籠女(後編)
六、
由宇奇は、やはりじっとして居られず、ベッドを抜け出して、院内の廊下を歩いていた。看護士に何か嫌味を言われるたびに、「リハビリっす」と誤魔化した。傷は大分癒えていた。あとは脇腹がもう一本くらい繋がれば、完治、と言っていいだろう。自分の身体の事は自分が一番わかっている。由宇奇は院内を、パジャマのポケットに手を突っ込みながら歩いていた。
油断はできない。いつ、拾がこの病院にやってくるかわからない。奴が来たら、自分が真っ先に、まなみを守らなければならない。例えそれで自分の命が脅かされようとも、人間世界と妖怪世界を守るためには、そうする他無い。
廊下の窓から見える景色は、ありきたりなものだった。ただの、いつもの街並みである。山があって、家々があって、電車が偶に通って、川があって……。今まで気づかなかったが、“普通”というのが最も美しいことなのかもしれない。由宇奇は窓の外に目をやりながら、ふと思った。気付いていなかった、この街の尊さに。そう思った途端、由宇奇の目には今まで見えていた景色が違って見えていた。愛おしい、愛おしい街である。空があって、街があって、密集した住宅街やいつもは通らないような汚らしい路地裏さえも、遠くから眺めると儚ささえ感じる。自分は、こんな町に住んでいたのだ、こんな、素晴らしい町に住んでいたのだ。
歩いている内に、まなみの病室の前まで来た。笑い声が聞こえる。旦那と娘が来ているのだろう。楽しそうだ。この家族を、壊してはいけない。いつまでも、こうあるべきである。新しく産まれる命と共に、喜びを分かち合い、永久に続かない幸せを全うすべきである。決して、途中でもぎ取ってはいけない。
子供の拾と最後に会った時が、拾が初めて包帯を巻いた日だった。拾の家族は、幸せでなかった。拾の母親がしたことは、決して許されるべきことではない。だからと言って、他の家族の幸せを奪う事は、間違っている。
拾に、そう伝えなければならない。かすれた声で、つたない言葉で良い。自分の口から伝えなくてはいけない。
彼は、罰されなければいけない。
「おい、病人」
後ろから声がした。振り向くと、綺堂だ。隣には夏芽も居る。
「動かないでって言ったじゃないですか!さっきですよさっき」
「いや、ほら、リハビリだ」
由宇奇は頭を掻きながら、言い訳をした。
「歩いたほうが、体力もつくし、体調もいい。横になっていると、気分までふさがってきてよくねえ」
「そうはいっても、まだ怪我治ってないんですから」
「ああ、さっき糞馬鹿力の女にふっとばされてからあばらが二、三本いっちまったからな」
「そ、そんな簡単に由宇奇さんのあばらは折れません!」
夏芽は顔を真っ赤にして言った。
「それより由宇奇、まなみさんの様子は」
「見りゃわかるだろ。楽しそうに談笑中さ」
由宇奇は気怠そうに答えた。
「俺の親父は凄く厳格な奴だったから、こんな談笑はなかったな。羨ましい限りだぜ」
「この人たちの幸せまで、奪いたくないな」
綺堂は言った。
「そうだ、今、“向こう”へ行ってきた。恐ろしいことになっていたよ。妖怪たちが、まるで“ゾンビ”だ。そして、拾のやりたいことが、やっとわかった」
「拾のやりたいこと?」
「八千代トンネルが、閉ざされかけていた。夏芽さんの力のお蔭で、何とかこちらに戻って来れたが」
「力って、私はただ、念じただけですよ」
「それこそ力だ。妖怪たちの持たない、力。念。夏芽さんはそれを使って、死層と化した八千代トンネルを通過したんだ」
「八千代トンネルが、死層だって?」
由宇奇は驚いて、それがあばらに響いたらしく、「あ痛たたた」と腹を押さえた。
「大丈夫ですか、由宇奇さん」
「それより、八千代トンネルが死層って、どういうことだよ、聞いたことないぜ」
綺堂は咳込んだ
「“向こう”の世界が“喪”に服す間、たまに時空が乱れて、八千代トンネルが通れなくなる日があるだろう。あれは、妖怪世界の妖力が弱まって、八千代トンネルが死層に飲み込まれそうになっているのを、人間世界と境界を引くことで止めているんだ。しかし、今回は、それを利用しようとしている奴がいる。拾だ。奴は、死層と化した八千代トンネルを無理やり人間世界にくっつけて、二つの世界を無理やりにつなごうとしている」
「でも綺堂さん。それだったら、死層だったら、妖怪たちがこっちに出てくることはないですよね?だって、死層は、入ると死んじゃうんでしょう?」
「それが、勘違いだったようだ」
「え」
「死層は、“死をも覆す層”。この世界と、この世界から不要とされたものたちの世界をつなぐ、闇だったんだよ。だから、人間の中には、窓から落ちて、死層に入り、向こうの世界に出たのち、八千代トンネルの様な”通路”を通って人間世界に帰るなんて話もあったようだ。皆が死層を“死の道”と勘違いするようになったのは、“死”が連想させるものの恐怖と、これはあくまで僕の勘だが、死層を安全に通ることが出来る可能性が低かったからだ。しかし、拾は今、その“常識”を、ある“迷信”で覆そうとしている」
「ある迷信?」
由宇奇は眉を顰めた。
「まさか」
「妖怪世界に住むものならだれでも聞かされる昔話さ。―――フタツノ クニヲ ワカツ ミチ イツツカラナル イキナガラニシテ シンダ タマシイガ アツマルトキ ヒラカン―――つまり、二つの国を分かつ、八千代トンネルを、五つの水子の魂で繋ごうとしているんだ」
「そんな馬鹿な話があるか。迷信だぞ。天照の話と同じくらい信憑性に欠ける」
「ところが、僕と夏芽さんは、現に死層を通ってきた」
由宇奇は息を呑んだ。
「そして、死層ができているということは」
「拾は、そろそろここに来る」
「ご名答」
三人は、はっとして振り返る。そこには、派手な着物姿に長髪、右半顔に包帯を巻いた男、夜崎拾が居た。
「久しぶりぃ、由宇奇。思ったより元気そうで残念だよ」
「てめえ」
由宇奇の額に汗が流れた。あれだけ親友を救うと誓ったのに、自分の身体をボロボロにした張本人を目の前にすると、思っていた言葉も出てこない。
「残りの二人は初めましてだねえ、可愛い女の子は、一度すれ違ったことがあったか」
「まなみさんには、指一本触れさせない」
綺堂は一歩前へ出た。いつもと変わらない気迫である。しかし、由宇奇をあそこまでにした相手に、この、どう見ても普通の人間にしか見えない綺堂が、勝てるというのだろうか。
綺堂は右掌からふわっと青の炎を出して、それをお手玉のようにポンポンと顔の前で放ってみせた。
「僕はね、君の様なできそこないのクオーターとは違うんだ。有名な妖怪のハーフでね。君みたいなのにやられる雑魚の気がしれないよ。顔から溢れるほどの妖力、それがなんだい。腕に蟲を持つ男、それがなんだい。所詮君たちは、クオーターだ。クオーターという奴はいけない、変な思想を持ったり、変な格好をしたりする。偏見だがね。今まで出会ったクオーターで、マトモなのがひとりも居ないよ」
「俺がそのマトモなクオーターの一人目になってあげるよ」
拾は笑った。
「お兄さん、面白いね、名前は?」
綺堂は掌の炎をすっと隠した。
「綺堂壱紀。妖怪ぬらりひょんの息子だ」
*
「やっぱり秋人くんが居ないと、つまらないわぁ」
春代はため息を吐いた。ワイドショーはヒマつぶしにはちょうどいい。しかし、秋人が出始めてから、午後のサスペンス劇場を卒業してワイドショーを見るようになったのだ。そう考えると、今こうやって、ワイドショーを見ている意味などないのではないだろうか。
春代はせんべいを口に運び、ばくり、とかみついた。食べかすがこぼれる。どうせ自分で掃除するのだから、気にする必要もないだろう。
コマーシャルに入った。巻くだけで痩せる、ワンダーなんたら、という奴の宣伝をしている。巻くだけで痩せるなんて、有り得ない。人間は、食べて、運動して、何ぼの生き物だ。
不意に腹をつまんでみる。あっ、と思わず声を漏らした。
―――どうしよう、ちょっとお肉が付いてきちゃっているじゃない。
そう言えば先日、夏芽に言われたような気がする。
『そんなに食べてばっかりいると、太っちゃうよ』
その通りだった。確かに、毎朝ウォーキングをしているが、歳が歳だ、若いころとは違うのだ。
―――昔はスリムだったのになあ。
春代は鏡の前に立ってみた。いつの間にか、一回り大きくなっているような気がする。いい意味では無い。
―――冬吉さんに嫌われちゃうわ。
春代は一人、自己嫌悪に陥った。それから、思いつく。そうだ、これから歩いて、まなみの見舞いに行こう。由宇奇も入院しているというから、二人分の、お見舞いの品を買いながら。何が良いだろうか。やはり、花だろうか。最近のフラワーアレンジメントは、洒落たものが多い。しかも、安く手に入る。
―――突然行ったら、びっくりするだろうなあ。
春代は誰も居ない部屋で、にっこり笑った。さて、そう決まったら、支度だ、支度。
*
心配性の鷲島は、まなみの病室を訪れていた。
「先生にまで来てもらっちゃって、ほんとすみません。これでたかねのただの勘違いだったら、もう、なんてお詫びしたらいいか」
「いいんです」
鷲島は無表情のまま言った。
「ただ、お母さんと、お腹のお子さんが無事で、たかねさんが笑っていてくれれば、私はそれでいいんです」
「先生って、意外といい奴だよね!」
両親の前で安心してなのか、たかねは余りに失礼なことを言った。
「最初は、竹刀持って、生徒をビビらせて、圧力だけで屈服させてる悪い教師だと思ってたけど、夏芽の言うとおり、ちゃんと話してみたらいい人だし、良く考えたら授業も結構面白いし。あとは、もっと笑えばいいんだよ、先生」
「たかね、失礼よ」
まなみは笑った。
