表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
峠の旗  作者: 三峰三郎
7/11

峠の旗 7

 その男は、信蕃よりも一尺ばかり背が低く、どちらかといえば精悍な顔つきで常に微笑みを口辺に浮かべていた。しかし、眼光鋭く、何を考えているかわからない。


「久方ぶりだのう、源十郎」


 真田昌幸は己の手を握らんばかりに近づいてきて言った。目にはうっすら涙を浮かべているように見える。


「源五郎、互いに苦労したな」


 つられて思わず目頭が熱くなった。


 昌幸とは幼い頃から付き合いがあり、互いに幼名で呼び合うほどの間柄であった。

 互いの父は信濃の国衆であり、武田信玄が信濃へ侵攻した際、真っ先に武田に仕え、信濃先方衆として活躍していた。互いに軍功を競い合う、好敵手のような存在だった。

 信蕃と昌幸は武田の居館、躑躅ヶ崎館の家臣屋敷に住んでいた時、屋敷が隣であったこともあり、互いに責め馬や剣術の稽古をする間柄となっていた。


 信玄亡き後、信蕃は駿河や遠江の城主、昌幸は上野の城主を任される身となっており、再会するのはおよそ十年ぶりであった。 


 三澤砦の屋敷の一間に、温かな空気が漂った。


「徳川に、お味方していただきたい」


 沈黙を破ったのは信蕃であった。

 昌幸の目をひたと見据える。

 この説得に信蕃の命運がかかっているといっても過言ではなかった。


 織田信長の死後、権力の空白地帯となった信濃は、徳川、北条、それに上杉が争奪しあう三つ巴の様相を呈していた。

 半年前までは、佐久郡を信蕃が抑えており、越後から南下した上杉軍が北信濃から筑摩郡あたりまでを支配し、伊那地方は南から徳川軍が侵攻しつつあった。この時、昌幸は上杉に味方していたのである。

 しかし、北条軍が上野から侵攻を開始すると、信濃を巡る情勢は一変する。

 大軍の北条勢に恐れをなした信濃の国衆は、次々と北条方へ鞍替えしていった。昌幸もその一人である。


 勢いに乗じた北条軍は、善光寺平まで進出し上杉軍と対陣するも、上杉軍が北信濃を盤石なものにしていたため、これを断念。軍を南下させ、安曇野郡、筑摩郡、木曽郡、伊那郡の信濃国衆を味方につけ、さらには、武田本国であった甲斐にまでその触手を伸ばそうとしていた。

 信濃で北条軍に抵抗していたのは、海津城以北の上杉軍と、飯田城以南の徳川軍、それに、三澤砦に籠る信蕃のみとなっていた。


 甲斐を平定していた徳川家康と北条氏直とが、甲信国境付近で各々軍勢を展開した。小競り合い程度の戦はあったものの、決定的な戦とはならず、双方睨み合いが続いていた。

 一方、三澤砦の信蕃の元に徳川の援軍が派遣されるも、北条の大軍を前に手も足も出ない状況が続いていたのである。

 さらには周囲を北条勢に制圧されていたため、兵糧の調達がままならず、三澤砦の備蓄が底をつきかけていた。信蕃は、存亡の危機を迎えていたのである。


 そこで信蕃は、武田家に仕えていた僚友であり、旧友の仲であった昌幸に声をかけたのである。

 昌幸さえ味方にしてしまえば、残りの国衆など物の数ではない。

 昌幸の勧誘にすべてをかけるといっても過言ではないほどの決意をもって使者を送った。

 直に会う、という昌幸からの使者が来たのは、五日前のことである。


 昌幸はじっとこちらを窺ったまま、無言であった。


「徳川殿は、信濃平定の暁には真田に信濃のうちの一郡を与える、と約束された」


 信蕃は、懸命に言葉を続ける。


「一郡では不服と申すのであれば、己に与えられる諏訪郡を源五郎、おぬしに譲ろう」


 信蕃は拳を握りしめると、昌幸を窺った。

 しかし、昌幸の表情は変わらない。


(万事休す、か……)


 それもそうだろう。北条軍が信濃のほぼ全域を支配下に収めつつあるいま、徳川がこれから優位に立つ見込みなどなかった。

 さらには、甲信国境に陣取る北条の軍勢は、徳川を凌駕していた。

 信蕃は視線を落とし、手の力を緩めた。

 諦めかけた時である。


「欲しいのは諏訪郡ではない」


 顔を上げると、昌幸が相好を崩していた。


「欲しいのは本領である小県郡。それに吾妻、沼田をはじめとする上野よ」


 昌幸は、ふんと鼻から息を抜くと、さらに続けた。


「まあ、よい。北条の領土となっている上野の地は、己の切り取り次第、拝領する。源十郎、お味方いたそう」


 嘘を言っているようには見えなかった。


「……かたじけない」


 信蕃は、深々と頭を下げた。


 昌幸が正式に北条と手切れをしたと信蕃のもとに通知が来たのは、十月十日のことだった。

 これを聞いた信蕃は、安堵するとともに、何やら得体の知れない不快感がじわじわと腹のあたりからせりあがってくるのを感じた。主を軽々と変じる行為に違和感のようなものを覚えていたのである。確かに昌幸が徳川に鞍替えしたことは、信蕃にとってうれしいことではあった。

 しかし、己にはできぬ。

 信蕃は不愉快であった。


 これまで佐久郡で孤軍奮闘を続けていた依田勢は、昌幸を味方につけると一気に反攻に転じた。

 碓氷峠から兵糧物資を送っていた北条軍の荷駄隊を、昌幸と協力して襲った。

 さらには寡兵にもかかわらず本軍同士の小競り合いを優位に進めていた徳川に、昌幸の寝返りを聞いた信濃の国衆が続々と北条から離反していった。


 昌幸とともに北条軍の補給路を断つことに成功した信蕃は、佐久郡の城を積極的に攻め始める。

 佐久諸将のなかには、戦わずして徳川方に降伏する者も現れた。

 ついには、本城である春日城を十月二十六日、北条の手から奪い返すことに成功した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