人から聞くまで知らなかった。
だから今の太陽にとって、御影の走りを見るのはほとんど初めてに近かった。
「それにしてもさ。あいつ、本当にテレビに出てた晴峰ってやつなのか?」
太陽の前に腰を下ろしていた男子生徒が、隣の友人に声をかける。
「ああ。本人も名乗ってたし、間違いないだろ。俺、テレビで見たことあるから顔覚えてたし」
「でもさ、全国でもトップレベルの選手なんだろ? なんか……さっきのやり取りとか、何もないところで転んだりしたの見てると、ちょっと疑っちまうんだよな。本当に期待の新人なのかって」
「まあ、あの転び方はな……」
「だろ?」
「だから確認しに来たんじゃねえの?」
「違いねえな」
太陽は、内心でその会話に同意した。
不名誉な話ではあるが、現時点では反論しづらい。
御影が陸上選手として有名なのは確かなのだろう。
だが、部室から出てきてからの彼女は、どちらかと言えば親しみやすい転校生だった。
照れた笑顔。
いじられた時の慌て方。
何もないところで派手に転ぶドジさ。
そこに、全国レベルの選手特有の威圧感はなかった。
少なくとも、太陽にはそう見えた。
スポーツ選手、特に実力のある選手は、競技の場に立つだけで空気が変わる。
素人でも何となく分かる、近寄りがたい緊張感。
けれど今の御影から感じるのは、覇気というより愛嬌だった。
むしろ、陸上選手というよりアイドルに近い。
そんな失礼な感想すら、太陽の頭をよぎる。
「そろそろ始まるぞ」
誰かの声で、生徒たちの視線が一斉にトラックへ向かった。
中距離組の練習が始まろうとしていた。
「よし。まずは晴峰。お前から行け。桜木、お前もだ」
「はい」
中距離選手の中でまとめ役らしい上級生の男子が指示を出す。
御影と、桜木と呼ばれた男子部員がスタートラインに立った。
桜木は指先を白線につけ、スタートの姿勢を取る。
一方、御影はポケットから黒いヘアゴムを取り出した。
ウォーミングアップ中は下ろしていた髪を、両手で手早くまとめていく。
背中まで伸びた黒髪が、後ろでひとつに結ばれる。
ポニーテールになったことで、今まで髪に隠れていた御影の顔がはっきり見えた。その瞬間だった。
――――御影の雰囲気が、変わった。
「――怖っ」
太陽は思わず、小さく呟いていた。
さっきまで愛嬌たっぷりに開かれていた目は、細く、鋭くなっている。
口元は引き結ばれ、笑みは完全に消えていた。
視線は正面だけを射抜いている。
周囲の見物人も、主将も、部員たちも、何も映っていない。
今の御影が見ているのは、ただ自分が走るべき道だけだった。
「……別人じゃねえか」
太陽の喉が、知らず知らずのうちに鳴る。
中学の全国大会では、遠い観客席から彼女を見ただけだった。
走る時の表情までは、はっきり覚えていない。
だからこそ、今、目の前で見る御影の変化に圧倒された。
走る前の彼女がアイドルだとするなら、走る時の彼女は、鬼だった。
それを太陽だけが感じたわけではないらしい。
ついさっきまでざわついていた周囲が、いつの間にか静まり返っていた。
聞こえるのは、風の音と、誰かが唾を飲み込む音だけ。
御影はクラウチングスタートの姿勢を取る。
合図係のマネージャーが横に立ち、片手を上げた。
「よーい……スタート!」
手が振り下ろされ、御影と桜木が、同時に地面を蹴った。
だが、横並びだったのは最初の数歩だけだった。
御影の身体が、すっと前に出る。爆発するような速さではない。
けれど、無駄がない。地面を蹴るたびに、少しずつ、確実に距離が開いていく。
走る距離は1500m。
学校トラックは1周300mだから、5周で完走となる。
「あんだけ最初から全力で飛ばして、最後までもつのかよ……」
太陽は思わず呟く。
けれど、御影の走りは乱れなかった。
1周、2周、3周と周回を重ね、4周、5周。
5周目に入った頃には、この場にいる全員が既に言葉を失っている。
御影は最後まで大きくフォームを崩すことなく、そのまま桜木より、10秒以上早くゴールを駆け抜けた。
「……マジかよ」
誰かが呟いた。
桜木という男子部員も、県内ではそこそこの成績を残している実力者らしい。
だが、県でそこそこと、全国トップレベル。
その差は、太陽が想像していたよりもずっと大きかった。
しかも桜木は男子だ。
単純な身体能力で言えば、一般的には男子の方が有利なはずだった。
それでも御影は、その差をものともしなかった。
圧倒的。その一言しか出てこない。
太陽も他の野次馬たちも、開いた口が塞がらなかった。
「よし。次の組、準備しろ」
まとめ役の上級生が声をかける。
走り終えた桜木がトラックから外れ、次の組がスタートラインへ向かおうとした。しかし、そこで御影が口を開いた。
「すみません、畑さん。次も、私に走らせてもらえませんか?」
その言葉に、中距離組の空気が一瞬止まる。
畑と呼ばれた上級生が、眉をひそめた。
「晴峰。お前、今走ったばかりだろ。少し休んでからにしろ」
「今ので休むほど疲れていません」
1セット走ったとは思えない程に、一切の息切れをしない淡々とした声で御影は言う。
「逆に足りてません。今の1本だけでは、私がこの部でどれくらいの立ち位置なのか分かりませんので、今日は、可能な範囲で全員と走らせてください。お願いします」
丁寧な言葉で御影は言う。
けれど、そこに遠慮はなかった。
つまり、御影が言いたいのはこういうことだ。
今の1500m程度では、疲労にも入らない。
そして、自分と張り合える選手がこの部にいるのか、今日のうちに把握しておきたい。
太陽は思わず、息を呑んだ。
「本当に……晴峰かよ」
さっきまで、何もないところで転んで顔を真っ赤にしていた少女と同じ人間とは思えなかった。
普段は大人しく、天然で、どこか抜けている。
だが、自分の領域に入った瞬間、彼女は一変する。
競技の場に立った御影は、遠慮も、愛嬌も、照れも置き去りにしていた。
そこにいるのは、自分の実力を疑わず、相手との距離を測ろうとする選手だった。
傲慢と言えば、傲慢なのかもしれない。
けれど、それを嫌味だとは思えなかった。
彼女には、それだけの実力があった。
「……これが、天才の自信ってやつなのか」
太陽は呟く。
これこそが、晴峰御影の本当の顔なのだろうか。
太陽は、彼女のことをほとんど知らない。
知っているのは、陸上で敗れて泣いていた姿。
この町で再会してから見せた笑顔。
そして今、トラックの上で相手を測るように立つ、鋭い目をした姿。
「前に一度、陸上を辞めようとしたってのが嘘みたいな顔してるな……」
畑はしばらく御影を見つめていた。
上級生として何か言いたげではあったが、御影の放つ空気に押されたのか、やがて小さく息を吐く。
「……分かった。ただし、無茶はするなよ。今日は初日だ。潰れたら意味がない」
「はい。ありがとうございます」
御影は一礼する。
その後、御影は提案通りに以降の組にも入る形で出走。
そして、その全ての走りを御影が圧倒した。
まるで、これが全国レベルだと周囲に見せつけるかのように走る彼女が疲れを見せたのは、7セット目を走り終えた時だった。