「すみませんね。悪気はないんですよ。こういう子なんです。なんというか、嘘を吐けないというか」
「たかねさんの言うとおりです」
鷲島は言った。
「元々笑うのが苦手でね。前、お前たちの担任をしていた、平沢先生みたいに、人に好かれることが、どうしてもできなかった。先生も人間だからね、得意不得意があってね。平沢先生が、優しさで人を笑顔にする先生なら、先生は、生徒たちを命がけで守れるような、強い先生になろうと思ったんだ。竹刀も、剣道をやっていたからその名残っていうのもあるが、それよりは、まずは形から、と思ってな。威厳を持つための。生徒からもおそれられるのは分かっていたが、そういう先生が、学校という大きな組織の中では一人は必要なんだよ。何かあった時の歯止めになる先生。先生はね、それを目指したんだ」
「ご立派ですね」
たかねの父が言った。
「平沢先生は、あのような過ちを犯されたけれど、鷲島先生でしたら、安心です」
「平沢先生を止めることが出来なかった、というのも、私の後悔の一つでもあります。仲のいい先生の一人でしたから。どうして、あんなことになってしまったのか。あの事件以来、そして、続いて起こった蟲男事件以来、少しでも嫌な予感があったら、行動に移そうと決めていたんです。たかねさんに、入院を勧めたのも私ですし、やはり今も、嫌な予感は消えません。この街は因縁のある街なんです」
「因縁?」
「昔、ここに女郎屋というものがありましてね、所謂、女性が身体を売る屋台です。ここは、戦後、売春が禁止された後も、容認され続けた“赤線”と呼ばれる地域でした。“赤線”では、米兵による女性の虐待などは常。女の死体が転がっていても、皆平然と、いつもの事だと蹴とばして歩いたと言います。そんな場所なんです、ここは。そして、これは噂話なんですが」
鷲島は一息置いた。
「女郎屋に、足蹴なく通う男がいましてね。羽振りもいいもんだから、気に入られていたんだが、いつしかその店の最も美しい一人の女に恋をして、駆け落ちをしたんだそうです。怒った店主が、町中探し回って、何せ、看板娘を取られたわけですからね。最悪、殺してもいい、という命令を下したそうです、あの戦後に、そんなことがあったんですね。しかし、二人は消えてしまったように居なくなった。最後に見た者は、八千代トンネルという、通学路に見える古いトンネルがあるだろう?あそこを渡っていくのを見た、という。しかし、渡ったところには何もない。二人も居ない。そこで、街ではこう噂されました、“妖怪にさらわれたのだ”と。昔から、八千代トンネルでは、神隠しが起きたりしており、不気味な場所だとされていました。だから、女は可哀想に、妖怪にさらわれたのだ、という事で、店主も渋々納得したのだそうです」
「妖怪とか、先生も意外とロマンチストなんだね。夏芽みたい」
「夜崎も、この話を知っているのか?」
「いいえ。夏芽は、妖怪を信じてるだけ。でもこの街に、そんなに気味の悪い話があるなんてびっくり。先生物知りだね」
たかねは笑った。鷲島は頭を掻きながら、
「……そういう、まあ、迷信なんですけど、嫌な噂が多い場所だから、所謂、いわくつきって奴ですか。だから、心配になったんですよ」
「ありがとうございます」
まなみは笑った。
「楽しいお話まで聞かせて頂けて、退屈な病院生活だと思っていたのに嘘みたいだわ。本当に、感謝しています」
「先生、ありがと」
たかねは鷲島の腕にしがみついた。鷲島は、老けて見えるが、実際は三十半ばあたりだという。たかねは腕に抱きつきながら、「鷲島もアリだな」などと無粋なことを頭に浮かべていた。
その時、部屋の外から爆音が聞こえた。皆、思わず身を伏せる。
「何事だ?」
たかねの父が、廊下に出て行こうとするのを、鷲島が止めた。
「私が行きます。みなさんは、ここで待っててください」
*
「ぬらり……ひょん?」
拾は一瞬怯んだように見えた。
「あの、ぬらりひょんが、子を作ったというのか」
「ああ。僕がその証明だ」
「嘘だ。ぬらりひょんは冷徹非道で、人間を決して寄せ付けない」
「ああ。その筈だった。僕の母に出会う前はね」
綺堂は再び、掌に青い炎を浮かべた。
「ぬらりひょんの子と、火間蟲入道の孫、どちらが強いか、ここで勝負をつけるか」
「綺堂さん、夏に言った、綺堂さんの能力は先詠みだっていうの、嘘だったんですか?」
「嘘じゃあないよ。でも本命はこっち」
綺堂は青い炎の玉をまたポンポンと顔の前で踊らせる。
「青い炎はオマケだって言ってましたよ!」
「ははは、それじゃあ、嘘を吐いたんだ、すまなかったね」
くくくく……。
拾は静かに笑った。
「俺はねえ、ただの火間蟲入道の孫と違うんだよ。霊感の強い家系の子孫との子だ。そんじょそこらのクオーターと一緒にされちゃあ困るねえ」
拾はさっと顔面の包帯を取った。途端、爛れた半顔から無数の火の弦が飛び出した。夏芽は思わず身をよじる。危うく、当たってしまうところだった。
「夏芽さん、下がって。それに触れると、燃える」
「綺堂、お前、ぬらりひょんの息子だってこと、俺に黙ってたのかよ」
「その話は後だ、由宇奇。お前は邪魔だ、下がってろ」
「言われなくてもだ」
由宇奇は夏芽の肩を抱くと、十歩後ろに下がった。
「だからあいつ、あんなに飄々としてたのか。自分の霊力が強いことを知っていたから……」
「あの、ぬらりひょんさんって、そんなにすごい妖怪なんですか?」
「馬鹿。妖怪の親玉だよ」
「え!」
「綺堂壱紀、あいつは妖怪の親玉の子だ。妖怪の世界で最も強い奴の、息子なんだよ」
綺堂は全身に青い炎を纏っていた。恐ろしい“波力”を感じる。窓も開いていないのに、激しく風が吹いている。夏芽は飛ばされないように、必死に由宇奇にしがみついた。
「夜崎拾、貴様、あの“タワゴト”が真実だと惑わされていたようだな」
「タワゴトじゃねえさあ、だって、八千代トンネルは現に、死層になった。あとは、もう一つ命があれば、もう一つ……その奥にあるんだよ」
「拾、貴様の目的はなんだ」
「俺の目的?それはただ一つ」
拾の半顔から弦が飛び出した。
「人間を滅ぼすことさ!」
拾から放たれた弦は、綺堂の青い炎によって容易に焼き払われた。
「滅ぼしたところで、多分、お前は何も得られない」
綺堂は冷たい目をしていた。夏芽はそれを見て、息を呑んだ。恐ろしい目だった。人間の目では無かった。蛇の様な、悪魔のような、
そうだ、彼は、妖怪なのだ。
その時、まなみの病室のドアが開いた。出てきたのは、鷲島だった。
「何事か!」
「先生!来ちゃ駄目!」
鷲島は拾を見て、顔色を変えると、ドン、と後ろ手に、病室のドアを閉めた。
「……唐沢さんには、指一本、触れさせない」
「先生!」
夏芽は思わず駆け出した。妖怪相手に、人間がかなう筈がない。拾はそれを見て、にやりとした。拾の炎の弦が伸びてくる。鷲島にではない、夏芽にだ。夏芽は唖然として立ち止まった。弦が目の前まで迫ってきているというのに、動くことが出来ない。スローモーションのように、確実に拾の攻撃は夏芽に向かっていた。
「危ない!」
夏芽は目を閉じた。前方に衝撃を受けて、吹き飛ぶ。然程の痛みは襲ってこない。目を開けると、夏芽の上に覆いかぶさるように、鷲島が倒れ込んでいた。
「先生!」
鷲島の背中は、肉を焼いた時の様な、じゅう、という音を立てて焼けていた。
「馬鹿者!」
綺堂は表情をこわばらせた。
「夏芽さん、その人を早く後ろへ!」
「は、はい!」
夏芽は、傷を負った鷲島を引きずるようにして、由宇奇の元へ戻った。鷲島は、夏芽を庇って傷を負った。しかも、あの恐ろしい妖力による、火傷を。命にもかかわるかもしれない。
「どうしよう……」
動かない鷲島を見て、夏芽は呆然とした。
「先生……」
「夏芽、このくらいの火傷なら大丈夫だ」
鷲島の傷を見て、由宇奇が言った。
「気を失っているだけだ。安心しろ」
夏芽は由宇奇を見上げ、大きく頷いた。
「今はそんなことより、あいつに集中してろ。いつこっちに来るかわからねえ」
綺堂はまなみの病室の前に立ち、拾の侵入を防ぎながら、由宇奇、夏芽、そして新たに増えた鷲島を守っている。例え妖力が強い半妖半人としても、限界があるだろう。
拾の火の弦が激しく舞う。その度に綺堂の身体から、青い閃光が放たれ、弦の根を経つ。拾は戦闘を楽しんでいる様だ。対する綺堂は、表情を一つ変えないまま、しかし、重荷が一人増えたのだから、必至であろうことは分かった。
火の弦が舞う。
青い炎が弦を防ぐ。
綺堂は自ら攻撃を仕掛けることはしなかった。ただ、来る攻撃を、受け流すように避けている。
「いいか、夏芽」
由宇奇が鷲島を抱きながら言った。
「綺堂が、ぬらりひょんの息子だとしたら、奴が持っている能力は余りに強大だ。下手に使えば、この街ひとつ、消してしまいかねない。綺堂が、守りに徹しているのは、綺堂の攻撃の所為で、この病院に被害が及ばないためだ」
「綺堂さんの力って、ぬらりひょんさんの力って、そんなに強いんですか?」
「ぬらりひょんは、こっちで言う、やくざのドンみたいなやつだ。金も、まあ”向こう”に金という概念がないから何とも言えんが、財力もあり、力もあり、仲間も多い。ぬらりひょんの歩いた後には死層が出来るという噂まである。妖怪でありながら、人間世界に出没し、人間に手を下すことさえできる妖怪、“向こう”の世界で、最も恐れられている妖怪だ。だから下手したら、というか、このままいけば」
由宇奇は息を呑んだ。
「拾は死ぬ」
由宇奇の目は、血走っていた。友人として、従兄弟として、拾を助けたいのだろう。しかし、拾にすらかなわなかった由宇奇が、綺堂に適う筈がない。綺堂は利己的な男だ。由宇奇の情などには流されず、正義の為に、拾を殺すだろう。
―――殺されちゃうの?
