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峠の旗  作者: 三峰三郎
8/11

峠の旗 8

 信蕃は軍勢を率いて、腰まで冷水に浸しながら、千曲川を渡っていた。

 身を切るような風が吹きすさむ。

 腰から下の感覚が少しずつ失われていった。

 それでも休むことなく千曲川を横断すると、東岸の塩名田に陣を敷いた。 


 春日城の奪還に成功した信蕃は、佐久郡の北条勢攻略に乗り出した。

 千曲川を渡ったのは、大井氏が籠る岩村田城を攻めるためであったが、敵もこちらの動きを察すると、塩名田近くの丘まで進軍してきていた。

 東岸へ渡った依田勢と大井勢の戦は、早々にはじまった。

 依田勢三千、大井勢二千の兵たちが、一斉にぶつかり合う。

 千曲川左岸では、真田六連銭の旗が翻っていた。


「源十郎、徳川は信じるに値しないのではないか」


 一刻ほど前、大井勢との戦に加勢として現れた昌幸は、開口一番にこう言った。


「和睦の条件のことか」


 信蕃は視線を落とす。

 何度かの交渉の後、徳川と北条が和睦したのは、十日ほど前のことらしい。これを信蕃は、徳川の使者から聞いた。


「沼田領は自力で確保した地だ。和睦の条件として提示するなど許せぬ」


 床几に座った昌幸は、膝を掴む手に力を込めた。


 和睦の条件は、三つあった。家康の息女を北条氏直の正室とすること、北条は占領していた甲斐の一部と信濃佐久郡を徳川に渡すこと。そして、徳川は真田が領する沼田を引き渡し、北条の上野領有を認めること。


「再び、寝返るか」


 昌幸をじっと見つめた。

 北風が木々をざわめかせ、二人の沈黙を通過した。


「いずれ、そうするかもしれぬ。だが、此度の大井勢との戦は加担仕る」


 これを聞いた信蕃は、肩の力を緩めた。


「源五郎、今は徳川に忠義を尽くすべきだ」


 次の瞬間、昌幸の顔が一変した。


「源十郎、我らの祖先は、もともと信濃の土地を有して独立していた。そして武田が滅びた後、己の力で領地を切り取って守ってきたではないか。それを了承も得ぬまま和睦の条件に利用されたのだぞ。真田は恩を仇で返されたようなものだ」


 信蕃は、目をみはった。


「源五郎、我々は武田に忠義をもって仕えてきた。同じことが徳川に出来ぬのか」


 己の声が無意識に大きくなっていった。


「徳川は、その武田を滅ぼしたのだぞ」


 昌幸の怒声が一帯に轟いた。

 冷たい沈黙が、再び場を支配した。

 信蕃は床几を蹴飛ばしながら立ち上がると、昌幸を一瞥した。


「真田勢は戦に加わらずともよい」


 それだけ言うと、信蕃はその場をあとにした。


 味方を丘の上の敵に襲い掛からせたが、すぐさま千曲川岸まで退却させた。

 丘から敵が怒涛のように攻め下ってくる。

 それを見た信蕃は反転すると、手にしていた采配を腰に納め、すらりと抜刀した。


「勝機は今ぞ。我に続け」


 味方の先頭に立つと、信蕃は真っ先に敵軍に突っ込んでいった。

 敵の槍が襲い掛かる。

 それを真っ二つに叩き折ると、相手の喉仏を貫いた。血飛沫が上がる。

 さらに別の敵が信蕃を取り巻いた。

 左右から突き出される槍。防ごうとした信蕃は、馬上から転げ落ちた。

 すかさず立ち上がると、繰り出された穂先を躱しながら掴む。

 左肩に鋭い痛みが走る。別の槍が信蕃を襲ったのである。

 うめき声を上げながら、一方の敵の腕を切り落とし、返す刀でもう一方の敵の胴を貫く。


「叔父上を討たせるな」


 背後から態勢を整えた味方を引き連れ、信守が駆け寄ってきた。

 反撃に出た依田勢に攻め立てられ、大井勢は退却をはじめた。


 信蕃は追い討ちを命じながら、くるりと背後に目をやった。 

 六連銭は、すでにそこにはなかった。


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