第11話 中3の夏
――――それは、二年近く前に遡る。
太陽、光、千絵、信也たちが、まだ中学三年生だった頃の夏。
天気は快晴。
照り付ける日差しの下、陸上競技場には熱中症への注意を促すアナウンスが流れていた。
トラックでは、全国まで勝ち上がった女子選手たちが、それぞれの学校の誇りを背負い、最後の勝負に挑んでいる。
観客席を埋め尽くすのは、万を超える観衆。
全方向から飛び交う歓声が、競技場そのものを揺らしているかのようだった。
競技は女子1,500メートル。
レースは、残り100メートルを切った佳境に入っていた。
スタート直後は十人の選手が横一線に近い形で競っていた。
しかし終盤、勝負は完全に先頭二人のデッドヒートへと絞られている。
一人は、今大会が全国大会初出場のダークホース。
鹿児島代表、渡口光。
もう一人は、全国大会常連選手。
全国中学陸上1,500メートルで二連覇を果たしている、東京代表の晴峰御影。
残り100メートルを切った時点では、御影がわずかにリードしていた。
距離にすれば、本当に僅か。
けれど、この残り少ない局面では、その僅差が致命的な差にもなり得る。
中学最後の大会。
これまで積み上げてきた努力の集大成。
光は、最後まで諦めずに歯を食いしばった。
「行っけぇえええええ! ひかりぃいいいい!」
万を超える観衆の声で満ちた競技場。
それでも、その声だけは光の耳に届いた。
その瞬間、光の足がさらに前へ出る。
限界を超えるように、スピードが上がった。
御影との差が、徐々に縮まる。
そして――。
二人の足が、ほぼ同時にゴールラインを越えた。
目視では同着に見えるゴールだった。
判定は難航し、審判たちがビデオ判定に入る。
数秒遅れて、他の選手たちも次々にゴールしていった。
しかし、会場の意識は一つに集中していた。
誰が勝ったのか。
渡口光か。
晴峰御影か。
観客席から歓声が消え、会場全体が固唾を呑む。
やがて、ビデオ判定を終えた審判の一人がマイクを手に取った。
マイクが、唾を呑み込む音を拾う。
その小さな音さえ、会場に響くほどの静寂だった。
そして、緊張した審判の声が開かれ。
『優勝は――――4分24秒86』
審判の声が、わずかに震える。
『渡口光さんです!』
その瞬間、会場が爆発した。
地震でも起きたかのような歓声。
飛び跳ねて喜ぶ者。
落胆の声を漏らす者。
選手たちの奮闘を讃える拍手。
熱狂と歓喜と悔しさが混ざり合い、女子1,500メートル決勝は幕を閉じた。
そして。
選手控室へ続く通路で、光は全力で走り切った直後とは思えない勢いで、一人の男子生徒へ飛びついた。
「やったよ、太陽! 私、優勝したよ!」
「ああ、見てたぜ――って、おまっ! 汗びっしょりで抱きつくな! 濡れるだろ!」
光が飛びついた相手は、古坂太陽。
光の幼馴染であり、恋人でもある少年だった。
太陽は、全国大会に出場した光を応援するため、県を越えてこの会場まで来ていた。
鹿原中学にとって、スポーツ競技での全国大会出場は初めてのことだった。
さらに、光は決勝まで進んだ。
学校側も地域も大きく盛り上がり、最終的には全校応援という形で、多くの生徒が会場へ来ている。
交通費には、地域や市からの援助も出ていた。
もっとも、そんな名目がなくても、太陽はここへ来ていただろう。
誰よりも、光が努力してきた姿を見ていたから。
だからこそ、念願の全国優勝を果たした光が、喜びのあまり汗だくのまま抱きついてきたとしても、邪険にはできなかった。
「ほんと、容赦ねえな……」
「えへへ、いいじゃん。優勝したんだから」
「それとこれとは別だろ」
太陽は光の肩を軽く押して引き離すと、持ってきていたタオルを広げた。
そして、汗で濡れた光の髪をごしごしと乱暴に拭き始める。
「ったく……そんな汗まみれのままウロウロする前に着替えろよな。そのままだと、せっかく優勝したのに風邪引くだろ」