その時、夏芽の脳味噌に閃光が走った。
―――たすけて。
―――たすけて。
―――たすけて。
あの時、頭に響いた言葉だ。誰かが、助けを求めている。夏芽に、助けを求めている。まなみから生まれてくる少年だろうか、それとも、今まで奪われた命たちだろうか、それとも……。
「由宇奇さん、それじゃ駄目です」
夏芽は立ち上がった。拾の目を見る。拾の目は、拾の目は……。
泣いていた。
泣いているように見えた。
そうか、夏芽に助けを求めているのは、死人でも、水子でも、赤子でもない。夜崎拾、彼自身だ。夏芽は確信した。
「私が、私が止めます」
「何を言ってる馬鹿娘!あの青い炎に触れた途端、お前は消えてしまうぞ。そのくらい強い力なんだ。俺は半妖だからわかる」
「だからです」
「どういうことだ」
「妖怪には、怖いんでしょう、この攻防が。でも、私は人間です。悲しいんです、この争いが。拾さんは、助けを求めてるんです。いや、ずっと、助けを求めてたんです。やっと、助けられる日が来たんですよ」
「何を言っているんだ」
「それに」
夏芽は由宇奇に微笑んだ。
「綺堂さんは、私の言う事、何でも聞いてくれるんです」
そうか。由宇奇は理解した。妖怪世界が、彼女を受け入れた理由。妖怪の力を恐れない。何よりも誰かを“救おう”とする気持ちが強い。こんな日が来ることを想定して、彼女と綺堂を結びつけたのだ。夏芽を、綺堂の“歯止め”とすべく。
「やめろ!夏芽」
由宇奇が言うのと同時に、
「綺堂さん、拾さん、やめてください」
夏芽は二人に向かって言った。
「綺堂さん私、わかりました、トンネルの所で、私を呼んだ、声」
人差し指を指す。
「彼です」
拾の目は、確実に夏芽を捉えた。
「彼が、私を呼んだんです、たすけて、って。拾さん、本当は、助けてほしかっただけなんじゃないですか?本当は、こんなこと、したくなかったんじゃないですか?本当はただ、人に愛してほしかっただけなんじゃないですか?」
「おもしれえ、ことを言う嬢ちゃんだね」
拾は動じることなく笑った。
「ああ、そうかもしれないねえ、俺には、手を差し伸べてくれる奴なんか、一人もいなかったのさ。だから、無意識に、優しそうな君を、呼んじゃったのかもしれないねえ」
『じゃあ、代わってくれる?』
頭の中で響く。
『代わってくれる?』
苦しみを、受けつづける拾の運命、と夏芽の運命、代わってくれないか、彼はそう言ったのではないだろうか。
だったら、代わってあげてもいい。
私でいいのなら、それですべてが終わるのならば。
この争いが、この悲しい事件が、終止符を打ってくれるのならば。
夏芽は目を閉じ、願った。再び目を見開き、拾を見据える。
「拾さん、私、五人目になります」
夏芽は手を伸ばした。
「夏芽さん、駄目だ!」
綺堂の声は、もう、夏芽には届かない。
「拾さん、ずっと、私を呼び続けてたんです。だから夏にすれ違った時も、何処かで会った気がするとか、そんなことを言ったんです。私で代われるなら、拾さんの辛い人生が終わるのなら、私を使ってください」
夏芽は、救わなければいけないのだ。
目の前の人を…………。
拾はさっと夏芽の手を取ると、そのまま抱き寄せた。
「……人質、ゲット」
「え?」
拾は夏芽を盾に、綺堂に向き直った。
「これでもう、俺に何もできないねえ」
「卑怯だぞ!夜崎拾!」
夏芽は頭が混乱してしまった。
拾は、助けを求めていたのではないのか?
あの声は、確かに、拾だった……。
くくくく、拾が笑う。
「人殺しに、卑怯も何もねえだろう」
拾は夏芽の首に額から飛び出た弦を巻きつけた。
―――く、苦しい……。
「さあ、そこを退いてもらおうか、妖怪世界最強の妖怪の息子さん」
綺堂の頬を冷や汗が伝った。絶体絶命である。夏芽を見殺しに、あるかないかもわからない迷信を信じてまなみを守るか、まなみを見捨てて夏芽を守るか。それ以外に選択肢はあるだろうか。あるとしたら、強硬手段だ―――。
拾くん?
