峠の旗 9
「残すは岩尾城と小諸城のみ」
鶯の鳴く田口山の頂上で、佐久平を睥睨しながら呟いた。
向こうに、岩尾城が小さく見える。
「念願の佐久平定も、いよいよですな」
隣に立った柴田康忠が言った。
この男、軍監として徳川が信蕃のもとに遣わした武将で、三澤砦に籠っていたころから共に北条軍と戦ってきた。
塩名田で大井勢に勝利した信蕃は、その勢いに乗ったまま岩村田城を攻略する。
さらには前山城、小田井城を攻略すると、周囲の佐久諸将も信蕃へ帰属する意向を示した。
十一月にはほとんどの小県、佐久の国衆が信蕃に出仕し、残すは北条家臣、大道寺政繁が籠る小諸城と目の前の岩尾城のみとなっていた。
十二月になると、信蕃は徳川に降った佐久諸将を集めて「追鳥狩」と称した軍事演習を行った。
さらに年が明けた天正十一年(一五八三)閏正月、新たな本拠として新築した田口城に諸将を招いて、祝賀会を催した。
佐久郡のほとんどを平定した信蕃だったが、己に従うと決めた者たちを前にすると、言葉に出来ぬ不快感が腹の底から沸々と湧き上がってくるのを感じた。
(軽々と態度を変じるなど、許されるのか)
媚諂うような奴らの顔など虫酸が走って見ていられなかった。
「なぜあ奴らは、こうも軽々と……」
いまだ抗う岩尾城を遠望しながら、信蕃は我知らず呟いていた。
「いかがいたした」
柴田康忠は、怪訝そうな表情をこちらに向けた。
「北条に与したのであれば、その立場を最期まで貫くのが道理というものではないのか」
信蕃は地べたに転がる小石を踏みにじった。
「情勢に応じて翻意するのは、世のならい」
目尻を下げて康忠は言った。その顔が、投降してきた佐久諸将の顔と重なる。
信蕃は、口内に溜まっていた唾を吐き捨てた。
「あ奴らは、忠義というものを持たぬのか」
「力なき者が生き残るには、誰に従うべきか見定めて進退を決める。これからは、そういう世になりましょう」
幼児を諭すような声音で康忠は応じた。
信蕃は、その顔を睨んだ。
しかし、何も言えなかった。
再び視線を岩尾城にやった。
「岩尾城は依田勢のみで落とす。柴田殿、おぬしの手勢は、後ろでごゆるりと我が城攻めを御見物くだされ」
鶯が一声鳴くのを聞いた信蕃は、踵を返した。
岩尾城攻めに着手したのは、その二日後であった。




