峠の旗 8
信蕃は軍勢を率いて、腰まで冷水に浸しながら、千曲川を渡っていた。
身を切るような風が吹きすさむ。
腰から下の感覚が少しずつ失われていった。
それでも休むことなく千曲川を横断すると、東岸の塩名田に陣を敷いた。
春日城の奪還に成功した信蕃は、佐久郡の北条勢攻略に乗り出した。
千曲川を渡ったのは、大井氏が籠る岩村田城を攻めるためであったが、敵もこちらの動きを察すると、塩名田近くの丘まで進軍してきていた。
東岸へ渡った依田勢と大井勢の戦は、早々にはじまった。
依田勢三千、大井勢二千の兵たちが、一斉にぶつかり合う。
千曲川左岸では、真田六連銭の旗が翻っていた。
「源十郎、徳川は信じるに値しないのではないか」
一刻ほど前、大井勢との戦に加勢として現れた昌幸は、開口一番にこう言った。
「和睦の条件のことか」
信蕃は視線を落とす。
何度かの交渉の後、徳川と北条が和睦したのは、十日ほど前のことらしい。これを信蕃は、徳川の使者から聞いた。
「沼田領は自力で確保した地だ。和睦の条件として提示するなど許せぬ」
床几に座った昌幸は、膝を掴む手に力を込めた。
和睦の条件は、三つあった。家康の息女を北条氏直の正室とすること、北条は占領していた甲斐の一部と信濃佐久郡を徳川に渡すこと。そして、徳川は真田が領する沼田を引き渡し、北条の上野領有を認めること。
「再び、寝返るか」
昌幸をじっと見つめた。
北風が木々をざわめかせ、二人の沈黙を通過した。
「いずれ、そうするかもしれぬ。だが、此度の大井勢との戦は加担仕る」
これを聞いた信蕃は、肩の力を緩めた。
「源五郎、今は徳川に忠義を尽くすべきだ」
次の瞬間、昌幸の顔が一変した。
「源十郎、我らの祖先は、もともと信濃の土地を有して独立していた。そして武田が滅びた後、己の力で領地を切り取って守ってきたではないか。それを了承も得ぬまま和睦の条件に利用されたのだぞ。真田は恩を仇で返されたようなものだ」
信蕃は、目をみはった。
「源五郎、我々は武田に忠義をもって仕えてきた。同じことが徳川に出来ぬのか」
己の声が無意識に大きくなっていった。
「徳川は、その武田を滅ぼしたのだぞ」
昌幸の怒声が一帯に轟いた。
冷たい沈黙が、再び場を支配した。
信蕃は床几を蹴飛ばしながら立ち上がると、昌幸を一瞥した。
「真田勢は戦に加わらずともよい」
それだけ言うと、信蕃はその場をあとにした。
味方を丘の上の敵に襲い掛からせたが、すぐさま千曲川岸まで退却させた。
丘から敵が怒涛のように攻め下ってくる。
それを見た信蕃は反転すると、手にしていた采配を腰に納め、すらりと抜刀した。
「勝機は今ぞ。我に続け」
味方の先頭に立つと、信蕃は真っ先に敵軍に突っ込んでいった。
敵の槍が襲い掛かる。
それを真っ二つに叩き折ると、相手の喉仏を貫いた。血飛沫が上がる。
さらに別の敵が信蕃を取り巻いた。
左右から突き出される槍。防ごうとした信蕃は、馬上から転げ落ちた。
すかさず立ち上がると、繰り出された穂先を躱しながら掴む。
左肩に鋭い痛みが走る。別の槍が信蕃を襲ったのである。
うめき声を上げながら、一方の敵の腕を切り落とし、返す刀でもう一方の敵の胴を貫く。
「叔父上を討たせるな」
背後から態勢を整えた味方を引き連れ、信守が駆け寄ってきた。
反撃に出た依田勢に攻め立てられ、大井勢は退却をはじめた。
信蕃は追い討ちを命じながら、くるりと背後に目をやった。
六連銭は、すでにそこにはなかった。