廊下の向こう側から、声がした。拾の表情が一気に和らぐ。振り向くと、そこには、夏芽の母、春代が両手に花束を持って立っていた。
「拾くん、よね?ほら、やっぱり拾くんだ!」
嬉しくなり駆け寄ろうとして、春代ははっと息を呑んだ。
「何してるの…?」
それから、拾が命を握っているのが夏芽であると気付く。
「なっちゃん!どういうこと…!拾くん、なっちゃんを放しなさい!何があったかは知らないけれど、なっちゃんは、関係ないでしょ?それとも何?悪口でも言われたの?悪口に屈するくらい、あなたは弱かったかしら!」
説教口調で春代は言った。
「拾くん!」
「もしかして…春代……ちゃん」
春代ちゃん?夏芽を縛る弦が弱まった。夏芽は拾を見上げる。幽霊でも見たかのような顔をしている。自分はもっと恐ろしい、妖怪の血を受け継ぐ種族であるというのに。
春代は切なげに言った。
「孤児院を出た後すぐに、拾くんが私の従姉弟に値する人だって知ったの。だから、迎えに行ったのよ、家族みんなで。でも、その時、拾くんはもう居なかった。ずっと、ずっと探してたのよ。何よ!心配させて!今更こんな登場、私の娘に手を出しての登場なんて、どういう事よ!」
「……娘?」
「そうよ。拾くん。その子は夜崎夏芽。私の娘。あなたの、大切な親戚よ」
拾は初めて、ちゃんと夏芽を見た。“向こう”の世界で会った時、見たことがある気がしたのは、養護施設で一緒だった、春代の娘だからだった。施設で唯一、拾を人間扱いしてくれた、あの春代の、娘だからだった。
「拾くん。あなたが何をしようとしているのかは、私にはわからないわ。でもね、今していることが、間違っている、これだけは言えるわよ。大人が子供を虐めていい筈ないでしょう。それは、あなたが一番わかっている筈。弱い者虐めはよくないわ。例え、なっちゃんじゃなくても、私、怒ってるからね」
春代は状況を把握しようともしないまま、一方的に言った。
「それに、私、これからお見舞いに行くの。ここでそんなことやってたら、邪魔だわ」
「春代ちゃん、俺は」
拾はもう一度夏芽を締め付けた。
「俺は、人間に“殺された”。だから、人間を滅ぼす。その為だけに、今まで生きてきた。連続妊婦殺害事件も、俺がやったことだ。俺は、殺人鬼で、悪魔だ。これから、八千代トンネルの霊道を使って、気の狂った妖怪たちをこの世界に傾れ込ませて、人間を滅ぼす。そう言っても、春代ちゃんは俺を、守ってくれる?あの時みたいに、養護施設に居た時みたいに、守ってくれるの?」
沈黙が訪れたかのように思えた。が、突然、春代は持っていた花を拾に向かって勢いよく投げつけた。
「馬鹿たれ!」
廊下に罵声が響いた。
「そんな人道に背いたことが許されるわけないでしょ!そんなこともわからないの!拾くん、拾くんが辛い人生を歩んできたのは分かったよ。でも他の人は関係ないでしょ!やるなら拾くんを見捨てて養護施設を出て行った、私をやりなさいよ!私を殺しなさいよ!どうして妊婦さんやなっちゃんが殺されなきゃいけないのよ!おかしいわ!」
言うと、春代は両手を広げた。
「さあ、やりなさい。私はこの日が来るのを待っていたのかもしれないわ」
少し寂しげな言い方だった。
「お母さん!馬鹿なことはやめて!」
「なっちゃん、夏芽。あなたの事は、心から愛しているわ。冬吉さんにも、申し訳ないと思う。突然こんなことになっちゃって。でもね、ずっと私、覚悟してたの。いつか、拾くんが、私を呪って、殺しに来たら、甘んじて受け入れようって。それが、私に出来る、拾くんを救える唯一の事だったら。養護施設で出来た、初めての大切な友達に出来る唯一の事だったら」
春代は拾の目を見て、静かに言った。
「さあ、拾くん、やりなさい」
『自分だって、ほくろがあったり、ゆうすけくんなんか、吊り目でしょ。なのにどうして、あなただけ虐められるのかしら。みんなそれぞれ、特徴があっていいと思うの』
『だから心配なのよ。あなたは化物じゃないでしょう。あなたは人間よ。そして、大切な私の友達でしょ』
『いつまでも、自分を責めないで、そしてもう二度と、自分を化物だなんて呼ばないで。約束』
忘れていた。大切な友人たちとの約束を、自分は忘れていたのだ。
由宇奇と遊んだ時間も、春代との約束も、全て、忘れていたのだ。
自分は、一人では無かったのだ――――――。
拾は夏芽を勢いよく突き飛ばした。夏芽はそのまま、春代の腕の中に抱かれる。
「今回は邪魔が入った。失敗だ」
拾は冷たい声で言った。
「今回が、最初で最後のチャンスだったというのに。なんてこった。過去の記憶に邪魔されて、俺はもう人一人、殺せやしない」
「それが正しいんだ。君は、罪を犯し続けた。四人もの尊い命を奪ったんだ。その事は決して許されない。だが」
「俺はもう、生きている資格がない」
「何を言っている、夜崎拾」
綺堂が言った。
「貴様には、友人がいたじゃないか。自分を叱ってくれる友人が、二人も。犯した罪は大きいが、生きている資格がないわけじゃない。これから償っていく方法は、幾らでもあるんだ。貴様が犯した一番大きな過ちは、大切な存在を、見失った事だ」
綺堂の後ろで、由宇奇が頷いた。
「俺は、最後まで、お前が元に戻ってくれると信じていた。だからあの日、一人で八千代トンネルに行ったんだ。拾、お前を、救いたくて……」
由宇奇は目に涙をためていた。
少しの沈黙の後、綺堂が言った。
「ここは、意外と、救いがある世界だよ、拾」
何故、今まで気づかなかったのか。
ずっと、すれ違ってきた。
もう、何人もの命を奪った。
妖怪世界をも狂わせてしまった。
もう、遅い。
「もう、遅いんだよ」
突如、拾の身体から炎が上がった。
「拾!」
「拾くん!」
駆け寄ろうとする由宇奇を綺堂が、春代を夏芽が押さえつけた。
「秋人、春代ちゃん、ありがとう」
拾はそう言うと燃え盛る炎の中で、一粒の涙をこぼした。
―――人間に戻れた―――
*
「何事ですか?」
今更駆けつけた看護士たちは、焦げ跡だけが残る現場を見て息を呑んだ。
倒れ込み泣きわめく人々、重症の火傷を負った男。
焼け焦げた床に転がる、古びた千羽鶴。
一体何が起こったのか、彼らに理解できる筈もなかった。
「小火です」
綺堂は静かに言った。
「小さな炎が今、消えました」
七、
父母が亡くなり、一時養護施設に預けられていた春代だが、叔母が春代を預かりたいと申し出たため、養護施設を出ることとなった。前向きな気持ちにはなれなかった。養護施設には、弟のように可愛がっている“拾”という少年がいたからである。拾は春代に懐き、いつも春代のあとをついて回っていた。春代はそれが嬉しくて、態と隠れたりして拾を泣かせた。
拾は虐められていた。顔半分を覆う包帯の所為で化物と呼ばれ、何をしなくても石を投げつけられ、蹴り飛ばされ、殴られていた。拾は決して泣かなかった。まるでそうされるのが当たり前であるように、耐え続けていた。春代は見ていられず、それを庇った。それから、拾は春代に懐くようになった。
最初は笑わない、つまらない子供だと思ったが、接していくうち、次第に春代のジョークに笑うようになった。春代が十歳、拾はまだ、五歳くらいだっただろうか。二人とも幼かった。
最後まで、叔母と施設長に、拾も一緒に引き取れないか、と駄々をこね続けた。しかし、他人の子供を引き取るのは簡単ではないらしい。裕福でない春代の叔母家では、拾を引き取る手続きが出来ない。どんなに頼み込んでも、皆、首を振るばかりであった。
施設を出る時、拾はいつも以上に泣いていた。泣けるだけましだ、春代に出会う前は、蹴られても殴られても、泣けなかったのだから。春代は拾に、人間という自覚を持って、強く生きていくことを約束させた。
拾が自分の従姉弟に値する人物であると知ったのは、その一か月後であった。
春代の母の父、つまり祖父の宣達は、祖母と結婚する前に、月読という女性と結婚し、子をもうけていた。月読が亡くなったため、祖母の神良と再婚し、春代の死んだ母、久美を生んだのだという。その月読の孫が、拾に当たる。久美と月読の子、辰吉は異母兄妹であり、久美の妹の久子も、同じく辰吉とは異母兄妹ということになる。つまり、拾と春代は従姉弟であったのだ。
急いで養護施設に連絡すると、拾はつい先日、脱走して今捜索願が出されているという。春代は自分の運命を呪った。施設で最も大切にしていた友人が従姉弟であり、そしてその友人を救う事が、出来なかったのである。
きっと拾は、春代を追って施設を出たのだ。若しくは、春代という後ろ盾を失って、孤独を感じてか、また再び虐めが始まったのか、いずれにしても、春代の所為で、拾は行方をくらましてしまった。
春代は一か月、食べ物ものどを通らない状態だった。叔母が心配して何度も声をかけてくれたが、春代の心は閉ざされていた。罪悪感のみがあった。拾を救えなかった。たった十歳の春代には耐えきることが出来なかった。
