第18話 昨日ぶりの再会
庭の草木から朝露が落ちる音が、やけにはっきり聞こえた。
薄白い霧の残る、月曜日の早朝。
普段の太陽なら、月曜の朝は特に弱い。目覚ましを何度も止めて、布団の中で現実逃避を繰り返し、最後は時間に追われるように起きるのがいつもの流れだった。
けれど、今日に限っては違った。
寝つけずに朝を迎えたわけではない。むしろ目覚めは良く、頭も妙に冴えている。
昨日、胸の奥に溜まっていたものを少し吐き出せたからかもしれない。
珍しく早起きした太陽は、自室の鏡の前に立っていた。
鏡に映る自分と睨めっこをする。
もっと正確に言えば、自分の容姿、特に髪型を、ああでもないこうでもないと弄っていた。
けれど、鏡の中の姿を見ているうちに、太陽の口元には自然と自嘲が浮かんだ。
先日、思いがけない相手と再会した。
晴峰御影。
太陽自身もそれまで忘れていて、御影も太陽の容姿が変わっていたせいで気づいていなかったが、二人は中学時代に一度出会っていた。
そして、その彼女と話しているうちに、太陽は嫌でも考えさせられた。
自分は本当に前に進めているのか、と。
御影は、中学最後の大会で光に負けた。
それまで陸上で負け知らずだった彼女にとって、その敗北は決して軽いものではなかったはずだ。
一方で太陽は、幼い頃から好きだった幼馴染であり、最愛の彼女だった光に、最悪の形で裏切られた。
御影の敗北と、自分の失恋。並べて語るようなものではない。
けれど、何かを失って、一度立ち止まったという意味では、少しだけ似ている気がした。
御影は、陸上を辞める寸前まで追い込まれた。
太陽も、一時期は部屋に引きこもった。
だが、そこからが違う。
御影は、自分の傷と真正面から向き合った。
最初は母親に強要されて始めた陸上だったとしても、長い時間をかけて、その中に確かに好きだと思える気持ちが芽生えていた。
だから、負けっぱなしは嫌だと。
いつか、自分に泥を塗った相手にリベンジすると。
そのために東京から、こんな田舎町へ引っ越してきた。
前に進むために。
それに比べて、自分はどうだ。
振られたショックから逃げるように部屋にこもった。
過去の自分を忘れたくて、黒髪を金色に染めた。
憧れはあったくせに、怖くて開けられなかったピアスまで入れた。
光が嫌いそうな格好をすれば、とことん嫌われた気になれて楽だと思った。
新しい出会いを求めて、慣れない明るい性格まで演じた。
太陽なりに必死に考え、自分を変えようと藻掻いた。
他人から見れば、良くも悪くも変わったと思う。
けれど、それで心が晴れたことは一度もない。
むしろ、無理に笑えば笑うほど、胸の奥には重たい曇りが増えていった。
鏡の中の自分は、昨日までと何も変わらない顔でこちらを見ている。
金髪も、ピアスも、作った笑顔も。
全部、前に進むための変化ではなく、ただ過去から逃げるための言い訳だったのかもしれない。
目の前の未来を見据え、自分のやるべきことを決めている御影。
未だに失恋の痛みに足を取られ、何をしたいのかも分からない太陽。
同じように傷ついても、歩く速度は人それぞれだ。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、御影の眩しさを思い出すたび、自分だけがずっと同じ場所に取り残されているような気がした。
太陽は鏡に映る、似合っているのかどうかも分からない自分を見つめる。
そして、小さく息を吐いた。
「ほんと……俺ってダサいな」
* * *
早く目が覚めたこともあり、太陽はいつもより少し早めに家を出た。
今日は渡口光、隣の家に住む元カノと顔を合わせることもなく、一人で学校へ向かう。
その道中、ふと昨日のことを思い出した。
「そういえば、自分で言ったとはいえ……やっぱり、どの学校に転校してくるのか聞いとけばよかったな」
太陽の脳裏に浮かんだのは、川辺で出会った少女、晴峰御影の顔だった。
別れ際、御影は自分が転校する学校を言おうとした。
だが、太陽は妙に格好つけてしまい、「それは今後のお楽しみってことで」と聞かずに終わらせた。
その時はそれでいいと思った。
