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峠の旗  作者: 三峰三郎
6/11

峠の旗 6

 陽光が甲府盆地に照り付けている。

 蝉の声が喧しい。

 峠を登っていた信蕃は、眼前に広がる平野を一望した。

 吹き抜ける風が、心地よい。


「旗を掲げよ」


 合図とともに依田の陣旗が、柏尾坂峠の頂上に翻った。

 鐘の印が描かれた旗が、大きな音を立ててはためく。


「これから、ですね」


 頬を紅潮させた信守が、隣に歩み寄ってきた。


「ああ。武田家はまだ、滅んでおらぬ」


 信蕃は口角を上げながら言うと、別の従者に視線を送った。


(陣鐘を鳴らせ)


 次の瞬間、山間に甲高い金属音が響き渡った。

 それは甲府盆地を駆け抜け、向かいの山まで届くと木霊になった。


(武田の猛者どもよ、徳川の下で再び立ち上がる時が来たのだ。我に応えよ)


 鐘印の旗を背後に、信蕃は胸中で叫んでいた。


 陣鐘を鳴らしながら甲府盆地を行軍すると、次々と旧武田家臣が旗の下に集ってきた。その数、およそ三千。そのなかには、高天神城の城主を務めたこともある横田尹松もいた。

 集まった軍勢を引き連れて、信蕃は息子たちを接収するために小諸城へと向かった。


 しかし、折しも小諸城に辿り着いた時、上野を統治していた織田家臣、滝川一益が占拠していた。

 本能寺における信長急死を伝え聞いた北条方と神流川で戦い、敗れたのちに信濃にまで落ち延びて来ていたのである。

 信蕃は、家康に滝川一益との和平を命じられていた。

 信蕃が小諸城代となる代わりに、人質は滝川一益が預かり、無事に信濃を通過して本国に帰還できるように測れという。

 信蕃は人質を滝川一益に預けると、小諸城に滞在した。


 しかし、そのおよそ一月後、北条の軍勢が小諸城に怒涛の如く押し寄せてきたのである。主なき信濃を征服しようと目論んでいたのは、徳川だけではなかった。

 北条の大軍を前に、小諸城に籠っているのは不利と見た信蕃は、己の本城である春日城へと引き上げることを決意した。


 北条勢は、雪崩の如く次から次へと信濃へ軍勢を送り込んできた。

 春日城に入った信蕃は、佐久郡の諸勢力を徳川の味方につける内応公作に追われた。佐久郡だけでなく、その範囲は東信濃全域に及び、多くの者が徳川への帰属を申し出てきた。

 しかし、それらの者は、北条氏直の軍勢が碓氷峠を超えて信濃へ侵攻を開始すると、一度徳川の味方になった者であっても、悉く北条方に転じた。


 北条軍の先鋒、大道寺政繁の猛攻に耐え切れず、信蕃はやぬなく春日城を手放し、蓼科山の南麓にある三澤砦に籠った。

 佐久郡、小県郡のほぼすべてが、北条氏直に従属し、徳川方として残ったのは、三澤砦に籠る依田勢のみであった。

 北条軍は執拗に依田勢を攻め立てた。

しかし、山間の地形を利用した信蕃は、奇襲や夜討ち、攪乱を巧みに展開し、北条軍に決して屈しなかった。

 依田勢の制圧を諦めた北条氏直は、一部の部隊を残して、北信濃善光寺平の征服を目指して北進していった。


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