ふと縁側を見る。もしあの時、この事実がわかっていたならば、今頃また施設に居た時のように、二人で笑い合っていただろう。
拾は、春代を恨んでいるだろうか。それとも、まだ探し続けているのだろうか。
拾の唯一の理解者である、春代を……。
*
拾が養護施設に入れられると聞いた秋人は、何とか自分の家で引き取ることは出来ないか、と両親に懇願した。しかし、ただでさえ貧しい由宇奇家に、秋人を入れることは、生活が困難になり、秋人の為にもならないだろう、と由宇奇の父は判断したらしい。秋人の願いは却下された。
秋人は、拾が近所の住民たちから、避けられていることを知っていた。顔の腫れと、母親によるドメスティックバイオレンスの所為であろう。「あの子とは遊んじゃダメよ」の一人に、拾は入っていた。
秋人も、秋人の家族も、そんなことは気にしていなかった。秋人にとって拾は、唯一無二の親友であり、心置きなく遊べる相手だった。
別れの日が近づくにつれて、秋人は拾に会うのがつらくなった。大切に思えば思うほど、それを失った時の寂しさや切なさは計り知れない。それでも、父も母も失って孤独な拾を癒す為、秋人は毎日、かくれんぼやキャッチボール、出来る限りのあそびをして、心の中にある喪失感を誤魔化していた。
拾は秋人に、容姿の話をすることがよくあった。顔が恐ろしいと他人は言うけれど、自分は生まれてこの方この顔だから、どのように恐ろしいのかがわからなくて辛い、それが彼の一番の悩みだった。その度に秋人は、自分の腕から生える悍ましいとも言える無数の白い蟲を見せ、自分も同じだ、と諭した。
半妖半人というのは、妖怪であって、妖怪でなく、人であって、人でない。昔から、そう言った類の人種はいたが、差別を受け、皆山奥へ隠れてしまったという。
悪いのは自分たちではない、それを受け入れない世の中だ。最初にそう拾に教えたのは、秋人だった気がする。ほくろがあるように、戦場で腕を失った人がいるように、自分たちの存在は、もっと明確にされ、許容されなければいけない。そんなことを拾に言った気がする。
拾との別れの日、父が拾の顔半分の爛れに、包帯を巻いた。そのときやっと、ああ、やはり他人にこの現状を受け入れてもらう事は不可能なのだ、と悟った。大人がそうしたのである、子供なら尚更だ。
職員に連れられながら、何度も振り返る拾を見て、秋人は手を振りながら泣いた。大切なものを失った気がした。拾の父、秋男は、半妖半人の類である癖に見た目に“外傷”は無かった。同じ痛みを知るのは、秋人の周りには拾しか居なかった。温泉にも、プールにも行くことが出来ない。幼稚園にも行くことが出来ない。同じ境遇を持った、大切な友人だった。
拾の失踪の連絡が由宇奇家に届いたのは、拾を見送ってから二か月たった後だった。秋男曰く、その時初めて、貧しくても拾を家に留め置いておくべきだった、と後悔したという。由宇奇家は総出で、拾の捜索に当たった。しかし、拾を見つけることは、どうしてもできなかった。
秋人にはわかった。拾はきっと、施設で虐めに遭ったのだ。あの容姿の所為で、半妖半人である所為で、人間から仲間はずれにされたのだ。包帯を巻いても、何も解決しなかったのだ。可哀想な拾。秋人の唯一の理解者である拾。もう帰ってこないのか。
雨が降ってきた。秋人は、拾と二人で遊んだ公園に拾が来るのではないかとずっと立っていた。どんなに雨が強くなっても、秋人はキャッチボールをした野球ボールと、グローブを持って、ずっと待っていた。拾は、来るだろうか。
何時間経っただろう。いつの間にか、拾の隣に、秋男が立っていた。
『帰ろう』
秋人は泣きながら、何も言わずに頷いた。嗚咽が漏れる。拾は来なかった。
拾は、恨んでいるだろうか。拾を見捨てた自分を、恨んでいるだろうか。
殺したいと思っているだろうか。自分を地獄にたたきつけた、親友を。
それでもいい、と秋人は思った。
拾に殺されるなら本望である。
しかし、その前に、拾に伝えたかった。
拾がいなくなる前に、伝えたかった。
秋人が、拾を大切に思っていたこと。そして、今も、大切に思っている事。
一生、忘れないこと。
父親に肩を抱かれながらの帰り道、秋人はひたすら、泣き続けていた。どうか、拾はこの雨に打たれていませんように。
そんなことを願った。
*
行方不明となった胎児が、妊婦の遺体発見現場から見つかったと全国に知らせが入ったのは、拾が炎に自ら焼かれたあの日の次の日の事だった。赤子は皆、未熟児ではあるが、健康状態は良好だという。拾は、やはり、結局は自分の手で人間を殺すことが出来なかった。妊婦が死んだのも、全て胎児が生まれ出たことによる、失血死やショック死だった。それが最も残忍な殺し方である、と言われればそうかもしれない。しかし、子供の命を奪う事が出来なかったところから考えるに、自ら手を下す、という大事までは行えなかった模様だ。
赤子が見つかったことで、今回の事件は終止符を打たれた。
鷲島は、背中に重いやけどを負いながら、無事だった。皮膚移植をしないと、爛れは治らないと言われたが、そんな金もないし、必要もない、名誉の負傷だ、と言って断ったという。
たかねの母親、まなみは、元気な男の子を出産した。
「名前はね、光。命を懸けて救ってくださった、鷲島先生の光晴という字からとって、光にするわ」
まなみはうれしそうに笑った。最初はひらがなの名前にすると言っていたくせに、やはりまなみも、たかねの母だ。気まぐれである。
まなみは、廊下で何があったかを全く知らない。知らない方が良いのだ。鷲島が、悪人から夏芽とたかねたちを守った、というのが表向き。真実は、いつも近くて遠い所にある。鷲島も、何があったか覚えていない様だった。ただ、必死に夏芽に突進したことと、“男が刃物を持って”居た事だけは覚えている、と言っていた。
「人間の脳味噌は、有り得ないものを視た時に、ああ、これは“あれだ”と勝手に決めつけてしまう癖があるのだよ」
綺堂はその話を聞いて、笑った。
焼け跡については「犯人が油をまいて火をつけた」と説明しておいた。病院関係者は納得して居ないようだったが―――それもその筈、油の痕跡もなければ、天上と床が煤けているだけだったのだから―――それ以外説明のしようがないのだから、仕様がない。綺堂の説明に、仕方なく頷く、という感じであった。
こうして、事件は解決した。今回は綺堂の活躍というよりも、春代の登場が一番の鍵だったのだろう。春代の話からすると、春代も、霊力の強い人間であるようだ。それを受け継いだ夏芽も、同じなのだろう。
「だから夏芽さんは八千代トンネルを通ることが出来たんだね」
綺堂は納得した。
*
優子は、嫌な空気がすうっと消えて行くのを感じた。曇天は曇天のままだが、妖怪世界を覆っていた悍ましい雰囲気が、風が吹いたように遠くへ飛んでいく。優子はコーヒーに手を伸ばしながら、
「綺堂の坊や、上手くやったみたいだね」
と笑った。一口飲んだ時、ごんごん、とドアを叩く音が聞こえた。インターホンがあるというのに、こういう事をする奴は。
「あいよ、五月蝿いね」
優子は立ち上がって、玄関に向かった。玄関には、晴れ渡ったような笑顔の、辰之助の姿があった。
「姉さん!おいら、正気に戻ったでさあ!」
「そりゃあよかった。おあがりよ。コーヒーでも飲んでいきな」
辰之助は少し間を置いて、思い切って言ってみた。
「実は、コーヒー苦手なんでさあ。夏芽姉さんが、夏に、紅茶を飲みたいって言ったのは、おいらに気を遣って下すったからなんでさあ」
優子は笑った。
「そうかい。実はね、わかってたよ。でも、あんたに直接言ってほしくてね。だってあたしたち、そういう仲じゃないか。親友だろ?」
「姉さん……」
辰之助は優子に飛びついて泣いた。
「おいら、元に戻れて本当に良かったでさあ」
「ああ。あたしも嬉しいよ」
優子は優しく辰之助を撫でた。後頭部のぎょろ眼から、涙が溢れる。
「さあ、おあがり。紅茶は、どれが好きかい」
「この前飲んだ、レモンティってやつが、おいらの舌には絶品でしたぜい」
「了解したよ。今用意するからね」
辰之助は慌しく靴を脱ぐと、リビングの椅子に腰かけた。こうやって、辰之助と二人で話をするのも久しぶりだ。優子は人喰い女とは思えない、優美な微笑みを浮かべて、キッチンへ向かった。
「今日は特別なレモンティを仕入れてあるんだよ」
*
「綺堂さん」
病院の待合室で、春代が言った。
「拾くん、死んじゃったのかしら」
居間にも消え失せそうな声だった。
「拾くんが罪を犯したのも、人間を憎んだのも、全て、私の所為」
「そんなこたあ、ねえ。俺だって悪いんだ」
由宇奇が口を挟む。
「俺は、拾と同い年でな。養護施設に預けられるまで、家も近所で、従兄弟で、親友だった。なのに、俺は、俺たち一家は、奴を見捨てて、養護施設に入れた。そこから、全てが始まったんだ」