「そんなこと言って~」
光はニマニマと笑う。
「若い女子に抱きつかれて嬉しいくせに。ほらほら、若い女の汗だぞー」
「俺にそんな特殊性癖はねえ」
太陽は眉を引きつらせ、光の髪を拭く手を止めた。
そして、そこそこ強めに光の脳天へチョップを入れる。
「いたっ」
「さっきまではあんなに勇ましい走りを見せてたのに、終わったらこれかよ。せっかくの感動が台無しだ」
実際は汗臭いはずなのに、なぜか光の汗は少し良い匂いがした。
それを口に出せるほど、太陽は恥知らずではない。
「それにしても、今は太陽だけ? 千絵ちゃんや信也君は?」
光はきょろきょろと周囲を見回す。
選手控室へ続く通路には、不思議と太陽と光しかいなかった。
「ああ、千絵がな」
太陽はタオルを肩にかけながら答える。
「『彼氏なんだから、真っ先に優勝を褒めに行く! 私たちが何とか時間を稼ぐから!』って言って、俺だけ先に行かせたんだよ」
「千絵ちゃんらしいね」
高見沢千絵と新田信也。
二人も太陽たちと同じ鹿原中学の生徒であり、全校応援としてこの会場に来ている。
学校創立以来初となる全国優勝。
生徒たちの興奮は、まだ冷めていないだろう。
光を祝福したい者も多いはずだ。
だが、千絵と信也がその場を何とか抑え、太陽だけを先に通してくれたらしい。
記者たちも一度は光のもとへ集まってきたが、光が「疲れているので後にしてください」と一蹴した。
そして別の競技が始まると、記者たちもいったん会場の方へ戻っていった。
偶然と、親友たちの気遣い。
そのおかげで、二人きりの時間が生まれていた。
しかし、光は少し不満そうに息を吐く。
「それにしてもさ……ねえ、太陽」
「なんだよ」
光はムスッとした顔で太陽を睨み。
「そろそろ公言しようよ。私たちは付き合ってるって」
「断る」
あまりの即答に光は硬直する。
「なんでそこまで意固地なのかな!?」
光は頬を膨らませた。
「別にいいじゃん! 私と太陽が付き合ってるって、周りに知られても!」
太陽と光が付き合っていることを知っているのは、学校でもごく一部の信頼できる人物だけだった。
彼女である光は、別に周りに言ってもいいと考えている。
だが、彼氏である太陽が難色を示していた。
「駄目だ駄目だ。絶対に周りには言わねえ」
「なんで!? もう私たち、付き合って三ヶ月になるじゃん! 太陽も知ってると思うけど、私、彼氏がいないと思われて、あれから何度も告白されてるんだからね!」
「ぐっ……」
その言葉に、太陽は詰まった。
二人の交際を周囲に隠そうと提案したのは、太陽の方だった。
そしてそのせいで、光が今もフリーだと思われ、何度も告白されている。
それは、光本人から報告を受けて知っていた。
「それでも駄目だ!」
「なんで!」
「考えてみろよ。お前は元々周りから人気なのに、今回の全国優勝でさらに注目されるだろ。そんな中で、俺とお前が付き合ってるって知られてみろ……俺が周りから消し炭にされるわ!」
「結局、太陽の保身じゃん!」
光はびしっと太陽を指差した。
「私は、いつまでもこそこそするんじゃなくて、皆の前で堂々とイチャイチャしたいの! 年頃の女の子の気持ちを少しは考えろ、このヘタレ太陽!」
「んだとゴラッ!」
太陽も思わず声を荒げる。
「お前は彼氏のグロ注意な変死体をご希望か! せめて……そう! 周りからお前への熱が下がった頃合いで、高校に入ったら公言するからよ。それまで待ってろ!」
「本当?」
光がじとっとした目で見上げてくる。
「お、おう……」
「その発言、覚えててよね」
光は半眼で太陽を睨む。
「高校。高校になったら、毎日学校でもイチャイチャしてやるんだから」
「うっ…………善処致します……」
「今の言い方、絶対逃げる気じゃん」
光は不満げに頬を膨らませる。
光が一度不機嫌になると、機嫌を直すのに苦労する。
彼氏としても、長年の幼馴染としても、それは太陽が一番よく知っていた。
