峠の旗 1
南に広がる平原に、雷鳴が轟く。
豪雨が、背後に流れる天竜川にたたきつける。
明滅に浮かぶ、怒りと恐怖に引きつるいくつもの顔。
手綱を握り直すと、信蕃は眼前に迫る敵に向き直った。
(そろそろ城に戻らねば味方が危うい。父は何処だ)
相手を切り伏せると、周囲を見渡した。
視界が再び明滅した。
一瞬、敵陣深くに見慣れた大きな背中が、信蕃の目に飛び込んできた。
すぐさま馬に飛び乗ると、その残像を追った。
顔の前に突き出される穂先を払いのけながら、敵中を駆け抜ける。
「父上。一旦、退きましょう」
十間ばかり向こうの背に声をかけた時である。
その背に白刃の切っ先が鮮血と共に突き出た。
瞬間、周囲が静止したような錯覚に陥った。
喚声が遠くから聞こえてくる。
(嘘、だろ)
瞬間、脳内で何かが弾けるような音がした。
信蕃の口から咆哮がほとばしる。
そこからは、我を忘れた。
気が付いたときには、累々と転がる屍の中心で胸から血を流す父を抱いていた。
まだ、息があった。
「父上、死んではなりませぬ。まだお役目は続いております」
信蕃は必死に呼びかける。
ごぼりと咳込みながら、横たわる父が己の方へ手を伸ばす。
その手を信蕃は必死に握り返した。
「二俣城を、依田家を、お前に託す」
ふっと、父の手から力が抜けていくのが分かった。
傍らには父がいつも肌身離さず持っていた刀が、血だまりの中に転がっていた。