「秋人くんは、拾くんのお母さんのご親戚なのね?」
「ああ」
「私もね、父方の親戚で、拾くんとは従姉弟だったの。同じ養護施設に一か月居たことがあってね。彼とは、あなたが言うように、親友だったわ。でも、私は、私たちは、従姉弟だという事実を知らないまま、彼を一人養護施設に置いて、去ってしまった。その後、従姉弟だと判明して迎えに行ったけれど、手遅れだった」
「一度差し伸べた手を、放すことほど、重い罪はない」
綺堂は静かに言った。
「救いがあるように見せかけて、相手に光を見せておいて、再び突き落とされたその闇は、以前居た闇よりももっと暗く、恐ろしく見えるだろう」
「私たちの所為ね、拾くんが狂ってしまったのは」
「ああ」
「いや、違う」
綺堂の声に、由宇奇と春代は同時に顔を上げた。
「夜崎拾は、二度も救いの手を差し伸べられていた。その事実だけでも、十分彼を光に導くことが出来た。ただ不幸だったのが、彼がその光に気付くことなく、闇に向かって走り続けてしまったことだ。振り返ることなく、周りを見ることもなく。自分一人が不幸であると勘違いをして。悪いのは、彼と、彼の運命だ。君たちに、罪はない。寧ろ、彼に光を与えてくれたことに、一、半妖半人として、感謝する」
一礼する綺堂は、まるで拾の保護者だった。
「二人がいなければ、もう一人、無駄な犠牲者が出る所だった」
「妖怪世界も、救われたようだな」
由宇奇は言った。
「あの、神話は、本当なのか?」
「それは、わからない。意味すら不明な駄文だ。それを本気にして、こんな犯罪を繰り返してしまった夜崎拾、哀れで狂気に満ちた、淋しい、一人の男だよ」
「余程、人間に恨みがあったんでしょうね」
夏芽は言った。
「こんなに拾さんの事、愛してくれてる人、居たのに。それに、ちゃんと向き合えば、これからも、愛してくれる人ができたはずなのに」
夏芽の胸は締め付けられた。拾の犯した罪は許されるものでは無い。しかし、拾の過去は、余りに悲しすぎるものだった。
「でも君たち、悲しんでいる場合ではないよ」
綺堂は微笑んだ。
「ほら、もうすぐだろう」
夏芽、由宇奇、春代、綺堂は、病室の入口に目をやった。がらがらがら、とドアが開く。病室から出てきたのは、小さな赤子を抱いた、美しい元妊婦の姿だった。
「女性は、女神に等しいね」
綺堂は笑いながら言った。
「新たな生命を生み出す力を持っている。痛みを伴い、その痛みに耐えぬいて、その生命を産み落とすのだ。こんなに神秘的で、解明されていない事象はないよ。生命を作ることは、人間が一生かかっても出来ないだろう。出来たとしても、こうやって誕生した生命の輝き程、眩しいものはない」
まなみに続いて、たかねが出てきた。
「たかね!」
「夏芽!」
二人は抱き合った。
「良かった!今日無事退院できるんだね。本当に良かった」
「皆が守ってくれたおかげだよ。鷲島先生も、あんな重傷を負いながら、私たちを守ってくれた。本当に、感謝してるよ、ありがとう」
「光も喜んでるわ」
まなみが、赤子を包んでいる白い布をさっと避けて、まだこぶしぐらいの小さな顔をのぞかせた。
「笑ってる!」
「夏芽の顔が面白いんだね」
「どういうことよ!」
「まなみちゃん」
春代は言った。
「難産だったって聞いたわ。身体はもう大丈夫なの?」
「大丈夫よ、春代さん。この歳で子供を産むことになるなんて、思ってもみなかったけれどね。でもいいわね、新しい家族って」
「私も、夏芽を生んだ時を思い出すわ。産まれる直前までずっと、男の子だって言われていたのよ」
春代は意地悪く笑った。
「だからこんなおてんば娘に」
「あら、うちのたかねと一緒」
「ちょっと」
「ふたりとも!」
夏芽とたかねは同時に言った。気の合う二人だ。顔を見合わせて笑う。
下駄の音を響かせながら、綺堂が近づいてくる。
「さて、僕も新たな生命の誕生とやらを祝福してやろうか」
綺堂が顔をのぞかせた途端、赤子、光は泣き出した。
「ど、どういうことだ」
「綺堂さん、新たな生命は綺堂さんを拒んでるようですよ」
夏芽は笑った。
「そんな筈が。僕はなかなか顔が整っていて、女性からも男性からも人気があるほうなんだぞ」
「自分で言うか、このナルシスト。どれ、俺が見てやる」
やはり光は泣きやまない。
「いやあ、男嫌いなようだな。この赤子、光って名か。女好きに成長するぜ」
「失礼なこと言わないでくださいよ、由宇奇さん!」
夏芽は一喝した。
「ちょっと、院内では静かに!」
看護士が怒鳴った。皆は肩をすくめる。
「生命の誕生にも、色々と困難があるようだ」
「ちょっと綺堂さん、縁起の悪いことを言わないようにしてくださいよ」
先程の看護士がこちらを見ている。
「さて、そろそろ行こうかな」
夏芽は慌てて言った。
病院の外まで、たかね一家と一緒に歩くことにした。たかねは夏芽に近寄ると耳元で、
「鷲島先生って、意外とイケメンだと思わない?」
「はあ?」
たかねはにんまりと笑った。
「私のこと心配してくれたり、夏芽を命がけで守ってくれたり、生徒たちの為なら命をも投げ出す覚悟だとか言ったり、強いし、顔もよく見ればイケメンだし、そんなに歳も行ってないし、次は鷲島先生、狙ってこっかな」
「あんたね、教師と生徒の恋愛はご法度よ」
「一回経験してるから平気!それにこんなに私のこと心配してくれるってことは」
たかねは手を組み合わせて祈るようなポーズをとった。
「きっと私に気があるのよ」
「違うと思います」
夏芽は即答するが、たかねは聞いていない。
「明日ね、早速お見舞いに行くの。最初は一人だと心細いから、夏芽も一緒に来て!ね?いいでしょ?」
たかねは夏芽の腕を引いた。
「私から宮本先輩をとっておいて、嫌だとは言わせないわよ」
そう言えばそんなこともあったか。夏芽は悉く、たかねの恋人や恋心を引き裂いてきた。故意にそうしているのではないが、結果的にそうなってしまっている。たかねは、夏芽が引け目に感じていると知っていて、上手く突いて、利用しようとしているのだ。
夏芽は溜息をついた。
「また私に取られても知らないわよ」
「大丈夫、夏芽には綺堂さんがいるから」
たかねは笑った。
「ち、違うって!綺堂さんは」
「僕が何かい?」
綺堂が突然二人の間に割って入ってきた。
「いや、何でもありません!」
夏芽は慌てて言うと、
「明日、先生のお見舞いね、分かった、行くわ」
「ありがと、夏芽。流石親友」
たかねはにやりとした。
*
次の日、たかねと夏芽は鷲島の見舞いに向かった。たかねは、真赤な薔薇の花束を持っていた。
「お見舞いに薔薇って……どうなのよ」
「愛を伝えるためだもの、いいでしょ?」
「先生の傷を労ってのお見舞いでしょ。少しくらい配慮しなさいよ、色くらいは」
「わかってないわね。体育系男子はね、派手な位のアプローチが丁度いいのよ」
たかねは高らかに笑った。
「鷲島先生のハート、私が掴んでみせるわ!」
夏芽は溜息を吐いた。
病室に着き、ドアを叩く。「どうぞ」という鷲島の低い声が聞こえる。夏芽は突然ぎゅっと胸を締め付けられながら、たかねに続いた。鷲島が傷を負ったのは夏芽を庇ったからである。しかし、今日見舞いに来た理由は、不純なものであるのだ。病室のドアを開けると、鷲島は背中の傷を庇ってうつぶせに寝ていた。
「ああ、唐沢と夜崎か」
鷲島は笑顔もなしに言った。
「わざわざ、見舞にきてくれたのか、ありがとうな」
「いえいえ!私たちを守ってくれたんですから、当然です」
たかねははつらつとして言った。
「先生、お怪我の具合は」
夏芽が言うと、
「ああ、明日にでも退院できるそうだ」
鷲島は窓の外を見た。
「また、学校に行って、お前たち生徒をしばくことが出来るな」
「先生は生徒をしばくんじゃなくて、守るんでしょ?」
たかねが笑った。
「先生に早く復帰してもらわないと、私困るから!」
たかねは花束を差し出す。
「これ、お見舞いの花束です。花言葉は、後で自分で調べてくださいね」
「ああ、わざわざありがとう」
鷲島は言った。起き上がれそうになかったので、たかねは鷲島の顔の横に、態々花束を置いた。鷲島は特に気にする様子もなく、二人を見て、
「しかし、無事でよかった」
と言った。
「唐沢には話したが、この地域はやはり因縁のある地域でな。これからも、何かと不幸が怒るかもしれん。先生はこの街生まれ、この街育ちだが、悍ましい事件を沢山見てきた。君たちも、そうなるかもしれん」
「因縁?」
「赤線地帯だったんだって。さっき話したでしょ」
赤線、というのは、戦後、売春が禁止された後も、暗黙の了解として風俗が黙認されていた地域である。
「それだけならばいいのだが、唐沢に言ったあの話には続きがあってな」
夏芽はある程度たかねから聞いていたので、何となく内容は知っていた。女郎屋から、妖怪に連れ出された女がいた、という話だ。たかねはその話をしながら、