けれど、こうして冷静になって振り返ると、少しだけ後悔する。
この地域に高校は4つしかない。
太陽の通う進学校。
女子生徒が少なく、ほとんど男子校のような工業高校。
男女比の釣り合った、歴史ある農業高校。
そして、他県からも有力選手を集めるスポーツ科のある私立高校。
御影ほどの陸上選手なら、普通に考えれば私立だろう。
設備も実績も揃っている。全国を狙うなら、そちらの方がずっと自然だ。
太陽の通う鹿原高校にも陸上部はあるが、スポーツに力を入れている私立と比べれば、やはり見劣りする。
「まあ……あいつなら、私立だろうな」
そう呟いて、太陽は小さく肩をすくめた。
この町は狭い。
同じ学校でなくても、どこかを歩いていればまた会うこともあるだろう。
その時に、「残念だったな」と笑ってやればいい。
そんなことを考えているうちに、太陽は学校の正門前に着いていた。
先月まで満開だった桜は、もうすっかり散っている。
枝だけになった桜並木はどこか侘しく、これから始まる一週間を象徴しているように見えた。
ここをくぐれば、また無意味な日々が始まる。
太陽には、特別な目標がなく、良い大学に入りたいわけでもない。将来なりたい職業があるわけでもない。
普通に勉強して、適当な大学に入って、卒業して、どこかの企業に就職する。
漠然とそんな未来を想像しているだけだ。
そもそも、この学校を受験した理由だって、光や千絵たちが受けると言ったからだった。置いていかれたくなくて、必死に勉強した。
けれど、合格した今、そこに自分の意思があったのかと問われると、太陽は答えられない。
だから、学校を楽しい場所だとは思えなかった。
目的もなく、ただ時間だけを消費していく。それがたまらなく虚しかった。
正門の前で、太陽の足が止まる。
校舎へ向かう生徒たちの流れを横目に、太陽はぼんやりと立ち尽くした。
「……今日は、サボっちまうか」
ぽつりと呟く。
進学校で1日休むことの意味は分かっている。
授業は進む。遅れを取り戻すのも面倒になる。
けれど、今の太陽には、それすらどうでもよかった。
太陽が正門に背を向けた。その瞬間だった。
「あれ? その見覚えのある後ろ姿は……古坂さん! 古坂さんですよね!? 古坂さんもこの学校だったんですか!」
自分の名字を三度も呼ばれ、太陽はびくりと肩を跳ねさせ、振り返る。
そこには、こちらへ大きく手を振りながら駆け寄ってくる少女がいた。
先日のスポーツウェア姿ではない。
黒のブレザーにチェック柄のスカート。
学校指定の鞄とは別に、スポーツ道具が入っているらしい大きなスポーツバッグを肩に掛けている女子生徒、晴峰御影だった。
御影は太陽の姿を見つけるなり、迷いなくこちらへ走ってくる。
距離としては短い。
だが、ほとんど全力疾走に近い速度で駆けてきたにもかかわらず、彼女は息一つ乱していなかった。
さすがは全国トップレベルの陸上選手と言うべきか。
そんな場違いな感想が、太陽の頭をかすめる。
御影は太陽の前まで来ると、朝日みたいに明るい笑顔を向けた。
「良かった。古坂さんはこの学校に通ってたんですね! 私も今日からここに通うんです。これから同級生としてよろしくお願いします、古坂さん!」
「…………」
太陽は何も言えなかった。
制服姿の御影が、朝の正門前で当たり前のように笑っている。
その光景があまりに現実味を欠いていて、太陽は一瞬、自分がまだ夢でも見ているのかと思ったが、目の前の御影は、疑いようもなく本物だ。
「どうしましたか、古坂さん?」
無言のままに立ち尽くす太陽に、御影は不思議そうに首を傾げる。
「もしかして、古坂さんはこの鹿原高校じゃなかった……ってことはないですよね? 資料に載っていた男子生徒の制服を着てますし……」
再会の喜びに満ちていた御影の表情が、少しずつ怪訝なものへと変わっていく。
太陽はようやく、乾いた喉を動かした。そして、絞り出すように言う。
「……高校、間違ってないか?」
「――――ええ?」
御影の目が、きょとんと丸くなる。
なぜ彼女がこの学校を選んだのか。
当然ながら、太陽はまだ何も知らなかった。




