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峠の旗  作者: 三峰三郎
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峠の旗 2

 父、依田信守の死から半年ばかりが経とうとしている。

 葬儀は、簡易的に済ませた。

 父の跡を引き継ぎ、城主となった信蕃は、徳川軍の猛攻から二俣城を守るため、常に軍を指揮しなければならなかった。そのため、葬儀を営む余裕などなかったのである。


 依田氏は、信濃小県郡依田ノ庄を本貫とする豪族であった。依田信守は、芦田城主として諏訪氏に従属していたが、天文十二年(一五四三)、武田信玄の信濃侵攻により早々に武田家に降った。

 依田信守は、信濃先方衆百五十騎の侍大将となり、信玄の信濃攻略戦において何度も戦功を挙げた。越後の上杉謙信との戦や、上野箕輪城攻略戦にも出陣し、武田家中において、真田と並んで信濃先方衆に依田あり、と声望を勝ち取っていった。

 信蕃は、そんな父を誇らしく思っていた。故にはじめて戦場に連れて行ってもらえた時は、嬉しかったのを覚えている。

 本拠地は佐久郡の春日城に移っていたが、武田信玄の版図拡大に伴い、依田親子は上野の城を転々とした。


 元亀三年(一五七二)十二月、武田信玄は上洛を意図して大軍を起こすと、徳川領の遠江へと進軍を開始する。武田軍は、三方ヶ原にて徳川軍を蹴散らすと、その勢いを駆って東三河の野田城を攻略する。

 しかし、信玄は病に倒れ、甲斐本国へ帰還する途上、伊那駒場にて無念の死を遂げることとなった。

 新たに武田家当主となった勝頼は、三年間死を秘匿するようにとの信玄の遺言を守らず、他国侵略戦に躍起になった。


 依田信守が二俣城主に任じられたのは、天正二年(一五七四)十一月のことである。

 二俣城は、遠江豊田にある城で、天竜川と二俣川に囲まれた要塞堅固な城郭である。元亀三年(一五七二)に二か月余りかけて徳川から奪い取った城であり、武田領において敵地と境を接する重要な拠点であった。 

 徳川軍の猛威を幾度も退けるも、天正三年(一五七五)六月、依田信守は他界してしまうのである。


 父に代わって二俣城主となった信蕃は、緩む気配のない敵の攻撃から城を守り抜いていた。城中の兵糧は底をつきかけていた。

 苦肉の策として、敵に夜襲をしかけ兵糧を奪ったり、倉に土俵を高く積み上げて味方の士気を下げない工夫をしたり、何とかこれまでしのいできた。

 しかし、設楽原における織田、徳川連合軍との戦で大敗を喫した武田軍は、遠江の領地を守り抜く余力を徐々に失っていった。

 周囲の城は次々と徳川軍に攻め落とされ、いまや二俣城は孤立無援の状況に陥っていたのである。


 勝頼からの書が届いたのは、昨日のことであった。


「城は、明け渡すこととする」


 城の広間に集った家臣たちを前に、信蕃は端然と言い放った。

 これまでにも、二俣城を捨てるよう命じる書状が勝頼から届いていたが、信蕃は勝頼の直筆でないことを理由に頑として拒んできた。

 しかし、三度目にして勝頼直筆の徳川へ城を明け渡すよう命じる書が届き、決断を下さざるを得なくなったのである。

 家臣の誰もが悔し気に顔を歪めており、中には拳で床を叩きつける者もいた。


「先代様の死は、無駄だった、ということにございましょうか」


 悲鳴のような掠れ声が、部屋中に響いた。

 甥の依田肥前守信守の声だった。

 信蕃の弟の嫡男で、父と同じ名の二十にも満たない信守は、赤らめた瞳をこちらに向けていた。

 信蕃は睨み返すも、唇を噛み締めたまましばらく何も言えないでいた。


「我らはまだ、戦えまする」


「先代様だけでなく、この城を守って死んでいった者たちのことを思うと、無念でなりませぬ」


「敵に明け渡すくらいならば、この城を枕に死ぬ覚悟にございます」


 信守につられて、他の家臣たちも次々と声をあげたが、


「ならぬ」


 信蕃の一喝で、しんと静まり返る。


「父は、お屋形様の命に殉じたのだ。お屋形様直筆の書を受け取った今となっては、討ち死にする者は、不忠者である。父もそれを望んではおらぬはずだ」


 信蕃は拳を握りしめながら続ける。


「明日、徳川に城を明け渡す」


 言い放つと、信蕃は勢いよく床を踏み鳴らして立ち上がり、その場をあとにした。

 立ち去った部屋から、いつまでも嗚咽が漏れ聞こえていた。


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