『妖怪を信じているなんて、鷲島先生意外とお茶目!』
と喜んでいた。
鷲島は続けた。
「その女は、妖怪との間に子を授かったらしい。その子供は、人間世界と妖怪の世界を行き来しながら、今も生き続けているという。この街には、妖怪世界との連絡通路があって、そこを行き来できるものが居るため、妖怪と人間の間の子の様な存在が生まれ続けているらしい。この街には、そういう存在がいるという噂がある。今回の事件も、蟲男の事件も、その前の平沢先生の事件も、先生はどうしても、妖怪が関係しているような気がしてならないんだ」
夏芽はぎくりとした。流石、生まれてこの方この地を離れなかった鷲島である。この地の歴史や噂については、詳しいらしい。確かに、この街には、八千代トンネル、という、妖怪世界と人間世界をつなぐ連絡通路があって、それを通って綺堂はこちらに来、由宇奇や夏芽はあちらに向かう。通路を通れる人間と通れない人間がいて、通れない人間が偶に迷い込んでしまうと、向こうの妖怪たちは喜んで我先にと驚かせに回り、上手に人間世界に帰すのだという―――夏芽も一度、経験している―――。
「しかし、そんなの噂にすぎない」
鷲島は言った。
「そういう噂を信じたり、噂を利用して、犯罪を犯したり、危険なことをしている人間が、この場所には多い、という事を先生は言いたいんだ」
「え?じゃあ先生は妖怪を信じているわけじゃないんですか?」
夏芽はきょとんとした。鷲島は初めて、はっはっは、と笑った。
「こんな大人にもなって、妖怪を信じるなんて、そんなのおかしな話だ。それに、妖怪なんかより、人間の方が怖いに決まっている」
鷲島はまた怖い顔に戻った。
「妖怪と言う名の、人間をこの街は作ってしまっているのかもしれない」
―――世の奇妙は人である。世の異常は人である。―――
綺堂の声が聞こえたような気がした。人間は、なんでもしてしまう。何でも作ってしまう。だから凄い、だから怖い。
夏芽は鷲島のまともな意見を聞いて頷いた。
「私もそう思います」
「嘘つけー。夏芽は、妖怪はいるって、力説してたもん」
「妖怪はいるけど、悪いことはしないってこと」
「やっぱり信じてるんだ!」
「夜崎は面白いな」
鷲島は言った。間顔だったので、怒っているのかと思ったが、そういうわけではないようだ。
「先生、この世界から、“悪い妖怪”がいなくなると良いね」
たかねが言った。
「夏芽の言葉で言うなら、“妖怪を利用して悪事を働く人間”かな」
たかねは、馬鹿なようで、よくわかっている。夏芽は感心した。
妖怪は何処にでもいる。人の心の中に居座って、夢を与え、絶望を与える。どちらに感じるかは、その人次第だ。拾の場合、絶望だけを見て生きてしまった。ほんの一寸先にある希望に、気付くことが出来なかった。
この世は儚い。
拾が一瞬で消えてしまったように、四人の妊婦の命も、一瞬で消えてしまったに違いない。
生きているという事は、それだけ尊いことなのだ。
一日一日、噛みしめて生きていこう。
夏芽は改めて思った。
病室の窓の外は、あまりに当たり前の街を映し出していた。いつもの学校、いつもの通学路、公園、八千代トンネル、家々が密集する住宅街、にぎわう繁華街、行き交う車、一時間に一本しか通らない電車のために敷かれた線路。なんて当たり前で、美しい光景だろう。
鷲島も、きっと同じことを思っていたに違いない。
夏芽は、目の前に横たわる、力強い背中を見て思った。
「命を懸けて、生徒を守る」
平沢が出来なかったことを、鷲島はしようとしているのだ。
たかねは、その平沢の影に、鷲島を重ねているように思えた。
首元にはまだエメラルドがきれいに光っている。
明日も、たかねは鷲島に、その事を怒られるに違いない。
しかし、もし鷲島がエメラルドをたかねから取り上げることができる日が来るとしたら、それは、たかねが平沢を忘れて、前へ進むチャンスになるだろう。
「私、やっぱり、応援するよ」
耳元で夏芽は言った。
たかねはにっこり笑って、
「ありがと、親友」
と言った。
鷲島のがっしりとした背中は、もう何も言わなかった。
籠女
連続妊婦殺人事件から、一か月が経とうとしていた。梅雨が始まる。そして向こうの世界では、祭りの準備が着々と進められていた。
夏芽は由宇奇と綺堂と共に、妖怪の世界へ来ていた。以前とは違い、元に戻った妖怪たちの姿は、何よりも美しく見えた。
「やっぱり、妖怪はこうでなきゃいけねえなあ」
由宇奇は言った。由宇奇の右手に、あの時の古びた千羽鶴があった。
「何もしないくせに、祭りが好きで、人を脅かすのが大得意。でも本当は」
「お人よし」
穏やかな声に振り向くと、人喰い女の波奈野目優子とぎょろ眼の辰之助が並んで立っていた。
「皆、待っていたよ」
「待っていたって、しょっちゅう来ているじゃないか」
「違うよ、今日は祭りの初日なんだ。派手に遊ぼうじゃないかい」
「人喰いにしてはめずらしい」
綺堂は腕を組んだ。
「何かいいことでもあったのかい」
「別に何もないよ。ただ、今日は辰之助が、あたしの紅茶のセンスを褒めてくれたのさ。アップルジンジャアティって奴をだしてやったんだけどね」
「あ、私、それ大好きです」
「あら、じゃあ、夏芽ちゃんも後で家においでよ」
優子は優しく笑った。
暫く五人で、祭りの準備にせかせかしている中央通りを歩いていた。ふと夏芽は、事件の事を思い出し、目を伏せた。
「拾さん、死んじゃったんでしょうか」
「夏芽さん、人はね、あそこまで炭になるには、凄く時間がかかるんだ」
綺堂は即答した。
「死んじゃいないよ」
「本当ですか!」
「ああ。だって、床と壁に煤が付いていただけで、燃えカスなんかは見つからなかっただろう?拾は子供を持ち主たちに帰したあと、高跳びをして、何処かに逃げているに違いないよ。四人もの命を奪っておいて、酷い話だ」
「でも、拾さんが、直接手を下したんじゃないんですよね?」
「ああ。拾の恨みによる霊力に引きつけられた腹の子が、自ら這い出てきたんだ。だから直接手を下してはいないが、死んだ母親、いや、きっと直後は死んでいなかったであろう母親を放置して、赤子だけ連れてその場を離れたのは、重罪だよ。“向こう”の世界だったら、死刑だろうね」
「……死刑、かあ。でも、それじゃ、拾さん、可哀想な気がします」
「安心しろや、夏芽」
由宇奇が笑った。
「拾は死刑にしたって死なないような男だ。皮肉屋で、うん、そういえばだーれかさんに似ているところがある。人を見下して喋る口なんか、そっくりだ。目つきまでも似てやがる。こう、吊り上っててな」
「僕のことを言っているなら殴るぞ」
「おっと、聞こえていたか糞野郎」
綺堂はふん、と鼻を鳴らした。夏芽はそんな二人を見て、あの時、由宇奇が言った事を思い出した。
「ぬらりひょんは、こっちで言う、やくざのドンみたいなやつだ。金も、まあ”向こう”に金という概念がないから何とも言えんが、財力もあり、力もあり、仲間も多い。“向こう”の世界で、最も恐れられている妖怪だ。だから下手したら、というか、このままいけば、拾は死ぬ」
綺堂は、拾を殺そうとしていたのだろうか。今となっては、そんな風には思えないが、最悪の状態に陥った時、きっと綺堂は、拾を殺して夏芽とまなみ両方を守る策を選んだだろう。綺堂が、遠い存在になっていくような気がした。この世界のやくざのドンの息子。それが、綺堂壱紀。
「綺堂さん」
夏芽は寂しくなって言った。
「綺堂さんは、どうして、ぬらりひょんさんの息子だってこと、黙ってたんですか?みんなに。由宇奇さんにまで」
綺堂は、ははは、と笑った。
「聞かれなかったからだよ」
「聞かなかったか、俺。お前の親はどんな妖怪かって」
「それは言われたことがあるなあ。でも、どんな妖怪か、と聞かれたから、凄い妖怪だ、と答えた覚えがある。誰か、とは聞かれなかったからね」
「屁理屈を言うな」
由宇奇が小突く。なんだ、そんなことか。夏芽は安堵した。もし、綺堂がその妖怪の息子であることが、この世界に於いて重大なことだったらどうしよう、夏芽はそんなことを考えていた。もしそうだったら、いつか、今までの様に会えなくなってしまうかもしれない。
「よかった」
言葉がこぼれた。それを聞いてか聞かないでか、綺堂は扇子を取り出して、言った。
「親が誰だとか、親戚が誰だとか、そんなことは生きていく上で、そんなに大したことではない。拾の祖父が例え妖怪じゃなかったとしても、拾の父が例え霊力の強い人間の子孫じゃなかったとしても、拾の人生が変わっていたかどうか、それは今となってはなんとも言えない。僕に関しては、親がぬらりひょんだからって、虐められたことも、尊敬されたこともない。僕は僕であって、ぬらりひょんの息子だという事はおまけでしかない。拾も、もっと早く、それに気付くべきだった。親に振り回され、妖怪の力に振り回され、他人の目に振り回され、彼はいらぬ苦しみを抱いていた。誰も想像だにしない苦しみだ。だがきっと、夏芽さんのお母さんと、由宇奇と、そして夏芽さんのお蔭で、少しは代われたんじゃないかな。君たちが彼を救ったんだよ」