けれど光もまた、太陽の強情さをよく知っている。
先に折れたのは、光の方だった。
「まあ、いいよ」
光は小さく息を吐き、それから少しだけ笑った。
「今はその言質だけで納得してあげるよ。優しい彼女に感謝してよね」
「はいはい、ありがとな、優しい彼女さん」
光はくすりと笑い、太陽の横を通り過ぎようとする。
「それじゃあ、これ以上皆を待たせるのも悪いし、そろそろ行くね」
そのタイミングで、太陽の懐の携帯が震えた。
メールのバイブ音だった。
太陽は携帯を取り出し、内容を確認する。
差出人は千絵だった。
『ごめん! そろそろ無理!』
簡潔な文面。
だが、それだけで大体察した。
千絵と信也が何とか皆を足止めしてくれているが、そろそろ限界なのだろう。
太陽は小さく息を吐き、携帯を操作する。
『そうか。サンキューな』
短く礼を送ってから、携帯をしまう。
そして、少し遅めのペースで歩いていく光の背中へ声をかけた。
「えっと……光。ちょっといいか?」
「ん? どうしたの、太陽」
光が足を止め、振り返る。
呼び止めたはいいが、いざ目が合うと少し照れくさかった。
太陽は真夏の日差しと汗で濡れた後ろ髪を掻く。
「うん……まあ、なんだ……」
何度か言葉を探してから、太陽はようやく口にした。
「優勝、おめでとな」
「……」
「今度、改めて祝おうぜ。お前の好きな菓子でも奢ってやるよ」
まだ言っていなかった祝福の言葉。
それを照れながら口にする太陽を見て、光は一瞬、ぽかんとした。
けれどすぐに、口元が緩む。
「うん。ありがとう」
光は笑った。
「けどね、太陽。今回の優勝は、私だけの力じゃないよ」
「え?」
「部活の皆や、コーチや、千絵ちゃんや、信也君……そして何より、太陽がいたから、私はここまで来られたんだから」
光は、にしっと歯を見せて笑った。
まっすぐな、何の曇りもない笑顔だった。
「俺は何もしてねえよ。全部、お前の頑張りの結果だろ」
嬉しさ半分、照れ半分。
太陽がそう返すと、光は首を横に振った。
「ううん。違う」
光は、少しだけ真面目な顔になる。
「やっぱり太陽がいたから、私は頑張れた。太陽が私に道を教えてくれたから、私は陸上を始められた」
「……」
「さっきのラストスパートの時だって、もう駄目だと思った。でも、聞こえたんだ」
光は胸に手を当てる。
「大勢の人の中でも、はっきり。太陽の声援が」
そして、少し恥ずかしそうに笑った。
「だから私は頑張れた。大好きな人の声援って、何より力になるんだから」
その言葉に、太陽は何も返せなかった。
顔が熱くなる。
光も自分の言葉が恥ずかしくなったのか、太陽からふいっと顔を逸らした。
横髪の隙間から覗いた耳が、真っ赤に染まっていた。
気まずい沈黙が流れる。
一分ほどだったか。
それとも、もっと短かったか。
助け舟のように、再び携帯のバイブ音が鳴った。
心臓が跳ねるように、二人同時にびくっと反応する。
太陽は慌てて携帯を取り出し、メールを開く。
千絵からの返信だった。
『それはどうもー。お礼はコンビニの限定スイートポテトでよろしく』
「調子いい奴だな……」
太陽は苦笑しながら、『了解』と返事を送る。
「そ、それじゃあ、私は行くね!」
沈黙が切れたことで、光も慌てたように口を開いた。
「こ、今度、改めてお祝いよろしく!」
「ああ。約束な」
「うん!」
光は赤くなった顔のまま、颯爽と走っていった。
遠ざかっていく光の背中を見送りながら、太陽はやれやれと肩を竦める。
そして自分も歩き出そうとした、その時だった。
「あの、すみません」
背後から声をかけられた。
「その制服は、鹿原中学の人ですよね? 少しよろしいですか」
太陽は振り返る。
そこに立っていたのは、見覚えのない少女だった。
目元は赤い。
頬には涙の跡が残っている。
けれど、その瞳だけは、異様なほど強く太陽を射抜いていた。