「へ。偉そうなことを言いやがる」
由宇奇は煙草を加えながら言った。
「拾のやつ、また、俺たちの前に姿を見せてくれる時が、来るだろうか。来たら、一発ぶん殴って、それから言いたいことが、山ほどある」
「僕もだ。まずは、僕の人生観を語る事から始めるだろう」
「……拾、一生お前の前には現れねえわ」
由宇奇は苦笑いした。
「もっと早く、お母さんや由宇奇さんに、会ってればよかったですね。こんな事件を起こす前に」
「ああ。思えば彼の人生は、擦れ違いの連続だった」
綺堂は物憂げに言った。
「待てなかったのだよ。自分の運命を。だから、走り続けてしまった。アキレス腱を切っても、足をくじいても、膝を骨折しても、気付かずに、走り続けてしまったんだよ、彼は。止まることを知らなかった。だが、今回の事件で、君たちが、彼に止まることを教えたんだ。休んでいいんだと。立ち止まって、振り返っていいんだと」
「振り返っちゃいけないんじゃないんですか?」
「それは黄泉の国と八千代トンネルだけだ」
綺堂は笑った
「あ、そういえば」
夏芽は思いついたように言った。
「綺堂さんと由宇奇さんって、仲がいいですけど、何でですか?拾さんと由宇奇さんは従兄弟で幼馴染だからわかるけど、綺堂さんと由宇奇さんの接点がわからないです」
「ああ、それはね」
綺堂は由宇奇を横目で見ながら語り始めた。
「もう十年ほど前になるか、由宇奇が家を飛び出してな。親父さんのしつけが厳しかったんだろう」
「そういう言い方するな」
「まあ、大体あっているじゃないか。とりあえず、親父さんと意見が食い違って、家を飛び出して、なりふり構わず、こちらの世界に来たんだ。それで、トンネルの所で煙草をふかしているのを僕が見つけてね。同い年くらいだったから―――あのころは若かったなあ―――声をかけてみたんだ。そうしたら、泊まる場所も、金もないときた。仕方なく、あの頃の僕はまだ若くてお人よしだったからね、由宇奇を家に招いてやったんだ」
「俺は行きてえなんて一言も言ってねえぞ」
「ははは。そうだったか。まあ、半ば無理やりね、家に連れ込んだんだ。今にも死んでしまいそうな顔をしていたからな。本当は、妖怪にでも食われて死のうとでも思ってたんじゃないか?だが、残念ながら妖怪たちは、由宇奇が想像していたよりも陽気で、半妖の由宇奇には気さくに接するもんだから困ってしまったんだろう。それで座り込んで途方に暮れていたんじゃないかな」
「……大体合ってるからいい。続けろ」
「暫く由宇奇と同居をしてたんだがな、全く死んだ目をしていてね。今にでも二階の窓から飛び降りてしまいそうだったよ。そんな時に、人間世界である事件が起きてね。由宇奇の友人が殺されかけたんだ。由宇奇は憤怒して、人間世界に帰るんだが、報道では“被害者は不良だった”とか“麻薬の売人とつながっていた”とか、ガセネタが飛び交っていてね。再び憤怒するわけだ」
「そこで俺は、ちゃんと真実を記事にする記者になって、この世界を変えてやろうって思って、綺堂の家を出た」
「まあ、僕たちの出会いはこんな感じだ」
綺堂は扇子で顔を煽いだ。
「そうなんですか。綺堂さんって、やっぱり優しいんですね」
「何処がだよ。こいつ、俺を家に入れたはいいが、死にそうな俺に食べ物ひとつくれず、一日中放っておいて、それが一週間、死ぬかと思ったぞ」
「いいかい、由宇奇。欧米では、ご飯は食べたい時に食べるんだよ」
「そういう状態じゃなかっただろうが」
由宇奇が抗議する。夏芽はそんな二人を見て、自分とたかねを重ね合わせていた。夏芽とたかねの出会いも、偶然に偶然を重ねたようなものだった。似ても似つかない二人は、高校二年間を共にし、今年、同じ大学を志願している。……たかねの場合は無謀とも言える挑戦だ。しかし、同じ大学に行けたらいい、と夏芽は思っていた。
中央通りを抜ける。少し薄暗い綺堂の家の前に来て、立ち止まる。
「今日から祭りか。ああ。気分が悪い」
綺堂は肩を落とした。
「いいじゃないですか、お祭り、楽しみ」
言いながら、夏芽は綺堂の肩に触れた。その時、閃光のように夏芽の脳天をある記憶が光った。
幼い夏芽は一人、泣いていた。夏祭りに来たのに、親と離れて、見知らぬ所に来てしまったのだ。曇天の空。生臭い臭い。
『ええん、ええん』
夏芽はしゃがみこんで、泣いていた。涙で歪んだ目は、流れる人混みをお化けのように夏芽に映す。その度に夏芽は息を殺して、ただ母が迎えに来るのを待って泣いていた。
『どうしたの?』
夏芽は顔を伏せたまま、
『お母さんが来ないの』
『それはね、おかあさんはトンネルの向こうに居るからだよ』
『トンネルなんて、通ってないもん』
『通ったんだよ。だからここにきてしまったんだ。君、名前は?』
『夜崎夏芽』
『そう。可愛い名前だね。僕が、お母さんの所に連れて行ってあげるよ』
青年は手を差し出した。青年は夏芽より一回りも二回りも年が上に見えた。夏芽は青年を見上げると、
『知らない人について言っちゃだめだよって、お母さん言ってた』
と言ってまた泣き出した。
『知らない人じゃないよ』
青年は笑った。
『僕は知らない人じゃないよ、夏芽ちゃん』
『ほんと?』
『お母さんの知り合いなんだよ』
『証明できる?』
『うん。だからほら、手をつないでごらん』
夏芽は青年の手を取った。途端、街は華やかな、今までいた街に戻っていた。青年を見上げる。夏芽の手をつないでいたのは、青年では無く、春代だった。
『どうしたの?なっちゃん』
夏芽は少し間を置いて、
『ううん、なんでもない』
と言った。
夏芽が五歳の頃だった。
「綺堂さん!私、思い出しました!」
「何をだい?」
「綺堂さんと、初めて出会った日の事!」
「去年の夏の事かい?」
「違います、もっと、十年以上昔の話ですけど、私、この世界に迷い込んだことがあるんです。その時に私を向こうの世界に戻してくれたのが」
「ああ……」
綺堂は懐かしそうに目を細めた。
「やっと思い出してくれたんだね」
「綺堂さん、何処かで会った事がある気がしたんですよね。それに、初めて会った時に、私の名前を知っていたのも、不思議に思いました。私、何となくあの時の事を覚えていたんですね」
「いつ僕のことを思い出してくれるのかとヤキモキしていたよ」
綺堂は今までにないくらいの微笑みを見せた。
「旦那あ、そろそろ祭りが始まりやすぜい」
後ろから辰之助が言った。
*
「旦那、上手くいかなかったみたいですなあ」
「ああ」
拾は煙草屋で、いつものように寛いでいた。
「やっぱり邪魔が入ったよ」
「綺堂の旦那ですかい」
「いや、奴はどっちでもいい」
「へえ?」
「……友人、という奴にねえ、今回は邪魔をされた、いや“救われた”かなあ」
「そうですかい。それならよかった」
煙草屋の親父は微笑んだ。
「人間、何処かで救われなきゃいけねえ。旦那も、救われない人生なんて、もう終わりにしやしょうや」
「そうだねえ」
拾は葉巻をふう、とふかすと、
「今晩は祭りかい」
と言った。
「今晩から、騒がしいですぜ、旦那」
「騒がしいのも、嫌いじゃなくなってきたよ」
「へえ、旦那が?」
「頭の嫌な雑念が消える」
「そうですかい。あっしの一人息子も、そう言ってくれりゃあいいんですがねえ」
「あんたの息子も、祭りが嫌いなのかい?」
「ええ、大の嫌いで、祭りの期間にゃ家から出んのですわ。引きこもりってやつですかねえ」
「まあ、気持ちは分かるよね」
拾は空を見上げた。花火が上がっている。
「でも今日は、街に繰り出してみるとするよ、親父。取り返さなきゃならないモノもあるからね」
煙草屋の親父が振り返ると、そこには葉巻の吸い殻だけが残っていた。
「また、無銭喫煙だあ」
親父は笑うと、空に高々と上がる花火を見上げた。
*
綺堂たちは、支度をして、再び中央通りを訪れていた。久しぶりの人混みが心地よい。
その時、背後から歌が聞こえた。わらべ歌だった。
かごめ かごめ かごのなかの とりは
いつ いつ でやる
よあけの ばんに
つると かめが すべった
うしろの しょうめん
だあれ
皆同時に振り向く。“かごのなかのとり”は、ついに、その籠から解き放たれたようだ。派手な着物姿に長い髪、顔に綺麗に巻かれた、真白の包帯。
「大事なものを、返してもらいにきたよ、お兄さんたち」
由宇奇は千羽鶴を掲げた。
「待ってたぜ。持ってけよ」
綺堂はふっと笑った。
うしろの しょうめん
だあれ
籠女……妊婦を表す造語。遊女の事を表すとも言われている。
かごめかごめ……子供遊びの一つ。「子をとろ子とろ」と伝わる地域もある。
籠女了




